“遊び”――その現代的意味

1976年 信徒の友 8 特集「キリスト教と遊び」より

 

樋口和彦

(同志社大学教授牧会心理学)

 

 道ばたで飛べないでバタバタしている鳥を見たら、だれでも驚いて近づくだろう。ちょうどそのように、子供の心理治療をするおもちゃのいっぱいある部屋の中で、遊戯治療の最中に、広い部屋の中で、どう遊んでよいのかわからず、ボンヤリと立っている子供を見るとギョッとします。普通の子供さんなら歓声をあげて、おもちゃに飛びかかって行くのにと思います。

 また、高校生や大学生にもなって、そこにあるおもちゃのピストルに夢中になって撃ち合っている人の姿をみると、これまた、考え込まざるをえません。

 なにか人間の成長発達の上で大切なものを遠くに忘れてきてしまったような気がします。翼のない鳥は鳥でないように、「遊べない」子供は子供ではないでしょう。

 そして、成人してからも、子供の時身につけなかった「遊び」は、なかなか身につかないものです。だいいち、大人に「遊び」を教えるほどわびしいことはありませんし、子供の時のようには自然に学習できません。

 このように、人間にとって、「遊び」はいかに基本的なものであるか。<遊びにおいて人間の精神は最も躍動する>と考えるとき、宗教生活にとっても重要なものであることがわかるでしょう。

 ところが、我々の周囲を見渡して、――あなたの回りはちがうかもしれませんが、少なくとも私の回りには「遊び」のできないクリスチャンが多くいるのです。これはどうした訳でしょう。

 

「遊び」と仕事

 一般に「遊び」と仕事は対立していると考えられています。そして、信仰は「仕事」になり、「遊び」と正反対の極にあるとかんがえられがちです。

 日本人は「真面目」が好きであり、特に、信仰生活は「不真面目」をきらいます。厳粛さを好み、笑いを軽蔑します。冗談やユーモアを遠ざけ、コチコチの「融通のなさ」が、「聖なるもの」の代名詞に使用されています。その「真面目」の横行は目をみはるものがあり、それに反対するものは圧殺されそうです。そういう雰囲気のところで、「遊び」をいうと、「勉強しなさい」としかられて殺されるほどです。なぜそうなるのでしょう。

 仕事とは本来、「それをすることによって、もたらされる結果のために、教養されて行う活動」といえるとすると、反対に、遊びとは「他からの強制によってではなく、自発的に、それお自体を目的として行われる活動」であると考えられます。

 もちろん、<信仰とは神に強制されるものである>という側面もあるでしょうが、この強制は人間の自由を前提としていて、直接的に強制されて機械的に働くようなものではありません。したがって、信仰と「遊び」とは境地は全く同じであります。自由な神の行為という「遊び」を、人間も許されて自由にかれの意志をにそって「遊ぶ」のであります。

 ただ、「遊び」というと、日本人はすぐ四畳半の遊びや酒飲をともなう女遊びなどを連想して、仕事と対立させ、宗教を後者の中に入れてしまったのではないでしょうか。倫理的清潔性を主張してきた明治以来のプロテスタントの性格からいって当然の帰結であったかもしれません。

 ハーヴィー・コックスは「この数世紀間、人間の祭りと空想(ファンタジー)に対する能力は切りそがれてきた。西洋文明において、われわれは人間を働く人(ルターとマルクス)として、また考える人(アクィナスとデカルト)として強調してきた。人間の祝い想像する能力は委縮してきた」(『愚者の饗宴』志茂望信訳 新教出版社 24頁)といっていますが、新しく「遊び」とはなにかを考えることによって、銅像力や祝いの精神を発掘して、信仰に生き生きとした活力をあたえることができないかと考えているところです。

 

「遊び」とは何か――幻想と現実の間

 「遊び」において人間の精神はもっとも人間らしい、生き生きとした状態になる、といいましたが、それはいつも幻想(ファンタジー)と事実の中間にあるからです。どちらかに片寄ってはいけません。

