「こころ」 の教育
-新キリスト教家庭教育論の試み-
1981年 日本YMCA研究所紀要 Vol.Ⅱ No.6
福祉社会の形成とYMCA
序
この小論では、青少年センターの新しい試みとしてできてからすでに11年になろうとしている京都YMCAの相談室で、数名のカウンセラーと共に、そこを訪れる両親たち、子どもたちのさまぎまな問題を通して、それらの苦しみや悩みの背後にある問題を考えた上、いちおう現在家庭教育に関して考えられることを述べてみたまでである。もちろん問題は現代日本社会の世相を反映して全く多岐であり、多面的である。そして、その解決や癒しもまたそう簡単ではない。現に、現在も毎週それに取り組んでいて進行中であるので、それを簡単明磨に提示するというわけにはいかないのである。
しかし、相談のケースの中でのさまぎまな真剣な訴えを全体的にみると、現在の社会に対して、教育に対して、特にYMCAが取り組まねばならない青少年のキリスト教教育に対して、何かを訴えているようにみえるので、キリスト教の人格形成という観点から、今回はイニシエーションとしての教育という点に絞って、これを「こころ」の教育と題して試みをまとめてみた次第である。
部分的にはすでに『京都青年』誌(一九七四年五月号)などに講演したものをまとめていただいて発表したこともあったが、これは「結婚・夫婦・家庭」という部分だけにふれたものであったので、今回は人間の誕生から死までの間、どのような枠組みでキリスト教家庭教育は現実に展開できるか、その骨組みを述べてみようと思う。紙数の許す限り、具体的な例を入れて肉づけをしていきたい。
まず、なぜ副題を新キリスト教家庭教育論として、そこに「新」を入れたかについて説明したい。相談室の窓口からみたYMCAの活動の特徴を述べると次のようにいくつかあげることができる。
(一)宗教を信じていようといまいと、悩みのあるすべての人に開放され、人間への奉仕としてなきれている。(ニ)理論を教授するのでなくて、心の治療ということが実際に役立つよう努力してなされている。(三)教会中心というよりは一般の世界というグローバルな視点をもっている。子どもたちはすでにグローバルな、産業の高度に発達した技術社会に住んでおり、その長所も短所もそれによって一様に影響を受けている。例えばテレビ一つとっても、もはや一皮むけば全宇宙的に考えられる問題性の中に育っているのである。(四)そしてその文化の中に、その深い表現として宗教の問題は顔を出している。時に宗教用語や宗教的表現は使用されないが、その個人の生き死にをかけた自己表現としての宗教の役割に接することができる。その取扱い方を誤ると、人間破壊・人間破滅へと文字通り進んでいくことになる。
これらの要求に応じるためには、従来の(一)神学的教育理論中心(二)狭義の教会中心 (三)教会学校中心の理論では、この文化的地平に顔を出す一般現代人の宗教的発展の可能性を引き出すことはできないし、単なる伝道中心の理論からの脱皮が必要となってくる。もちろん脱皮に伴う危険もあることには注意せねばならない。従来の教会におけるキリスト教教育の営みの重要性はこれからもいささかも衰えないだろうし、全体のキリスト教教育の中核としての教会教育は今後も重要な役割を担っていくであろうことに私はいささかも危惧を抱いているわけではない。しかし、最近におけるYMCA自体の奉仕の幅の増大とそこに出入りする青少年の数の増加、加えて交通・通信手段の発達などによるコミュニケーションの質の変化は、教育の役割に変化をきたし、とりわけイデオロギー教育を超えて、さらに深い価値を求めて自己の実現をはかる世界的傾向によって、西欧社会ばかりではなく、カーテンの内側にも文化的表現として現れる「こころ」の深く新たなる宗教的ニードの探求が必要とされる時代に入っているのである。公害や抑圧などの権力集中の現代社会の否定的な側面が露呈されればされるほど、権力の集中とは逆方向の一人ひとりの顔をおぼえ、その個性を配慮しつつ、これを克服して進む新しい世代の人間への教育が模索されることになるのである。
筆者はこれを「こころ」の教育と名づけて、知能だけでなく、物質だけでなく、単なる精神主義でない「こころ」のイニシエーンヨンの教育という観点から組み立てようとしている。なぜ「こころ」と呼ぶかと言うと、ほんとうは魂の教育というように魂という文字を使いたいのだが、これはすでに使い古きれて、別な意味を多くもち誤解されやすいので、かなで「こころ」とした。英語では the educaton of the Soul である。人間は生まれたときから「こころ」をもった存在として神に創造されている。そこで、筆者はまず「こころ」をどのように使おうとしているかの解説から始めて、その「こころ」がどのように受肉するか(自分という体を心がもって自分を確立するか)を全教育の過程としてみたいのである。そしてYMCAが、その全活動を通して、どのようにこの深い生涯教育に頁献しうるかを多少でも明確化できれば幸いであると思っている。
一、「こころ」とは何か
YMCAの記章(略章)には有名な精神・知性・身体(spirit,mind,body) の三つの要素が三角形に組み合わされ、象徴とされている。これは「こころ」 (psyche) の三つの機能をこのように表しているとみられる。本来、心と体とは別々のものではない。よく心と書くと体と別な何かを表すものとして誤解して受けとられるが、「こころ」はそのようなものではない。新約聖書には五七回使用されている鍵概念である。主として福音書と使徒行伝に出てくる。しかしながら、われわれ現代人にとってこの「こころ」は何であるかを感得させようとしてもたいへん難しいものである。人間の肉体だけをみて物としてとらえたりする。そうすると「こころ」は物のように目で見えないし、見えないからといってスピリットのように抽象的また瞬間的なものでもない。しかし私は、それを実質であり、具体的であり、永続的なものであると考える古代人のもった感覚への復帰が必要であると考える。これは人間が造ったものではなくて、神によって創造された、あるものである。見えないが、力であり、神秘であり、さまぎまに変化して人間として人間の前に姿を現すものである。動物や植物と異なり、人間は生まれながらにして、この神の似像<かたち>(創世記一・二七)をその身に負うているのであって、これは神からの贈り物であり恵みである。