「夢分析とつげ義春」
1982年 ユリイカ三月号
つげの作品はこよなく宗教的である。私は今までつげの劇画なるものを一度も手にしたことはなかった。彼の作品ばかりでなく、誰の劇画も同様である。漫画とは「のらくろ」や「タンクタンクロー」など以来、ずっと御無沙汰してきたし、二度とつきあうこともないであろうと思っていた。しかし、今度編集子から、彼には『夢日記』があること、また彼のイメージの世界は夢によっていることなどといういわば挑発にのせられて、ドカッと送られてきた『ねじ式』以来の作品を勇を鼓して、一気に読んでみた。そして、そう思った、こりゃ実に宗教的だわいと。何故、そうか、以下その感じた通りを述べてみることにする。 最初、私をして戸惑わしめたものは、いざ彼の夢を分析家として解釈するとなるとその仕方についてである。普通、私のように夢の分析をする者が夢をもってくる被分析者と会うときは、絵を措いてもらう場合もあるが、大ていは文章で書いてきてもらう。そして、それについての連想を一つ一つおたずねする訳である。これを夢の拡充法とよんでいる。そうすることで、その人と分析する者との間に特別の象徴的な心的空間が出来て、それが刻々に変化していきながら、両者の変容がなされていくのである。しかし、今度の場合、私の前にあるのは、何も言わないつげ義春の一連の作品だけである。『ねじ式』に始まり、『紅い花』、『つげ義春とほく』、そして最近の『必殺するめ固め』『つげ義春漫画集』 であった。たしかに最初はとまどったけれど、読み進めて行くにつれて、彼に絵があることがどんなに私にとって嬉しいことであるかが分ってきた。勿論、日記や彼の文も多くのヒントを与えてはくれるが、何よりも、オドロオドロした彼の絵の中に出てくるむしろ物語の中心的部分にはない、ふとした絵の隅に描かれたなにげないものまでが、彼の心象世界を実に雄弁に物語ってくれるのである。例えば、「ねじ式」冒頭の黒い飛行機や主人公が「ちくしょう目医者ばかりではないか」と言いつつ医者を探すとき、目医者の看板が六つも目をむいている。あの目は正に対人恐怖の世界をよく現わしていて、しんどい他人の目の街を彷徨う様(さま)がよく出ている。たぶん、この人は描くために絵を描くのではなくて、自分の癒しのために絵を書いたのだろとう思う。だから、この人は寡作であり、どの絵もその人の心と直接に接触していると思える。
一口に言って、これは「冥(くら)い湿気」である。魂の沐浴と言ってもよい。その心持ちよさが癒しであり、湯話であり、彼の画の身上である。東北の温泉が繰返し繰返し出てくるし、「オンドル小屋」の湿気と熱はその中でも代表的なものであろう。オンドル式の温泉に裸になって寝る少女(救い)が印象的である。
まず、夢がどう彼に取扱われているか、興味を引いた。『ねじ式』のあとがきに次のように彼は書きとめている。「水木しげる氏の近所のラーメン屋に下宿していた時、布団を干したりする窓の下に屋根があり、その上で「ウタタ寝をしていて『ねじ式』のもとになった夢をみたのだった」と書いている。当時、彼は夢にはまるで関心がなく、デタラメを描いているような気持ちで描いたとも言っている。だから「メメクラゲ」の「メメ」が「××」の誤植であっても平気だったし、そんなデタラメな作品が他人にひとたぴ芸術といわれるとそうなってしまうから「ホントーに夢みたいな話だ」と結んでいる。これは正に夢の本質を見抜いている。夢というものはそのデタラメさが本領であり、そのデタラメさの故にそれに束縛されて迫力があるのである。夢は無意識からのメッセージであり、夢は人間が勝手に支配できるものではない。夢で饅頭を食おうとした時、覚めてしまったので続きをみようとしてまた寝ても無駄である。自分の都合で支配できぬものが夢だからである。したがって、古来、悪逆の王などはその夢を恐れた。夢はこちらの勝手ではなくて、相手の都合で出てくるもので、これを受取るより外仕方ないものである。むしろ、神からの贈物と考えてもよいだろう。その意味で、私は「ねじ式」の夢に頼る部分を買うのである。それに比べると「大場電気鍍金工業所」のような自伝的な体験の誰もよせつけない物凄さよりも、夢からは離れているので、私の心には余り訴えない。そこにいくと、昭和四十三年十二月から昭和五十一年十二月二四日までの『夢日記』はやはり魅せられる。