 例をあげると、プロ野球が今盛んですが、ごたぶんにももれず、小生もファンです。関西在住ですので阪神をひいきして、熱中し、我を忘れて人々に時々笑われます。あれは一種のプレイ(遊び)にすぎません。だけれども、時にあの中に人生のドラマの真髄をみて魅せられるのです。しょせんは職業野球であって、彼の月給と私のとは関係ない、といっても現実(リアリティー)のみをみると、面白くありません。

 反対に、ファンタジーだけをみたら、馬鹿らしくなるでしょう。「遊び」は幻想の中にあって、現実がちらりちらりみえるから、なお、生き生きとして人生のドラマが我が身にひきくらべてみえてくるのです。阪神ファンなら、あの本塁打の打てない田淵の苦悩の中に自分をみるのです。それが「遊び」です。

 子供は「お人形遊び」をよくうありますが、この人形がそうです。幻想と現実との間の産物です。私も学生時代に人形劇に熱中したことがありましたが、面白いことを経験したことがあります。

 部員たちに自分の人形を造らせた訳ですが、まず、どうしたことか、みな人形が造った人自身の顔に似ていること、それに誰かが誤って他人の人形を壊しでもしようものなら、――時々乾燥したりする時ちょっと傷つけることはあるものです。そういう時、ふだんはおとなしい人がそれはそれは激しく怒るものです。「なんだって、僕の人形をこわしたんだ!」と。

 実は人形は物であって、人間ではありません。それを知っていても、人形は幻想に着色されて、物以上になっているのです。だから、子供が人形遊びをするのです。まねて、繰り返して、何か人間以上に人間のこころをよび出してきて、それと交渉することを学ぶのです。

 このように、「遊ぶ」こころを考えてみると、まだまだ我々の周囲の宗教儀式や信仰表現の中にあまりにも固定が多すぎて、みずみずしい心の表現が少ないことに気付きます。そして、心の深層にその表現すれることをずおっと待っている「深いもの」があるように、私は感じています。

 

ファンタジー・グループ

 京都の関西クリスチャン・アカデミーで、昨年から数回「ファンタジー・グループ」という実験グループをやっています。ドイツのバット・ボルで教会婦人会などで試みられている方法を、日本でも適したかたちに改良して行っているものです。

 まだほんの実験の段階ですが、いろいろの専門家が参加しています。その中で、一つ注目しているのはグループで行うフィンガーペインティング(指による描画)です。

 五、六人の人々が一グループをつくり、大きな画用紙をかこんで座ります。だれも話してはいけません。そして、泥絵具で、素手で自由にその紙にかくのです。筆を使わないので、絵の上手な人も下手な人も自由にかくことができます。指(時に手のひら)で直接的に感情を込めて描けますので、後である種のすがすがしい満足を経験します。

 もちろん、自由に思い切って画面を使えない人もいますが、終了後、みんな思い思いに自分の描いた過程や印象などを語り合います。夢中になって、子供の時以来はじめてというほど、描く方もいらっしゃいます。これによりいくつかのことが分かりました。

 普通私たち(美術や芸術から離れているもの)は、いかにイメージが貧困であるか、また、定型化されていて、委縮しているか。まあ、これは予想されてことで別に驚きませんでしたが、それより、みんながアッと驚いたことが、しばしば起こりました。

 それは、みんなの人がそれぞれ別の意図で描いても、出来上がってみんなで鑑賞していると、突然にまったく意図しない予想外のイメージが浮かび上がっているのを発見したことでした。それは、多くの場合、人間の深い宗教的シンボルでした。

 すなわち、だれがつくったものでもなく、ファンタジーが生き生きと働くところに、それにみあう「深淵」が生き生きと姿を現してくることが実感された訳です。ただ、誤解してはならないのは、神が直接的に現れるというようなものではありませんので、どこまでも象徴であって、自由に解釈される余地は人間の手にゆだねられています。