したがって、人間の心の深層で神は常に働き給うと考えてもさしつかえない。神は超越的に天空の高みから、人間を支配されると同時に、人間の心の深層という深みにおいて常に働き給うのである。すなわちここでは、人間は全くすべてから切り離されて勝手に生きるものとして規定されてはいないのである。現代人が考えているように、精神と肉体は分離して、精神がどう考えようと肉は肉で勝手に欲望のままに動くとは考えられていないし、知性はまた精神から切り離され勝手に知力を使って精神を破壊すべく活動するなどということは許されていないのである。すなわち、小さいながら人間一人ひとりという個はかけがえのない宇宙をその心の中にもっている。一つの纏(まとま)りであり、全体性である。この全体性を「こころ」と呼ぶが、それは個人の心の中にあると同時に、その個人を離れて人類総体という全体と即応している。しかも、その中に神の像(イメージ)が完成するまで人間の中で神は働き給うのである。このことは論理だけでは把握できないところであって、あるいは論理的には矛盾してしまうようにみえる。しかし、宗教的体験としては常に究極的に一致しうる目標であり、同時にまた起点になるのである。すなわち、内的宇宙と外的宇宙の相関と一致という観点から、この「こころ」の全体性が把握できるのである。例えば、YMCAの夏期プログラムをとっても、時に青年時代の大切な時期をここで迎えることがある。その時の祈りや内省的な自己反省がしばしば彼に働き給う神の力の発見につながり、その人の一生を左右することがある。現に今YMCAの指導にあたっておられる先輩の中には、その時の祈りに応えてその後の人生を使っておられる人のいかに多いことであろう。その祈りにおいては全世界の人々の問題を小さいが自分の中に引き受けるという、外が内に引きとられ、またその内の決意が外に流れ出てその人の人生に働き続けるということが起こるのである。ジョン・R・モット博士の決心はその徹底性と拡大性において秀でたものである。そこまでいかずとも、また深浅の度合、領域の多様性はあってもこの「こころ」の働きは人間に対して常に何がしかの力となって働くのである。そのような祈りにおいて働くある心の働きを「こころ」(psyche)と呼び、これが人生という時の制限の中でどのように自己実現されるか、これに注目して、その教育的展開を考えるのがこの小論の試みなのである。
次に、人間の住む環境は三つの層から成立していると考えてもよい。一つは自然的環境で、次は人間的環境、そして三つ目は神の次元も含めた社会的環境である。この三つの次元のどの条件一つでも環境が破壊きれると、人間らしい人格形成は不可能になる。自然環境の保護も必要であるが、今日、人間的環境・社会的環境の必要性はそれにも増して増大している。しかも環境の問題においては、やっと自然環境の破壊の問題が叫ばれ、とりあげられるようになったばかりで、その他の環境問題はまだ十分に考えられてこなかったし、その三つの調和などましてなおさら考えられてこなかった。私は、キリスト教教育という視点からみて、特に家庭という環境が青少年の教育にどのように組み入れられ、人間らしく人間として生きる個をいかに確立するかという点から、家庭教育を意識しつつ、YMCAという場で必要とされるものを考えてみることにする。つまりわれわれの場所に出入りする人間が、神の支配の下でどのように神から与えられた生涯を展開し、自己実現し、神に喜ばれる人生を精一杯送ることを許されるかという事柄なのである。
二、両親と共に生きる時代の教育
今日の日本における緊急の課題は、家庭教育の正しい意味での創造である。このことが教育の中で今日ほど真剣に取り組まれたことはなかった。YMCAはあらゆるレベルでこの重要性を痛感し、このニードに指導的に応えねばならない。
子どもは最初家庭に生み落とされる。この「落とす」という表現はおもしろい。天から落下するようにも受けとれる表現であるが、まさかほんとうに誕生の瞬間は落ちるわけではない。しかし、個にとってはまさに生み落とされるのであって、全く無意識の中で誕生というできごとが起こるのである。そして、やがて目が見え耳が聞こえるようになって初めて、自分がどこにいるか、どんな所に生み落とされたかを理解できるようになる。ほんとうにその意味が把握できるのは何十年か後でないとわからないし、ことによると一生正確な意味はわからないのかもしれない。ここに手をかさねばならない。
したがって、この誕生の場所と時間の理解は重要である。一人ひとり相違しつつそれぞれにとってユニークな始原的なこの原点は、その後の人格形成にプラスであれマイナスであれ決定的な意味をもつ。
人間はこの時からの人生の最初の三分の一の時期を両親とともに暮らすことになるからである。もちろん生まれてすぐ両親と別れる子どももいるであろう。しかし、たとえ離別しても -時にその方が- 別れた両親の像となお強力に共に生活して、両親とは全く異なった自分をそれをテコにしてつくりあげなければならない。そこに模倣と反発という作用はつきものであるかもしれないが、いずれにしても、環境としての両親が圧倒的な力をもってその子に迫ることは確かである。そこでまず両親への教育を考えよう。
この時期の教育において、最も強力にして意味をもち、その後の子どもの発展に影響をもつものは「なぜその子を生んだか」という両親の現に存在した期待、姿勢であろう。ここで先の三つの要素が問題となる。子どもは肉体的行為によって身体として発生し誕生するが、精神や知性から切り離されていては十全には育たない。京都YMCAの相談室のケースをみると、この親の問題は常にさまぎまな形でどのケースにも存在していることがわかる。例えば、さまぎまな理由で子が親によって心理的に拒否されたり、誤った親の期待と支配の下に生まれてきた子どもの数は意外と多いものである。ふつう簡単に考えられる、この子は女でなくて男だったらよかったなどということは、その子に実に深い心の傷を負わせることもある。また、不倫の関係の子のため、実子として偽って育てられていることから生ずるそれ以後のこの子どもの問題などさまぎまである。
