「癌患者の心理と医師の心理」
1985年「癌患者の生を考える」 発行所:株式会社 有斐閣
私は医学に直接携わっている者ではない。したがって,ここで心理的な側面というのは,本来は医学的社会心理臨床学者というような人が語るべきではないかと思っている。そういう人であれば,このquality of lifeの問題と非常にかみ合ってくると思う。しかし,そういう人が日本にいるのかどうか,あるいはどこにいるかはわからない。
また,私はこのquality of lifeというものを,名前は聞いていたが,ほんとうにこれが何であるかということについてまだ知らなかった。このたび初めてここでこういうことに目を開き,興味を持った次第である。
ということで,もう少し広い別の観点から,この間題を取り扱ってみたいと思う。
患者が死に直面したときには,身体的な側面――ギリシャ語でビオス(bios)という面――のケアを受けると同時に,全人的医療という観点から,体だけでなく心理的側面と一体になったプシケー(psuche)という面のケアを受け,さらにはその上の段階,体の動き,また体と心が一緒になって動くと共に,さらにこの二つが喜んで生きるというか,精神的な段階 ――これをゾーエー(zoe)という――の段階までの配慮も受けなければならないと思う。これをどう評価するかは非常に難しいことであるが,これらの点をもパースベクティプに入れて考えなければならないと思う。
では,そのケアの領域およびその性質,それらの障害となっている主な点を述べてみよう。
○医師の心理的・精神的問題
まず第1は,治療する側にとっての問題点である。最初に問題になるのは,医学の方法論である。自然科学としての医学は一つの方法論を持っており,これで今日まで生命あるいは生の延長に努力してきたわけであるが,死の臨床を取り扱うときには,どういうものを切っていくか,そして,切っていったときに,メス自身がどういうものかが問題になってくる。その医学というメスの性質と目標が再吟味されなければならなくなってくるのである。
このターミナル・ケアの問題というのは,さまざまなところに波及効果を及ぼしていき,また,それぞれに問題を起こしていく――後に医学教育とか死の教育などの面でもディスカッションがなされると思うが――。
その一つの面は,今までの医学の持っていた自然科学的方法論だけでこの間題を考えてよいかどうかということである。周知のように,自然科学としての医学は,シンプル・ロケーション(simple location)の法則に依存している。つまり,物体の一つの部分は,そのほかの部分と交換しうるし,その部分はすべて特殊なものではなくて普遍的法則に当てはまるとするのである。しかし,これをターミナル・ケアに当てはめていくと問題がでてくる。つまり,一人一人は死に方が異なるし,一人一人の人間の生というものは,必ずしも普遍化することができない,非常に個別的・特殊的なものであり,一般化することを拒絶するという側面があり,これにどう対処していくかという問題がある。
次に,医学の今までの自然科学的な方法論では,特定病因説というものがある。すべての病気にはある特定の病因があり,その病因を特定して,その特定の病因を解決することによって全面的な解決を得るという思考方法である。癌に対して自然科学的なアプローチで努力している方もたくさんおられ,やがてこの方法で成功するかもしれない。しかしながら,現在のところはこのような特定病因というものは発見されていない。そこで,現在治療不能の病に対してどのように立ち向かっていくか。病因が特定できなくても,病人という人間全体にどうかかわっていくか。この点で医療側の姿執つまり心理的,精神的価値観というものが問われてくることになるのである。
第2は,社会の通念という心理的要素である。死というのは部分死ではなくて常に全体死として考えられている。ところが,例えば脳死の問題というものは,死を部分化して考えようとすることから発生している。本来は死というのは,常に全体死として考えられてきた。だから,医学の専門家の中で死の定義の問題が解決されたとしても――例えば医師によって患者の死の判定がなされたとしても――家族や社会によって認定されなければならない。そこで初めて死というものが完成するわけである。すなわち死はつねに全体性を要求するのである。だから,医療側の判断が,常に社会的通念に合っているかどうかということが考えられなければならない。したがって,やっかいなことに,医学の範囲の中に家族とか社会とかが死の問題を考えるときにはどうしても入ってくる。医師と看護婦,医師と他の臨床専門家,医師と家族,医師と社会のコミュニケーション,さらにはそれを通しての信頼関係が必要になってくるのである。
第3は,癌という病気の社会的隠喩としての意味あるいは象徴的な意味である。19世紀には結核がしょうけつをきわめ,20世紀の病としては癌が考えられている。日本でも,戦争直後までは結核がやはりしょうけつをきわめたが,私などの結核に対するイメージは,恐しいが上品で知的で,「何だったらかかりたい」とでも言うべきものであり,「精神的」でもあった。ところが,癌のイメージはそれとは少し違って,もっとドロツとした「物質的」なものである。だから,これにまた「物質的」に対処しなければならないという考えが出てくるのかもしれない。また癌は異常な増殖カを持っている,非常に暗くて,気味の悪い存在でもある。突然,善良な人々に牙をむいて襲いかかるというような悪のイメージを持っている。ほとんどの人がいったん襲われたら,もうこれに捕まらざるをえないし,やがて死に至る,そういう不運なことなのである。したがって,この病気にかかったら最後,その人はタブー視され,タッチすることもできない人間にされて,もう普通には話してももらえず正常な世界とのコミュニケーションが断たれるという形になってしまう,というほどにも考えられている。
