「臨床神学の可能性」
1975年 基督教世界 第3296号
昨年四月から約半年にわたって在外研究にでていたが、今回も、十年前と同様に、スイスのチューリッヒにあるC・Gユング研究所に本拠をおき、J・ヒルマン博士の教育分析を引続き受けることにした。これは夢の分析を通して自己の無意識の世界に入り、自分自身をよりよく認識しようとするために受けたものである。これは牧会者または心理治療を深く行なうものにとっては必修の要件である。そのために、世界中から様々の職業の心理治療家が研究所に集ってきていたし、その中に牧師や神学者たちも少なからずおった。それらの人々の接触を通してこれからの神学の方向について考えさせられることがあったのでそれについて述べてみたい。
最初に考えることは、臨床神学とでもよびたいような神学への方向性である。文献を通して研究される神学ではなくて、生きた人間の記録を通して探求され、組立てられる神学である。資料としてケース研究が考えられ、分析、治療、牧会を適して理論が形成されるが、それを行なう者自身の訓練、スーパーヴィズが重視される分野である。神学そのものを生きた人間にのぞませ、それを治療的に働く仕方を探求せんとする方法である。英国を中心に、ヨーロッパでは臨床神学というよび名が使用され、同名のF・ラークという人の著書が出版されている。ヨーロッパではないが、この一例として、シカゴ大学医学部と神学部共同研究のE・キュプラーロス著「死ぬ瞬間」(読売新聞一九七一年)は既にわが国に紹介されている。最近では、日本でもキリスト者医師河野博臣博士によって「死の臨床――死にゆく人々への援助」(医学書院)が同氏の臨床と分析に基づいて出版されている。
夏はスイスからボストンに飛んで、母校アンドーヴァーニュートン神学枚の市立病院と州立精神病院での夏期訓練コースに招かれ、参加する機会が与えられて久し振りで指導者たちと歓談したが、十年前に比してこれを受講する学生の数とその訓練の厳しさ、それに場所の多様性に驚いたのであった。それからまた無数といえる様々のグループ療法が発達していて、それが色々の仕方で訓練の中流とり入れられているのが見受けられた。私自身も十数年前から自分なりのグループ・セラピイを実験的に開発してきたが、それを紹介したり、それ以外に様々な方法で行なわれているのを興味深くみることができた。それらは大体ゲシュタルト・セラピイとよばれるものに属しているようである。
ヨーロッパは比較的にこの方面は保守的でまだグループ理論は充分に消化されていず、むしろ、フロイト以来の一対一の関係を重視する分析研究が盛んであるが、九月に開かれた第六回国際分析心理学会の議論を通してみられることは、やがてこの影響はヨーロッパにも及んでくるようである。
ロジャースなどのグループ理論がさかんに独訳されて店頭にならんでいるのをみたし、また、バットボルのドイツ、クリスチャンアカデミ-のターグングにも最近では象徴やファンタジーを使用した新しい型のグループ理論に基づくグループ・ワークが実践されており、世界は同一化の方向に向っていることには疑いはない。
といっても、ヨーロッパではやはり伝統的精神分析の流れは不動であるし、これからの影響を無視することはできない。例えば、メダルト・ボスに代表されるようなハイデガーの哲学の影響を受けた現存在分析やL・ビンスワンガーの現象学的人間学など注目され、不安、時間、夢の解釈に実存論をもちこんで人間の治療を行なうようにしている。昨秋、ボスはわが国を訪れ、「現存在分析学からみた身心の関係」という題で京都で講演している。
ユング派の中では注目される文献としては宗教学の領域との関連でJ・ヘンダーソン「夢と神話の世界」(河合・浪花訳・新泉社)、フロイトとユングの往復書簡の発表などがあり、また、伝記はみすず書房から「ユング自伝Ⅰ・Ⅱ」――思い出・夢・思想――として出版されている。これは、スイスの改革派の牧師の息子として出生したユングがどうして精神分析家になっていったかという彼の魂の遍歴を知るのによい書物である。
また、ユング編「人間と象徴」(河出書房新社)は彼の死後他の既に書いてあった論文を含めて出版したものであって人間の無意識の世界を理解させる秀れた研究である。
こう述べてくると恐らく牧会心理学プロパーの研究書はどうなっているのかという疑問をもたれるだろう。正直にいって、ジョンソンとかヒルトナーなど簡二線の牧会心理学者が重要な書物を次々と発表した時代は一時終って、むしろ、総論ではなくてそれぞれの各論、深層心理学や医学や人類学といったそれぞれの専門分野との対話が深化されている時代に入ったといってもいいすぎではない。
そして、この国際研究の成果がそのうちに現われてくるであろう。その時は西欧のプロテスタント神学そのものが人類史的にもう一度問われるというような発想が何人かの人々の口からうかがえたのは面白かった。
一個の人間の分析は同時に、その時代そのものの分析であるし、フロイトのなした症例のように、次の何十年かに影響を与えるものであるかも知れない。しかも、それはけっして偉人や宗教家や哲学思想の分析ではなくて、それは疎外された普通の「病める人」の臨床の中に存在しているのである。
臨床神学というものが将来成立するであろうかどうかは別として、ささやかながらこの十数年牧会心理学の研究に従事し、定着させようと努力してきたことは、ふりかえってみると神学を臨床化しようと思ったにすぎなかった。実践神学というよび方では把握できない何かを求めていたといたといえよう。
最近になって、ヨーロッパでも、チューリッヒで今年の夏第一回国際牧会心理学会が計画されるまでになり、わが国でもキリスト教病院や精神病院などに同学の士がおられるようになり、また、分析のお手伝いをした精神医、医師の方々から神学の分野も含む労作が発表されるようになったことは誠に喜ばしいことだと思っている。
スーパーヴィズのシステムや自己の教育の分析の機会がもっと与えられて、わが国の教会の質が他の学問の領域の発達に足調をあわせて進むように望んでやまないものがある。
(1975年 基督教世界 (月刊冊子)3296号 昭和50年1月10日 /基督教世界社 より)