子どもは神から授かった存在であって、どうあっても親が支配できないかけがえのない尊厳性をもつ、両親とは異なった人格であるという点の教育はこれからますます重要になってくる。この点で、青少年活動にあたってYMCAがその指導の基本理念として、子どもの名を呼び、一人ひとり個性を区別して考えるという思想は大切である。この基本的な人権の思想を明確に植えつける必要がある。
たとえ身体的に完全でなくても、人間として生きる当然の権利をもち、両親はその尊厳性に対して敬意をもたなくてはならない。どのように欠点があっても生まれた以上人間として生きる権利をもっていること、それを実感としてどのようにこの両親と共に生きる時代にその子に感得させることができるかが、この時期の教育の最大の課題であろう。
そのために、全く初期の段階は母と子の無条件的な一体感が必要である。母が感じることを感じ、母が言う通りに言ってみ、母が祈るように祈ってみること。それでは実際の母親を具体的にもたないものはどうするか。その母の本質的な像を実感できる代行者 -それは親戚の伯母でも保母でも教師でもよい- が必要である。神がその子どもを具体的にいつくしみ、恵み給うことを、その子はその母のあたたかい胸や乳(時に人間でなくて自然の中の動物の乳すなわち牛乳である場合もある)を通して身体を含む体全体で実感する必要がある。彼が理解できているか言語化できるかとは別に、この全き信頼の感覚をつくることができるか否かはそれからの知的・精神的な発達に大きく関係してくる。
人間は自分の「気分」一つをとってもこれを支配することはできない。実はこの気まぐれな気分すらそれは「こころ」の重要な働きなのであるが、多くの現代の大人たちが自分の気分を支配できると思って、実は支配できず、その否定的気分の出現の犠牲となって人生を減らすことのいかに多いことか。また、睡眠も実は人間がこれを信頼して眠る以外に支配できるものではない。もし人間が万能で支配できるなら不眠症は根絶できる。なるほど睡眠薬はあるが、これは眠りをつくるのではなく覚醒を殺すのであって、生の重要な部分を犠牲にすることなく使用できない。一時的な応急処置である。
赤ん妨はというと、親を全く信頼して目を閉じれば眠れ、また気分よくほほえむのである。人生の最初にすでにこれを学んでいる。後で学ぶことはなかなか難しく、この基本的信頼を学べなければ、彼は後の人生の大半を使って格闘し、これを努めて学ばねばならぬ。ここに知性と肉体、精神の一致がある。
この親は嬰児にとって、環境であり、世界であり神である。このチャネルを通してどのように環境が、世界が、神が自分を恵み、また拒否するかを五感を通して学ぶのである。したがって、この時期には彼は無条件的に受け入れられていることを実感させねばならない。赤ん坊はほんとうに危険かつ無防備の状態で生まれてくるが、唯一の武器は無垢の笑みであってこの無敵性には誰も敵するものはいない。なお、この嬰児の笑みに反抗して、子どもをコインロッカーに入れる母親の神経はもはや治療の対象であって、生きている人間とは言えないのではないか。
この母・子の一体性はどのように強調しても強調しすぎることはない。従来のキリスト教教育が教会において幼稚料から始められたのは誤りである。赤ん坊は家庭に生み落とされるのであって教会堂の中ではない。したがって赤ん坊にとって教会は家庭であり、マリアとヨセフの人間関係という環境の中に生み落とされるのである。新たに結婚した人々への家庭教育はYMCAのプログラムとして緊急の課題である。
そしてまた、この夫と妻の人間関係もさることながら、その時という歴史性とその国や町という社会性は、その子のそれ以後の発達に重要な役割を課すことになる。YMCAが結婚する人のための講座、出産する母親のための講座、両親となる若い人のための講座、
平和のための講座など、さまぎまな角度から、神から子どもをおあずかりしてその子を自由な責任のある人格として一人前になるまで育てるという重要な役割の奉仕のために自らを準備することを学ぶための手助けは必要となろう。京都YMCAでは結婚講座や婚約した人のための講座も行ったことがあるが、これらはやがて世界に顔を出すその子どもたちのための環境をつくるりっぱな仕事なのである。それは単なるハウツーを教える講座ではなく、小さいけれどかけがえのない生命の意味を教えるものであってほしい。小さい 「こころ」 への畏敬がその中心にはある。
最近のケースを通して感じることは「世話をよくやく」が「心を通じようとしない」母親の出現である。これはさまぎまな問題を感じさせる。基本ができていないのである。母という名の管理者であるが、母親ではない。母親としての知識は進んでいるが、そして、なるほど育児知識は多くあるが、子どもと心を通わせ一つの「こころ」をもつことができない。赤ん坊が言葉をもつまでは話すことができないのである。世界は、環境は、その嬰児にその能力が生まれるまで繰り返し繰り返し語りかけ、問いかけるのである。これが創造という株序における神の愛のあり方である。まだ人間が愛することも知らなかった時に、まず神は愛し語りかけるのである。子どもが話さなくても、母親は自分の子どもに語りかけ、ほほえみや訴えや語りかけを引き出してくる名人である。ここに、子どもにとって好ましい人間的なそして社会的な環境が用意されることになる。
この二つが不幸にして問題にされないとき、つまり異状事態には自然の環境がこの子に癒しを与えてくれる。YMCAが古くから野外の活動に力点をおいてきたのも不思議ではない。少年イエスを慰めたものは自然であり、そしてそこを住み家とする動物であった。青少年は今でも美しい海や山の自然の中で神の愛の語りかけに直接に接することができる。特にその二つを失った不幸な子どもたちにとって野外の教育は、抑圧の家庭からの脱出の手段であり、重要なものである。
そしてこのような母・子の一体感の時代に終わりを告げる時がやがてくる。福音書にも「両親はその語られた言葉を悟ることができなかった」(ルカ二・五〇)と記されている。ただおもしろいのは、また「母はこれらのことをみな心に留めておいた」(ルカ二・五一)と記されている点で、やがてこの母と共の時代は終わるが、母が背後に下って、別の主題が前面に出るだけであり、この母の背後の祈りはどこまでも続くのである。