このように癌を悪性化して考えるという傾向は,健康神話とでもいうべき健康を礼讃し,健康を栄光化するという考え方と裏腹になっている。健康は非常に大切であるが,これだけを異常に求める結果・今度は病気をかえって異常に恐れるという結果になったのではないかと思う。したがって・病いとの自然な関係を失い,過度の恐れから患者もまた治療者との関係を失うというような形になる。だから,その反対,つまり「いつまでもコミュニケーションを失わない死」が大切になってくるわけである。また,「癌の宣告」も,患者と医師との関係を切断することになると考えられているのだが,これはまた両者のより深い関係を開始する原因にもなりうるものなのである。したがってそこで治療の質というものが問われてくるようになる。
4番目に,私が問題にするのは,治療者自身の問題である。科学としての医学,すなわち科学者としての医者は,いつも観察し,診断し・投薬し,手術する。治療者自身は,けっしてその対象に巻き込まれることはない。しかし,臨床医学としての医学,あるいは技術としての医学・臨床家としての医者は,例えば「手当て」という言葉にも象徴的に表わされているように手を当てなければならないし,そうすれぼ手が巻き込まれる。すなわち,治療者としては,むしろ体全体が巻き込まれるということになる。そして治療者自身の自分の死,第三者の死ではなくて自分の死というものが問題になってくる。彼らは患者の心の内側に入っていかなければならない。
治療者にも右手と左手があり,もし右手で左手をつねってみれば,どれだけ痛いかということを知ることができる。つまり左手の感覚,感情が必要となる。治療者の医者としてのきき腕ばかりではなくて,きかない方の手・相手がどんな気持ちであるか,患者はどのように感じているか,患者はどのように痛がっているか,こういう感ずる能力も必要になってくる。
おもしろいことに,立派なお医者さんというのは,結局,自分の中に立派な医師のイメージを持っている。この立派な医師というのは強力な医師であり,反面,自分の中にある患者のイメージはその反対であるから,非常に患者のイメージは弱体化し,もう瀕死の状態になっている。これでは,心理的に最初から癌に負けてしまっていることになる。医師である彼が癌などにかかった場合,――そういう事例が時々ある――思いもかけず彼は病気に対してセンチメンタルになったり,驚くような反理性的な反応を起こしたり,強力な医師がかえって弱い患者になったりしうるのは,こういうわけである。
死の問題を取り扱う場合,治療者自身の心の問題をやはり真っ正面からとらえる必要があると思う。これは臨床的な経験によって鍛えられるものである。普通,知性というものは教育によって向上すると考えられるが,感情は教育によっては向上しない,鍛えられない,と一般に考えられている。しかしながら,臨床という場面では,その経験を通して,感情や情操も鍛えられ,成長するものであろうと思われる。医師にも,自分の中で,よい意味での内なる権威というものが必要であるし,また患者は,このような宗教的な権威すら医師に対して求めていると考えられる。癌のときほどこれが求められることはないのである。
○死に臨む心理
続いて,患者側に起こる心理的な意味について言及してみよう。その最大のものは苦痛の問題である。苦痛には,身体的なものと心理的・精神的なものとがある。科学としての医学は,特に医療機械や薬品そして技術の進歩によって病気に対して威力を持っている。その長足の進歩を決して軽視してはならないと思う。私も,素人でありながらこのワークショップに出て,ディスカッションに参加させていただいて,いかにこの間題に対して科学者としての医師が研究し,薬を使い,特に疼痛とか吐気などに対処しているかという姿を見て非常に感銘を受けた。私はこれらの疾病そのものに関する問題はすべて,対処可能であろうと思う。
しかし,それに伴って起こってくる大きな心理的側面はなお残る。
このおもなものは死に対する恐怖である。これはさまざまな形をとっている。一つは孤独になり,寂しくなるということであろう。また,罪悪感――西洋型の神に対する罪責感というよりは,日本では,家族や職場の上司や同僚に対して,自分が死んでいくという苦しみ,あるいは「済まない」というような人間的な罪悪感――が襲ってくる。さらに喪失感覚,あるいは行き場のないやるせなさ,突然突き上げてくるような怒り,深いふちに引き入れられるような無力感などである。これらの死にまつわる感情に対する手当てが必要であろう。これらすべてをひっくるめてグリーフ・ワーク(grief work)と呼ぶが,日本では,本人に対するのみならず,家族に対しても必要である。家族との関係は,日本においては,現状では非常に大切な関係であるから十分に考えねばならない。しかし,まだグリーフ・ワークの概念も十分確立されておらず,これに対する必要性は十分認識されているとは言えないと思う。