これは島尾敏雄の『記夢志』という本の影響であるといっている。彼は、マンガのヒントにでもなればと思って書いたとあるが、「しかし、夢を面白がると大切なものが失われるようで、この本におさめたマンガ「夜が掴む」にそれが現われているよう思える」(『つげ義孝とぽく』あとがき)とも述べているのに一寸ひっかかる。たしかに、「夜が摘む」は女とつまらぬことを言い争う彼の病的な面は出ている。つまり、「夜が入ってくること」 に怯えているが、私はむしろ、「外のふくらみ」という夢日記の最初の夢のイメージ化を好む。最後に男が穴の階段を登って行くと、次第に穴は細くなり、体がはまって、遂に「こんな所で誰にも知られず、死んでしまうのか」という台詞は悲痛で、しかし、どちらかというとこれは私の被分析者にもよく出てくるシーンで、今を支配している自分の意識の終焉を意味しているようで、ここが夢らしくて面白いと思う。その他、膝からイボのように蛇が出てくるイメージや廊下の便器など印象的であって、この一連の夢日記を対象に夢分析をしたら実に面白いと思うのだが、恐らく大そうなものになってこの小論の手の負えるところではない。ただ、ここで指摘したいのは、彼の意識の意図(たぷん夢にのめり込むと病的なものが出てしまうだろうという)とは裏腹に彼の無意識は夢にのめり込み、むしろ、その夢が彼の作品を彼の作品らしくしているのがその魅力であろう。その意味で、私はここではやはり『夢日記』より『ねじ式』などの最初の作品にみられる夢の原型的な部分の力強さに魅かれて、若干その象徴解釈をしてみたくなるのである。独断をお許し願いたい。 おそらく、この一連のつげ義春の作品についての批評はもう多く語られていることだろう。しかし、夢とその解釈という観点からどうみられるかという見方に限って述べてみると、やはり冒頭のように宗教的モチーフがその特徴と言わざるをえない。『ねじ式』を主にとりあげてみると、死のイメージとその脱出にある。それを癒す女性が中心に生きている。 まず、つげの漫画には物語がある。ないようでストーリーという筋が一貫してある。そして、そのコマ割りをこんなに丹念にするものか驚くほどである。私は夢分析というのはその人の物語を描くこと、あるいは「紡ぐ」ことであるとみている。現代人は最早その時代の大方の誰にでも合致する時代の神話を失ってしまった。戦争中なら戦争中の日本国民としての共同幻想にひたっていれば、あとは神話が貴方は何をすべきか指示してくれていた。しかし、今はそんなものは存在しない。個人個人が自分の神話を苦しんで求めて、つまり自分の物語を紡がねは、自分の存在自体が深い谷底へとずるり
とおちてしまうのである。だから、分析室で被分析者と対座して夢を中心に何をするかと言うと彼の神話をつくり出す作業をするのである。神話などという大袈裟な言葉でなくとも良い。その人の物語(ストーリー)なのである。この物語がこのつげ作品の中にあることは面白い。だから彼は実に苦心してそれを探しに歩く。旅をするが、時にそのストーリーは旅に出る前にもう芭蕉のように心に浮んでいる。あと彼は理実にそれを確かめるだけである。時に、反対な現象にあってむしろ彼は当惑する。つまり、「彼の現実はすでに彼の心の中にあるのである。私は人間には二つのタイプがあって、外の世界という現実に適応しようとする人々と、もう一つ心の中に湧き起ってくる内的現実に忠実に取組み、これに適応しようとする人々であると思っている。ノイローゼになったり、赤顔恐怖になったりする人々は後者であり、だから外的な面にいつも破れが出るか、あるいは破れないかと恐怖するのである。彼がお母さんの故郷、大原に土地を求める決心をして、最も外的な仕事、世俗的なことに非常に熱心に打込むところは微笑ましい。彼のこの行動をみていると、相当やれる力もまたもっていることがうかがわれる。そう言えば「ねじ式」にもねじ廻しをもった世俗的な黒い服を着た頑丈な中年男が出てくるが、これが彼の中に生きているもう一人の男、ユング派のわれわれがシャドー(影)とよぶ、彼とは正反対の人物であろう。彼の嫌悪の対象でもあるその彼はこう言う。「きみはこう言いたいのでしょう」「イシャはどこだ」と。それに対して、彼自身のイメージである少年の彼は、「悪質な冗談はやめて下さい。ぼくは死ぬかもしれないのですよ」と言っている。敵意を燃やしながら、言い当てられている。物語は、機関車に乗って旅をつづけ、医者のところにたどりつき、途中、猫の仮面をつけた機関士にも会ったり、機関車が反対の方向に猛進してもとの村に着いたりして、このような反復恐怖的なものに出会うが、これは後に触れることにして、とにかく治癒の主題である女の医者にたどりつく。そこでこの医老について述べない訳にはいかない。この医者がまことに奇妙なのである。少年に対して出てくる医者が婦人科の医師で、巫女のような若い女である。しかも、治療というより、お医者さんごっこをしてくれるのである。