このように、母との直接的な接触を通して、「こころ」は無意識的に子どもへと受け継がれる。何が受け継がれたかは後のこの子どもの発達を待たねばならないが、素材としての豊かな交渉は子どもにとってほんとうに大切なことである。男の子も女の子も、特に母から豊かに多くのものをいただくのである。神からの贈り物と名づけてもよいであろう。やがて彼がその人生において花咲かせるすべての芽がその中に含まれている。この母との無意識の一致の時代、これは無意識的であればあるほどよい。意識によって選択され、部分化されない万がよい。教育の重点は二人の間にある無意識の「こころ」の共通の体験であろう。
次にこの一体感に亀裂の入る時代がやがてくるようになる。すなわち、母とは相違する自分自身をその子どもは遅かれ早かれ経験するようになるのである。母は他者となり、自分とは別な存在となる。反抗期がきて、「否」を叫び出し、母親の言うことは聞かなくなる。この独立運動では、初めて父親の存在が重要になってくる。父のイメージの強力でない子どもにはこの作業は困難で、母親に再びとり込まれ、呑み込まれて、自分を失いかねない。いつまでも独立できない子どもは、やがて否定的な怪物のような姿の母親と対峙することにもなりかねない。独立するということは、この母親と一体感をもつ「この世界から、対立する「二」のせ界への脱出を意味するのである。ここにイニシエーションの境界がみえてくる。イニシエーションとは通常、通過儀礼と訳されているが、これを深層心理学的に理解すれば、「一つの心理的宇宙からもう一つの他の心理的空間へと移行する過程」を指すのである。すなわち、母の「よい子」がほんとうによい子でいられる時代と、その子が母に反抗しなければならない時代との二つが存在するのである。よい学生は必ずしもよい社会人でないし、よい娘がよい妻であるかはわからない。住んでいる心理的空間が異なるからである。その境界を通過していかねばならないし、そこに人間としての成長があるのである。
三、両親から離れて自立する時代の教育
子どもは、両親が期待しつくられたイメージとしての自分ではなく、すなわち親の所有物としての自分ではなく、自分とはいったい誰なのかという固有のアイデンティティを苦しんで追求する時代を迎える。通常、それは、家庭とは離れて社会に出ていくまでに、学校で教育を受ける期間に、人間教育として受ける試練であり、課題である。この人間教育を除いては学杖教育の意味は半減する。この「一」の時代から対立という「二」の時代に入る過程の問題は、学校からさまぎまな形で相談室にもち込まれてくる。親からもはや支配できなくなって困惑してもち込まれる場合もあるし、青年自身が孤立し、自殺を考えるほどの時点でもち込まれる場合もある。この過渡期には苦しみや混乱はつきものであるし、かなりの危険性もある。
この時期の病理と治療の特徴のうち重要なものをいくつかあげると次のようになる。
(一)イニシエーション特有の一過性の苦悩を病的なものとしてだけみないこと。健康な人々にも苦しみはつきものであるし、青年にとってこの自立への苦しみはむしろ自然現象と言ってもよい。今日では苦しみを苦しめない現代の若者に問題があり、精神的に苦しめないから、生理的に突然発熱したり、無気力になったり、体で苦しむことになるのではなかろうか。学校恐怖症や思春期やせ症などの症状が問題になっているが、これらの身体的な拒否反応はむしろ精神的に人生を悩んだりする心の働きの衰えからきているように思う。そして、自分の自立への力の未熟さを他人や環境の責任にして、「父親が謝ったら学校に行ってやる」とか、「学校が義務教育から変わったら行ってやる」という発言にみられるように自分の他者への依存性を見破られないために、攻撃的性格を秘めているのである。いずれにしても、自立への用意ができていないことから起こる現象である。失敗を恐れず、不完全な自分を自分として自らに引き受けることなしに、このアイデンティティの問題は解決しないのである。
(二)そのためには、今まで絶対的な存在で子どもには神のごとき圧倒的な強さをみせていた両親が、やはり人間としては不完全な存在で、神とは相異なる存在であることを示さねばならぬのである。学校に行けと言ってもどうしても言うことを聞いて行けない子どもも、反抗しつつも、ぎりぎりのその両親との接触の過程で、愚かな不完全な親の姿に出会うのである。そして、その背後に両親を超えてなおはるか彼方にある神の像(すがた)を共に仰ぎみるようになる。父親をなぐったりする息子の経験が契機になって、「父なるもの」が何であるかを知り、自分の父はその一部分にすぎないことを自覚して、この新しい時代、自立の時代に入って、反対に父親をいたわり励ます息子になることも多く経験するところである。
(三)あの子ども時代の信じやすさの時代は終了する。母親の教えたことをすべて砂地に水がしみ通るように信じた時代にはやがて終わりがくる。すべて意識して、そして自分で信じたことだけを組み立てる時代である。疑うことによって自分をつくる時代であり、したがって父と母が信じられなくなるように、今まで安定した基盤は失われ、何もかもが始めから組み立て直されねばならない時代である。自分の誕生の事実すらそこからもう一度自分自身を組み立てねばならない。だから不安定と緊張は避けられなくなるのは当然である。
しかし、成熟した信仰は内に懐疑を含むものであって、懐疑は信仰の否定ではなく、新たなる信仰への出発点である。個がやがて直接に裸で神と出会い、その罪と不完全さをいやというほど知らされる。そこにはもはや子どもの全能性はなく、欲することはできず、欲しないことをなす人間の矛盾や無価値、無力な自己の無能力を知らされるのである。この現実性がこの自立の時代の特徴である。ここに回心が起こり、信仰への覚醒がある。そして信仰的な主体的自我が神の前に形成されてくる。