次に重要なのは,いよいよ死に臨んでいくときに,死をどのように受容するかという問題である。それに対して心理的・精神的な援助をいかにするということが必要になってくる。一人一人の死は,それぞれが死に臨むときに異なる。死は,ある意味では非常に個別的なものであり,また具体的なものである。一般化できないところの尊厳性というものが常につきまとってくるし,これに注意しなければならない。しかしながら,研究者たちが挙げている型は,研究者たちによっていろいろ違うが,大体私は三つの型を考えてもいいのではないかと思っている。
一つは「あきらめ型」である――何%ぐらいを予想しているのかと問われて,私は,とっさに80%ぐらいであろうと答えた――。これは自己放棄型のタイプであり,死に屈伏する型である。これは宗教的,あるいは心理的,あるいは肉体的な理由から,諦観とでもいうかあきらめに至る型である。これは,一種の心理的な終結を示すものであり,すなわち静かな死であり,ある意味では,望ましい型であるかも知れない。しかし,静かであっても,これは敗れていく型である。
もう一つは格闘型である。これは私は,約20%ぐらいかと推定しているが,最後まで死つまり絶望と格闘する型である。しばしばこの戦いが未解決のうちに身体的な死が先行してしまい,死去に至る。しかし患者にとっては,ある意味で最後まで死と闘うということが必要であり,例えば,死にたくないと絶叫しながら死んでいく患者があったとしても,その感情の表現を自由にさせることがよい,医療の中にそれを許す環境が存在するということは,何よりもまして人間にとって心理的に望ましいことであろう。
第3には突破型というか,これは少数だろうと思うが,死をイニシエーションとして考えてみる考え方である。すなわち次の次元の異なった別の宇宙に旅立っていく。死を突破して勝利の安らぎ――これは宗教的な言葉であるが――を得る型である。考えてみると,人間の誕生する以前,赤ん坊として誕生する以前は,やはり死の世界である。つまり生ではないから死の世界である。しかし,人間はこれを死とは言わない。ここから苦痛もなく人間は生まれてきたのである。したがって,死には本来苦痛はないはずであり,あるとすればそれは意識との関係であるのである。つまりこの突破型は,生ある間に自分の果たすべき努めをすべて果たし,死以上の価値から死というものを見つめなおすという境地にある型であろう。
○苦痛(pain)と苦難(suffering)
最初に言ったように,これらの型は研究者によってさまざまに分類されていて,なにもただこの三つの型にとらわれる必要はない。つまりは一人一人生きてきたように死んでいくわけである。それぞれの人の人生観,宗教観,それ等に応じて最後の宗教的時間を送る,そういうことのために援助されなければならないのである。
死に行く時を過ごすこと,これを私は,イニシエーションの移行と考えている。これは新しい経験であって,この移行にはある意味で苦難はつきものである。
私は,サファリング(suffering)とペイン(pain)というものを区別して考えている。この苦痛つまりペインというものは医学で処置されるのであるが,苦難つまりサファリングというものはそうではなくて,人間一人一人に必要なものである。これを通して人間が成長していくのであろう。このために,医師のほかに看護婦,ソーシャル・ケースワーカー,チャプレインなどのいろいろな人の働きが必要であり,「癒し共同体」として,医師の指導のもとにこれらのチームが確立されるべきだと思う。そして協力して責任が分け持たれていくように配慮しなければならない。ただし,一人一人はそれぞれ専門家でありながら協力するということが問題であり,そのためにそれぞれの専門家としての教育が必要になってくる。でなければ,また患者のプライバシーの侵害とか,いろいろな問題が出てくる。そのためには,臨床的な教育に向けてスーパーパイズされた教育が是非必要である。この点,我が国では理論の教育というものは今まで発達してきたが,スーパーパイザーがついた臨床の教育というものが十分でなかったので,これを急速に発達させていくことが望ましいと思う。
最後に,このようなターミナルの問題を取り扱うとき,死というものを我々はともすると19世紀的な英雄の死とか,偉大な死――私はこれを「大きい死」と呼んでいる――というふうに取り扱う傾向がある。しかし,我々が今生きているのは英雄の時代でなく20世紀の後半であり,このような偉大な死,あるいはモニュメンタルな,記念碑的な死というものが問題なのではなくて,もっと「常人の死」「普通の人の死」,あるいは「小さい死」として考えた方がよいと思っている。そう興奮せずに自然の死を考え,死のカを馴化させるというか,慣れさせる必要があると思う。それによって死の臨床がより現実的・実際的になって,よりよい援助ができるのではなかろうかと思っている。(1985年「癌患者の生を考える」 発行所:株式会社 有斐閣)
▼参考文献
1) グッゲンビエールークレイグ,A.『心理療法の光と影』(樋口和彦・ 安渓真一訳)創元社,大坂,1981年。
2) NelsonJR;Human Life, Fortress Press,Philadelphia,1984.
3) 樋口和彦・平山正実編『生と死の教育』創元社.大阪,1985年。