 ホイジンガは有名な本『ホモ・ルーデンス』の中で人間を「遊ぶ人」と定義したほどです。そして、遊びは文化よりも古く、一見幼稚な未熟な行為のようにみえるが、人間生活の根底にあって生命を与えるような何かであると考えています。

 彼の後に、いっそう「遊び」の本質を鮮明にした人にロジエ・カイヨウという人がおります。その著『遊びと人間』の中で、五種類の遊びを分類し、それぞれの特徴を述べています。いま紙数の都合で紹介できませんが、その最後に、イリンクス(めまい)を起こさせるような遊びを述べたところがあります。

 実は宗教はこの「めまい」と関係があります。信仰とは人間に「めまい」を起こさせるような途方もない出来事に関することです。

 一方、遊びのうちで最大の遊びは死と遊ぶことです。中世の絵でよく骸骨の姿をした死に神と人生を賭けて、プレイしている人間の姿を描いたものがありますが、あれなどは十分に人間に「めまい」を起こさせます。「遊び」の極まった姿といえるでしょう。

 

「遊び」と枠

 よく考えてみると、「遊び」には、いつも枠や規則がつきものです。実は、「遊び」を遊びとして成立させているのは枠があるから、この枠を破ると「遊び」はしらけて成り立ちません。

 小さい時に、王将をポケットにそっと入れて将棋をさして、みつかってけんかになったり、野球で負けそうになるとルールを変えて、文句をいわれ、挙句の果てに野球はおじゃんになるといったことがよくありました。ですから「遊び」にはいつも規則がつきものなのです。

 その枠があるからこそ、「遊び」が面白くなり、遊べるのです。注意すべきことは、子供の「遊び」でも、規則を破れるものは、破られた後の状況になった規則をつくれるものだけが破れるということです。

 一見無法者のようにみえても、いつもこの法則は当てはまるのです。次の枠の用意なしに破ったら、もう遊べません。子供はみなこれを知っています。ルールというものは、野球でも、トランプでも皆このように規則は発展し、変化してきたものです。

 これは、宗教的儀式や信仰の形式にもあてはまりまるでしょう。どのように形式が現在は古くて陳腐であっても、ただ破壊することは出来ません。次の枠を用意できるものだけが、壊すことを許されるのです。

 人生という枠も同様で、死と遊ぶことは人間にはできないのではないか、と思います。この枠をはずして遊べる人は、死という枠の外にルールをもったものがあるはずです。復活の主、キリストなるイエスだけが、最も深淵なものを掲示しうるというのは、こういうことでしょう。イエスにある生をいきている人が、本当の意味で人生を「遊ぶ人」になりうるということです。

 

トリックスター(いたずら者)

 北アメリカのインディアン神話の中には、このトリックスターといういたずら者の像がでてきます。中世の道化はこの残りの像であるといえるでしょう。人間の深層心理の中にも、子供っぽい、このいたずら者のイメージはたとえ大人になっても保持されているのです。時々、立派な大人がとんでもない冗談をやらかすのはこのためでしょう。

 だれの中にも、大なり小なりこの道化は存在しているのです。そうでなければ、死んだ静止した世界になり、目の輝きも、機知もなく、場面の急転回もなくなるでしょうから。

 根底から秩序を揺り動かすもの、それがトリックスターの役目であると考えるなら、道化キリストは最大のトリックスターであるかもしれません。道化とは死と「戯れる」ような悪ふざけではけっしてなく、死という「捕らわれ」を、絶えず払いのける、人の意表をつく生命のイメージであるといってよいでしょう。

 想像力が枯れはて、なにもかも固定化し、惰性に流れそうになった時、「遊び」の本質をとおしてみた道化キリストというイメージを、もう一度考えなおしてみるのも、必要だろうと思っています。

以上