(四この過程で最も必要なのは、親以外の、この過程につきあいその人間的成長を見守るところの存在である。私はこれをイニシエーター(通過儀礼の執行者というべき存在か)と呼ぶ。その成長の経過につきあい、主宰し、これを見守る存在である。YMCAのリーデーや主事は多くのところで青少年に対してこのイメージを代行する人である。両親に話せない悩みを打ち明けられるし、キャンプのカウンセラーとして青少年の内面にまで入り込む。そして、これらの人々の「こころ」の働きを観察し、青年が自分でこれを意識し、自分とは何かを組み立てる手助けをする。そして、共に祈り、悔い改め、慰めを神に乞い求める存在である。学校制度の中の評価権をもった教師のような直接的関係をもつ人よりも、間接的リーダー的要素をもつ人間の方が、人間的な仕事をこの時期に多くできる。YMCAのリ-ダーや主事は教師や両親と異なって、個人を斜めからみることができるし、間接的に影響を与えることができる。なぜなら、彼らは、この直接的な圧迫に時に閉口している存在であるし、斜めの、いわば責任のないしかも自由な人間関係の中に助けを求めているからである。そしてやがて社会に出たとき、自分には自由に動き、発言し、行動できる空間か残されているかどうか実験してみているのである。この青年のひたむきな情熱や熱中、誠実さに、垂直でも水平でもない斜めからかかわっていく、人間関係を通しての青少年指導の重要性を特に指摘しておきたい。野外活動などの場合、すでに述べた環境の三要素が実に素朴な形で一人ひとりの青少年に提示されていて、これにどのように、新しい生まれ変わった自分がかかわっていくか、その最初の営みの場所を提供していてくれる。自然、人間そして社会に彼はどう対していくのか、そしてその三つからの働きかけにどう応えていくか、考え実行するのにキャンプはよい場所である。リーダーはまたこの三つを総合したシンボルとして彼にかかわってきてくれる。私は、YMCAの野外活動のもっているこのような面を、今は単に野外活動の施設を建設する時代と考えられているむきがあるが、やがて一般からも見出される時代がくることを信じている。
この自立した個になる時代、しばしば信仰をもつ回心の時代と重なるか、これは救贖の株序の時代と呼ばれてさしつかえないだろう。
この世に、罪ある存在であるにもかかわらず神はなお自分の存在を認め、十字架による贖罪を通して愛していてくださることを自覚する時代である。ここに明確にイニシエーションの教育的課題をみることができる。両親の愛がいかに一生懸命にわが子のためを思い、尽くすものであっても、行えば行うほど逆に子どもにとっては圧迫になり抑圧と感じられ、それに対する反抗を強める結果になる。
戦後の三〇年は、日本社会の基層心理の分析からすると、河合隼雄教授(1)の言う「母性社会」であったと規定することができる。これは子どもを養育する母性の豊饒性を基礎としている。確かに、心と物の両面からの栄養は与えられ子どもは両面で肥満したかもしれないが、自立は促しえなかった。かえって強力な母性の否定的な面が 現在露(あらわ)になってきていると言っても過言ではない。確かに母性には両面があって、嬰児・幼児には肯定的に働く母性の働きかけも、自立や独立に対しては否定的に働く場合があることを注意せねばならないであろう。この自立のために家庭における父親の力は重要である。子どもはこの父の力を利用して社会へと自立して巣立っていくのである。父を通して社会の律法を知り、倫理(おきて)を知り、苦しくとも自らを律する自分に育っていくのである。この点で欠けるところがあると、子どもはいつまでも母親の支配する、あるいは庇護のある安住の地にいて成長をストップしてしまうことになる。この自立への教育の欠如が、今、さまぎまな形で日本の教育界で問題とされている。京都YMCAの相談室にも同様、この自立への斗いの相談がいろいろな形で青少年から多くもち込まれてくる。具体的なケースは紙数の都合上取扱えないが、いくつかの特徴あるこの種の問題をあげてみることにする。
(一)学校恐怖症の中にみられる問題
これはschool phobia の訳で、わが国では一九六〇年ごろからしだいに顕在化してきているが、もちろんこの真の原因は現在のところ不明である。しかしながら相談室の取扱い件数のうちで、現在では何らかの形のこの学校恐怖症的要素をもたないものはないと言ってよいほどである。しかも、治療が困難で、学校や家庭を巻き込んで数年もかかる場合もあるのが特徴である。典型的なイニシエーションの病気と呼んでさしつかえない。ところがこれは、一時的にはノイローゼや精神病のような強い症状を現すが、本来は病気ではなくて準ノイローゼとみるべき現象で、病気とは言いがたい。学校を含む社会的また家庭的要素を多く含んでいるので、この治療には、本人だけでなく本人をとりまく環境が含まれるため困難を極めることが多い。もちろんすべてが重いわけではなく、少しの助言や援助ですぐ元気を回復して学校へ出る例もこれまた多いのである。
この特徴は知的能力は比較的高くまじめで、両親の期待も大きく、高学歴の両親の家庭に起こりがちである。両親と共に生きる時代、すなわち嬰児や幼児の時代に手のかからない、おとなしい「よい子」であった例が多い。それが突然学校に行かなくなる。しかも些細な理由をつけて行かなくなる。自分の部屋に引こもり、昼は寝、夜起きて勝手に暮らしている。両親は困り果て、注意すると今までおとなしかった子どもが家庭で暴力をふるうようになり、また学校も、たまに学校に来ると試験などでよい点をとるので、すぐ落第と判定するわけにもいかず困り果てるということがある。六〇年代の後半に多発し、現在も衰えを知らない傾向にある。長子に発生する率が一番高く、地域も都市からしだいに地方の農村地帯にも広がっている。
これは一種の母・子末分離の問題としてとらえることもできる。学校は家庭の外である意味で社会の一部である。ちょうど幼椎園に入園する子どもが入園式の日に母親のスカートをつかんで離さす泣いている光景をみるが、それと同じで学校へ行くと友人と協力して生活しなくてはならず、母親の庇護を離れて教師の指導の下に従わねばならぬ。そこには一種の規律があり、自分とは異なった他人と人間関係をもたねばならない。これに対して恐怖反応を起こすので学校恐怖症と呼ばれるようになった。どのようにして連れて行ってもすぐ逃げて帰り、症状が昂進すると家から学校の間で隠れて過ごすようになる。自分自身に対する期待は意外と高く、他の友人に対して学力的に優越感を強くもち、攻撃性を秘めている場合がある。すなわち、この知的能力の優越性は反対に感情的能力の劣等性と結びついているから、したがって好・憎の感情的反応がはっきりしており、しかも幼稚で、いったん自分の強い感情が表面に出ると全く制御できず、人が変わったように暴力的な子に一変することがある。