そう言えば、彼の作品の中にはじつに多くの女性、しかも少女が出てくる。典型的な美しいイメージは「紅い花」のキクチ・サヨコだろう。初潮を想わせる水に流れる紅い花、お花畑の中をマサジが背負って山を下るところは、最も彼の健康な癒しの表現である。しかし、その時少女にむかって少年は「眠れよ」と言うのである。これは、「古本と少女」「もっきり屋の少女」「オソドル小屋」にもつねに憧れの少女が出てくるが、どこか最後はもう一つピタリといかない所と符合している。むしろ、憧れの少女までは、それでも付合えるが肉体をもった女性になると、彼はついて行けないでいる。「やなぎ屋の主人」のように、日常性をみてしまい、捕まったら最後、結婚してあっという間に老けてしまう自分をみて恐怖するのである。色褪せた古い記念写真のように自分の姿を年老いた一組の夫婦の写真にみてしまう。彼の恐れをまのあたりにみるようである。この意味で、彼は反復を恐れ、日常性を恐怖する。その女の魔力は死を意味するからであろう。だから、少年が彼にふさわしいし、意識の彼は成長しないでいるのである。
女が女として、彼の中で働かない時に何が起るのか、それは動物である。母性が母性として働かなくなるとき、深い心の底で動物が動き出す。そこで彼の情念の最も深い象徽として私は鳥や犬や魚などの動物象徴に興味をもつ。つまりメメクラゲである。それに噛まれることが問題なのだ。そして、彼はそれに刺されてしまっている訳である。 この意味で「山椒魚」を最も大切な作品と私は思う。その中で山椒魚として出てくる原始的な水棲動物が彼の正体である。そして彼は山椒魚に言わせている、「俺がどうしてこんな処に棲むようになったのか分からないんだ」と。誰にも邪魔されず自由に、勝手気ままに彼の心の奥底に潜んでいる無意識の実体の象教なのである。そして、面白いのはこの山椒魚が流れてくる胎児と会う所である。流産を想わせる出会いであって、魚は腹を立て、頭突きをくらわせて別れていく。不毛だが、「明白はどんなものが流れてくるのか、それを思うと俺は愉しくてしようがないんだ」と結んでいる。
「チーコ」の鳥もただの鳥でなく、紙に描かれた鳥であり、しかも空を飛んで行くし、「峠の犬」は遂にどう呼はれてもなんとも思わぬ畜生として不気味である。「魚石」の中の魚はもう何百年前に化石になってしまって影だけを写している生物にしかすぎない。でも彼は「その姿を見た者も長生きをするそうだ」とかすかな希望をもっている。そして、「魚石の中の魚は千年は生きるという」とも言っている。大体、夢の中の動物というのは本来は人間の中で働いている動物的本能を象致しているように思う。生殖とか、闘争とか巨大なエネルギーを貯蔵しているものであって、自然に外面に必要な時に表現されると考えられるが、彼の動物性は何か遠くに距てられている。また、封印されていると言ってよい。ただ、私には山椒魚だけが自由で、その汚なさやどろどろした腐敗を栄養に生きているようだ。この意味で彼は水・陸両棲であり不死身であり、何か起るのを待っているようである。
夢分析では被分析者の最初の夢をイニシャル・ドリームと称してしばしばそれが予知夢的性格をもち、これからの将来を予見したり、主題を提出している場合がある。もし「ねじ式」がそれに当るとすると、面白いことになる。手術は成功するのであるが、その中で女の医者が言うことが気がきいている。この手術は麻酔をかけないでやることになっていると。私も精神分析をいわば麻酔をかけない、あるいはかけてしまえばおしまいの手術だと思っている。正気で少しつつやるしかない。だから夢を使うのである。夢に見てしまえば痛くても取り扱わざるをえないから。そして最後に、「そういうわけでこのねじを締めるとぼくの左腕はしびれるようになったのです」と夢に言わせている。だから、ねじのしめ方が問題という訳である。閉めすぎればしびれてしまうし、閉めなければ出血多量で死に追いやられるであろう。この血の出ている姿が彼の生身の生きている姿ということになる。恐らく、彼は今もこの難しい困難な局面に立たされており、腕は血を吹いていることだろう。そして、同様に生きてゆく多くの若者の共感をよんでいるのであろうか。病的なものの背後にある動物、特に冥い世界に棲む山椒魚もまた彼の正体であるとすると、今も「必殺するめ固め」の中年男のように湯路を伝って自由に無意識の世界を駆けめぐっていることだろうと思う、湯の中の救いの象教である女性を求めながら。そして、一日も早い彼の創造性を失わぬ回復を求めながら、筆をおく。(1982年 ユリイカ三月号 第十四巻第三号 発行所:青土社)