ユーモアと笑いについて
(1972年7月 同志社大学広報)
一
ある時、ユーモア・クラブなるものに招ねかれて、「ユーモア」について語らせられ大汗をかいたことがある。なぜわたしが選ばれたか知らないが、とにかくユーモアについて講釈しなければならない羽目におちいったのである。若い人が多かったように記憶するが、お年よりもいられたかも知れない。皆一せいにノートに、私の言ったことを一言一句書きもらすまいと、真面目な顔で筆を走らせているのである。こちらは面白ろおかしく、あれでもかこれでもかと話すが一向に笑ってはくれないし、なお一層真顔になって、「人問はどうして笑うのでしょうか?」と質問してくる。小生説明すればする程、苦しくなって大汗をかき、二度と再びどんなことがあってもユーモア・クラブとか、「ユーモア」について話してくれという手には乗らないぞと心にきめた次第である。ところが過日ひょんなことで、毎日テレビの「お浜・小浜の千客万来」という日曜午后の番組で三〇〇回目で終了記念にというので、「笑い」について最後に語ってくれとたのまれて出演した。こともあろうにアナウンサー氏が何をまちがえたか、「同志社大学神学部の笑いの研究家、樋口先生・・・・・・」と紹介されて、御当人がピックリ、それを運悪く編集子にみつかったのが運のつきで、このような題で書かされる羽目に追込まれたという訳である。実はその時、一時間半の講義位の原稿を用意していったのだが、私に与えられた時間はわずかに一分、アッという間に終ったという次第。これから書く分は、その時の言いそこなった分である。
あえて自戒の禁を犯して書いてみることにした。
二
本当を言うと、小生は笑いの研究家でもなんでもなくて、学内にも文学や哲学の先生方の中で、これを専門に研究されている方もあり、私も存じあげている方も多いのである。ただ、筆者は多少人間の深層心理について興味をもち、特に人間の喜怒哀楽に関係する感情について関心をもっているものについて、「笑い」というものは見逃がせない研究題目であるにはちがいない。
例えば、笑いについてであるが、実際に研究書について当ってみると、ギリシヤ以来、意外な程に数は少い。身近に手に入るものとしては岩波新書にあるマルセル・パニョルの 「笑いについて」(鈴木力衛訳)があるが、彼は劇作家であって、心理学者とか哲学者のそれではない。第一にこの少なさには驚きであった。そして、考え進む程に「人間は何故笑うか」ということは本当のところ未だわからない部分が多すぎるのだということを発見した次第である。同じことを言っても、大笑いすることもあるが、全くぜんぜん可笑しくない場合だってあるので、これらのことの或る部分はどうしても神秘に属しているのではないかとさえ感じられるほどである。
三
ともあれ、普通人間はどんな時に笑うのであろうか。私は「人間が自分の悲劇性についての自覚がない時」その時が一番おかしいのではないかと思っている。この悲劇はどこまでも一時的な悲劇性であって、回復不能の悲劇でないことが望ましい。あえて、この回復不能の悲劇に挑戦すれば、それは世にいうブラック・ユーモアということになろう。早い話が自分の顔に飯粒がついていて、それを知らないで他人に説教しているというのはお笑いである。即ち、自分の顔に飯泣がついているという悲劇の状態を自覚しないでいるその存在の仕方がおかしいのである。
これが自分で人から笑われることを予期して、自分でわざわざ飯粒のついているのを知りつゝ公衆の面前に出ても人々は笑わないであろう。なぜなら、彼はそれを自覚しているからである。また、その悲劇性も別にたいして深刻なものではなく、飯粒をとりさえすればまた元の通りの状態になるという代物である。それが、身体的な欠陥などの回復不能のものであれば笑うことはしないのである。笑いというものは面白いもので、笑われる人の人間的キャパスティの大きさによって、或る人には不可能なことも、笑えるようになる。
例へば、私が外国におるときに知人から聞いた話であるが、あるアメリカの小学校の校長さんは小指がないのである。小さい時にけがをしてなくしたのであろう。その校長さんがある朝の朝礼で、「皆さん、今日は皆さんに五つのことを言いたい。・・・・・」と片手をひろげて叫んだのである。その時、すかさず、一番前のいたずらっ子が、「先生、それは四つだよ」と言ったら、皆ドツときたというのです。私はこれは校長先生にとって、けっして越えることが出来ない悲劇性とは皆が考えなかったからこそ、皆ドツときたのではないかと思っている。
そして、笑いは笑う者も笑われる者も人間同士共通の絆で結びつけるようです。「あんなえらそうなことを言っても、先生もやっぱり人間だ」という人間の底から込み上げてくるような強い感情、それが哄笑というものであるし、「笑いとばす」ことによって人間の一時的悲劇性を克服するのである。したがって、笑の材料としては、人間の本能に近いもの、例へば、「くしゃみ」 であるとか、「おなら」であるとか、しばしば、美女や謹厳な学者などの上部構造をおびやかすのである。そして、不必要な「とりすまし」をのけた後に人間としての共通の地盤を確認しあうのである。
四
ボストンの美術館にある日本の禅画で、粗末な衣服をつけた僧が酒びんを片手に月に向って笑っているのがあり、幾年前、感激して立止ってみたのを憶えている。そして、月にむかって心から笑えるようになるのは何時になるだろうか、と自分に問うてみたことがある。哄笑とか、冷笑とか、微笑とか様々な笑いの種類があるが、私は笑いには本来二種類あるような気がしてならない。それは、笑うことによって自分を高める笑いと、反対に結局自分を低くさせてしまう笑いである。
人間は他人に対して何らかのかたちで優越感を感じたときに笑うのであるという説もあるが、そのために相手を低くし、軽蔑することによって、自分を高めるのであれば、これは本来の笑いから考えると邪道であろう。したがって、舞台で阿呆な奴が出てきて、観客が利ロぶって笑うという種類の笑いは、本来の笑いの深みからいうと入口であって、底の浅いものである。
「人間は笑い方でその人間がわかる」といわれているように、どんなに深刻ぶっても、ふと襲ってくる笑いのすき間に、その人の本当の顔をみせるものである。ユーモアというものはどうにもならない悲劇性、ーそれは性格と性格との対立であり、運命と運命のぶっつかりあいであり、そこに動的な人間の生の現実があるのであるが、- しかし、それをもう一次元高い観点から見直すところに、われわれは一生懸命に生きる人間の可笑しさをみるのではないだろうか。
考えてみるとそんな超越的な立場などない筈であるが、それをするところに人間としての不思議さがある。じつは「笑い」の敵は「怒り」ではなくて、無関心である。どんなに人を笑わせようと思って喜劇俳優が汗みず流して演技しても、関心をもってもらえなければ悲劇である。ユーモアは人間への絶望しない、限りない愛着から湧き出てくるのかも知れない。
だから、他人はいざしらずにらめっこをしたとき、私はいつでも負けることにしている。吹出すのである。そして、絶対に負けない人を見ると私は恐怖を感ずるのである。やっぱり、笑いながら人生を送る人間でしかないと自分を思っている。これが、成人の世界だ、成熟の事柄だと自分で優越感にひたっているが、他の人々がこれをみた場合、やっぱり「お笑い」でしかないのかも知れない。