対人関係の病(やまい)であるので、治療は一般に難しい。しかし、いったんこの治療に成功すると、他の子どもとちがって多くの可能性や能力をもっているから、自立してから自分の主体性の責任において社会に対して創造的、ユニークな仕事をする人物となることがしばしばある。自分の家の昔からの問題などに対して強い反応を起こし、他のメンバーの気づかないできごとをじっと自分の問題として考えて驚かされる場合などがある。現在社会的に創造的に活躍している人の中に、幼児期から青年期にかけてこの学校恐怖症にかかったことがあると告白する人は意外と多い。他の一般的な子どものようにごまかして意味がなくても学校に行けるという芸当はできないで、成長を一時ストップしても真剣に悩むのである。ただそれが精神的な苦しみや悩みとしては表現されず、学校に行けないという外的な形や身心症的な身体症状として出してしまうことが多い。この点、男子の学校恐怖症に対して女子の思春期やせ症などは特徴的なものである。
これらの症状はただ身体的に処理されるのではなくて、彼らの「こころ」の働きの深層にまで立入ってカウンセリングなどにより解決されねばならない。そのようなアプローチを適して、彼の「こころ」が何を叫び、泣き、訴え、どのようにこの世に住む一個の人間として身体をとり、精神をもち、受肉化していくかを彼らと語り、意識化していくことが必要であろう。そして自分とは今はっきりとこれだともちうるような何物かをつかませることが肝要である。そして、それを自分の苦しみを通してつかむと、彼らはまた両親が黙っていても学校に行き、社会に出ていく。そして、十分にこれをやりぬいた人は再び元の状態に帰ってくることはない。この確かさはこのイニシエーションにつきあう人間の「こころ」にはっきりと伝わってくる。すなわち、一過性のイニシエーションの病なのである。
京都YMCAの相談室では箱庭療法や新たにここで開拓したファンタジー・グループ療法(2)などの手法で、その個人の内的世界を外的に投影させ、自分の「こころ」の深い働きを意識させることによって自分を確立する手助けをしている。これらの手法の詳細はここでふれないが、その主眼点は、それぞれのユニークな人間の中で働く神の力の働きを意識させ、その人間がこの世でしなければならない仕事を自覚させるということだと言ってもよい。これはアイデンティティの発見であり、それをイメージ化することによって、自分の言語でそれを言い表して新たな自己の根拠にさせる手法なのである。これは決してキリスト教的象徴のみを強制したり、教義的押さえつけを行うことではなく、あらゆる宗教の中にある文化に表れた宗教的表現を使って、自分の中に働く神の力を自覚させようという試みである。しばしば青少年のリトリートなどで集団でも使われるし、リーダーのトレーニングにおいていっそうの自己理解の感受性訓練としても使うことができる。
(二)スチューデント・アパシーの問題
これはstudent apathy のことで、名古屋大学医学部の笠原嘉教授(3)によって指摘された点であり、また慶応大学医学部の小此木啓吾教授(4)によって同様なモラトリアム人間の問題としても指摘されている。これらはいずれも、イニシエーションの失敗によってもたらきれる、子どもから大人になれないで生じてぐる問題としてとらえられないこともない。アパシーとは「無関心」を指す言葉で、人生のいかなるものにもコミットしないで、ちょうどマージャンのゲームに最初からおりてしまうようなものである。参加しないから感激もないし、反対に場合によっては極端に冷酷にもなれる。これも一種の感情の未発達であり、自我の発達障害とみられないこともない。
小此木教授のモラトリアム人間の問題は特にこの問題を鮮明に出している。学校から社会に出ることへの恐怖や成人になることに対する恐れからの「執行猶予」という概念であって、おもしろい見方である。それはE・エリクソンなどの学説にその根拠をもっているが、京都大学の河合孝雄教授や筆者などはこれを「永遠の少年」の問題としてとらえている。つまり、戦後三〇年の母性社会における病理を考える中で、グレート・マザーと「永遠の少年」という対比で、この否定的側面に光をあててみようとしている。「永遠の少年」とは大人の中にあって永久に成長しない少年の像(イメージ)で、この像につかまってしまうといつまでも少年のままで社会生活を過ごすことになる。母に対する甘えが前面に出て、常に可能性の中を生き、やさしく純粋であるが、決して現実性をもたないような存在である。天的、半神的で、この世のものとは思われない姿をとる。何年も留年して社会へ出ようとしない学生のように、会って話してみるとあまりの子どもっぼさに驚いてしまう。しかし、困ったことに社会はこれらの半イニシエートされた人間をむしろ歓迎し、若者文化などと言ってもてはやしているようである。このクリスタルな時代という造語が示すように、新しく恰好で、よいようにすらみえる。そして、その傷つきやすい若者の時折みせるヴァルネラビリティ(vulnerability)には成人文化のもつ硬さに対してより人間的な響きすら与えているのである。この若者の特徴を言うと次の如きものと考えられる。その癒されることない何物かへの憧れ、受苦と無時間性、そして自ら血を流すことをいとわない自己破壊性、急速な心理的上下動を伴う発作に時々悩ませられること、などだろう。今日の世界そのものがもう「こころ」の成長を拒否しているかのように、そしてギリシャの英雄神がしばしば船の難波で破局を迎え、若者性を放棄したように、現代はその破局を待っているようにすらみえる。しかもその待つ理由は、ただこの今の状況を終焉させるためだけにである。自らの内にその力がないので、ただ外的な力を待つのである。 このモラトリアム人間はただ青年期で終了せず、社会に出てからもこの「永遠の少年」を内にもって、しかもそのイメージを生きる人間となって、どの職場にも適応せず、何が自分の天職かもわからず、夢だけを追って生きていく成年も出るようになった。これを筆者はポスト・スチューデント症候群とよんで最近注目している(5)。ただ誤解のないように言及しておくと、この「永遠の少年」それ自身は必ずしも否定的側面ばかりをもっているのではない。創造的な肯定的側面もあり、次に述べる両親となる時代に入っても、よい意味の「永遠の少年」は自分の中にもっている必要はある。しかし、これが人格の前面に出て全くこれに憑かれていては自己破壊的になると言ったまでである。
ルカ福音書の有名な放蕩息子のたとえ話は、この自我の確立に暗示的な意味を与えている。イニシエーションには死と再生はつきものであって、失われたものを再び得ること、父の前からいったん失われた息子が苦難の未に父親の元に帰ってきたその父の喜びを表している。この主題はlost and found で、死と再生のテーマである。
いったん子どもの自分、両親のイメージとしての子どもが失われて、新しく自分で得た自分が帰ってきて、もう一度父を父とし、母を母として再把握することである。そこに新しい自分という生の出発がある。これはこよなく宗教的な主題であり、この宗教的体験なしに次の後半生は送りえないであろう。そこに喜びがあり、神に対する感謝がある。このとき、罪ある者に対する無償の十字架の愛も自分の生に引き受けて理解されるし、そのイエス・キリストとの深い人格的関係において自分が呼び出されるのである。贖罪、赦し、慰め、義認、献身など多くの宗教的要素はこの時期の苦しみの体験を通して把握可能となってくる。
四、両親となる時代の教育
日本では結婚に対する準備は物質面では多く行われるが、心の準備はそれほど行われず、特に両親になる教育は全く行われないと言ってもよい。結婚して一〇カ月もたてばやがて赤ん坊が生まれてくることは漠然と知っているが、親となることはどのような意味をもっているかなど考えずに、急に出産して驚き、あわてて命名するというのが実状ではないだろうか。結婚の準備と同様に、両親になるための準備教育はあらゆる面にわたって必要である。結婚の意味、育児への心構え、出産での両性の協力、命名および法的事項、子どものある生活の経済、嬰児・幼児の心理、そして子どもの宗教的意義など、夫が父となり、妻が母となるに必要な事項を取扱いたい。
アメリカの大学では夫婦二人で学ぶこのような講座が設置されて人気を呼んでいる場合もあるが、日本の大学にはこのようなものは存在しないから、経験のある専門家の協力を得て、こういうものがYMCAなどで開設されるのは望ましいことではないか。夫婦が一泊して行い共に学ぶ、夫婦の人間関係の訓練、感受性の訓練などもこれに入る。二人の間に争い事が入ったとしても私はかまわないと考える。なぜなら、それは普通の人間の関係では自然に入り込むもので不自然ではないからだ。むしろ、夫婦の間にコミュニケーションが全くなかったり、あっても常に直接的表現を避けていたり(姑などの存在がそれを許さない場合もある)、言語表現の信号が全く逆であったりすると、真正の通いあいがないので、そこに生まれてくる子どもは全く逆の意味を含む信号を受けることによって、あるいは二重の指示を無意識的に受けることによって、行動に移るとき困難をきたすことになり、ひいては両親から投射される否定的なイメ-ジの捕虜(とりこ)になって、自らを破壊するに至ることもある。このような問題は親となった時に二人が自覚している必要がある。どこに欠点があるか、そして男と女としてどのように相補いあって生きていくかを考えるべきなのである。子どもの教育はすべて母親に任せ、その責任をすべて担わせて、その責任を追求するだけで自分で担おうとしない未熟な父親は多い。私は、一例をあげると次のように夫婦はお互に協力しなければならないように性格づけられていると考える。
家庭の中心的シンボルは「愛」であって、妻や母の女としての性格がこれを担うのにふさわしい存在である。愛とは、一口に言って「許すべからざるものが特別に許される」という性格をもっている。母が「いけない」と言ったことは必ずしも「いけない」ことでない。特別に今回は許されることがある。仮に寝小便を子どもがしたとしよう。多くの母はさんぎん叱るが、結局最後には「今度だけ」許そうと言って許すことになる。本来は罰せられるものが特別に許されるのである。私は、父は社会のシンボルをその身に負っていると思う。それは「法」(おきて)である。父親が「いけない」というものは「いけない」のであり、例外はない。特別や例外が多くあっては法の性格がくずれる。法は普遍的、通用は平等でなければならぬ。社会は法が支配するところであって、法律の下、悪行を行えば罰せられる。その行いの大小で罰の大小が決められ、法の下に誰も平等で本来あるはずである。それに耐えられる自由で責任のある人格をもったとき一人前として社会の成員になれるのである。
しかし、最初から人間はそれに耐えられないで、何回も失敗し、許されてしだいにできるようになり、社会に巣立っていくのである。すなわち、家庭の愛の中に育てられ、父によって叱られ、法の存在を知って社会に出ていく用意をするのだと考えられる。もし社会も、家庭と同じように結局は何をしても、また自分だけは特に許される、母が私にしたようにと、子どもがいつまでたっても考えるとしたらどうであろうか。彼はいつも甘い人間になって、社会に甘え、法を平気で犯す反社会的人間になって結局は身を滅ぼすであろう。反対に家庭の中で愛を経験せず、法だけが支配し、いつも自分の失敗にビクビクしておじけ、許された経験がなかったとすれば、彼はいつも失敗する、おどおどした完全主義者になって成長しないであろう。
この「愛」と「法」の両性格は相補完的に働いて十全な人格を形成していく。たとえほんとうの親はなくとも、必ず誰かが代行してその人間成長の中の二要素は存在するものである。むしろどちらか強くて一方的な片寄りがあるのが問題である。戦後社会ではこの母と子の系列の甘さだけがめだつようになって、父親不在の危険が指摘されている。しかし反対に、ただ子どもをしごいて厳しくしても萎縮するだけで成長させることはできないことを注意してほしい。
要はいかに父が父に、母が母になるかということであり、それになりえた時に、子は子として両親を敬い、影響を強く受け、許し、両親を超えて成長していくのである。キリスト教教育は両親は絶対に神にはならず、神は別に絶対者として存在することを教える有利な点をもっている。現在の日本社会の家庭教育の弱点は、親が絶対者となって子どもを一生懸命支配し、気をつかい、投資すればするほど子どもはその圧迫に耐えかねて自分というかけがえのない人格を守るために反抗し、断絶するに至る点にある。相談室にみるまじめな両親の悲しみや嘆きはそこにある。親は不完全な存在であり、子どものために誤りを犯すこともある罪ある存在であって、共に罪を悔い改め、子どもと共に神に許しを乞わねば恐ろしく子どもを育てることなどできない存在であることを自覚しなければならない。子どもの身体に誤って火傷を負わすこともあろう。治療法を誤って生涯残る傷を負わせることもあるだろう。あの学校に入れておいた方がよかったと息子から批判される場合もあるだろう。しかし、愚かな父や母が家庭で教育を行うことができるのは、彼らが完全であるからではなく不完全な人間だからである。誤りもあり愚行もある。しかし子どもはやがて成長し、多くの場合親となってその親の行為が理解できるようになったとき、それを許せるのである。
そこに家庭での礼拝の必要性があると考えている。YMCAでのさまぎまな行事における礼拝が、この人間の罪の赦罪と神の許しをほんとうに知らせる機会となれば幸いである。自分以上の存在を指示して、共に共通の地平で神を子どもと礼讃できるようになれば、あとは神自らが直接に子に語りかけ関係をもち給うのであるから、家庭教育は完成したものになるだろう。私は、その家の家庭教育がその家の子どもたちにとって成功したかしないかの規準は、その子が大きくなった時に、その親に育てられた事実をそしてすべての誤りを含めて親の行為全体を許せるかどうか、つまり、あなたから生まれてよかったと言えるかどうかにかかっていると思っている。そして「よかった」という実感をその子どもがもったとすれば及第であろう。しかし、ケースを通して子どもの心をのぞいた時、多くの場合まだまだそこまでいかない場合が多い。そして、親を静かに許して終了するケースが多い。ここで一つのイニシエーションの教育は終了する。
お わ り に
以上、「こころ」の教育と題して家庭教育を三つの時期に分けて、その課題の一部を考えてみた。読まれておわかりになるように、私は教育をただ知能教育だけに限定して考えてこなかった。今日の学校教育でもたれている技術教育の水準の高さは、他の時代に比較して問題にはならないほどすぐれている。また人間教育という意味での近代ヒューマニズム教育も、前者よりは無視されているという非難はあるにせよ、人間の自由を教育によって解放し、可能性を引き出すという意味の人間教育としてなされている。特に、戦後は自由奔放にそれを伸ばしてしまった。民主主義の真の意味を問うこともなしにすべてを解放し、人間の悪魔的な部分まで無批判的に野放しにしてしまった。しかしながら、この無限の人間への信頼はある条件の下で成就できるということに注意を向けてこなかった。神学者であるP・ティリッヒはその文化の禅学(6)の中でもう一つの教育の要素、導入教育の重要性をと言っている。これはinducting educationと言われるもので、人間の住むべき共同体―古代では原始キリスト教の共同体、中世ではカトリック教会の世、そして現代では地球世界の共同体であろうか―の世界に人間を教育して導入していくための教育である。教育には古来から、イニシエーション教育のように共同体のりっぱな成員として教育して参加させるという要上素があるのである。受肉教育あるいはイニシエーションの教育と呼んでもよいし、人間として生きる環境の中に身心を投入して、喜んで生きる存在になることである。これが古来からの宗教教育であり、例えば旧約聖書時代は律法を教えることから始まり、それを記憶できない人間や守れない人間は律法のない人間で、その宗教的世界のメンバーとはなれず、生きている神に悦ばれる存在ではなかったのである。今日では中世のカトリック世界というせ界的統一社会が破れて以来、見える共同体は存在していない。しかし、見えざる共同体としてのグローバルな共同体は、日に日にその密接な関係を人々に意識させこれを守らねば破壊されるところまできている。したがって、これにイニシュートしていく教育は不可欠となっており、YMCAもその国際性を新たに意識して、第三世界を含めて国際的連帯を深めようとしている。
現に多くの悲惨が存在するが、本来はすべての民の子は家庭で生まれ、父と母に守られ、自分を発見し、社会に貢献しようとして立つのである。自然・人間・社会という三つの環境のレベルで、同時に一人ひとりが生きる統一体である自分が生きられる空間的宇宙を保障するために斗っているのである。このユニークな宇宙は全体の宇宙とかかわりをもって進んでいく。権力(特にこの場合政治権力)が集中して中心に向けられると周辺は全くカを失う。しかし、キリストにある愛の人格関係は二つの矛盾した要素を同時に満足させるものである。集中心化されても、一人ひとりの周辺のユニークな人間の顔のように違った存在は消えない。また、周辺を強調するあまり脱中心化しても混乱を招かない。ちょうど家庭のようにすべてのメンバーに必要なものが愛において提供され、同時に一つの纒りとして単位をもっている。そこに家庭の原型としてのすぐれた点があり、神は人間に恵みとしてこれを贈ったのではないだろうか。そこですべてが育まれるのである。ちょうど子どもが成長するように。そして、この人間の家庭の可能性の果てにも、神の可能性が広く深くなお開かれているのがみえる。この「こころ」の可能性の広がりをみつめていくところに真の人間教育としての家庭教育があるのではなかろうか。人生の段階のさまぎまな時と場所で「こころ」を意識し、その宗教的な深みを意識しうるような家庭教育を打ち立てたいものである。きっとそこには感激があるし、奇跡が感じられることもあるだろう。「こころ」と「こころ」が出会い「こころ」を共有し、通いあうこと、変貌する人間の不思議さを青少年に実感してもらいたいものである。そして不思議とその深層に、イエス・キリストの十字架が実現的に浮かび上がってくるのをみるのである。
注(1) 河合隼雄「母性社会日本の病理」中央公論社 1976年
(2) 樋口和彦「ユング心理学の世界」創元社 1978年付録参照
(3) 笠原嘉「青年期」中央公論社 1977年
(4) 小此木啓吾「モラトリアム人間の心理構造」中央公論社 1979年
(5) 笠原嘉他「キャンパスの症候群」弘文堂 1981年 拙稿「ポスト・スチューデント時代」参照
(6) ポール・ティリッヒ(茂洋訳)「文化の神学」新教出版社 1959年