「京都の地下空間」
地下と人間の深層心理――「水」と「夢」と「女」と――
1988年 月刊 京都
昨年の紅葉は温かい日が続いたせいか、また格別美しかった。そんな秋晴れの一日宝ケ池の国際会議場で世界歴史都市合議の開会式が開かれたので、修学院の寓居から歩いて会場まで足をはこんだ。広い会場の壇上には世界三七の歴史都市の代表者の方々がすでに並んでおられた。『歴史都市と文明』という今川正彦京都市長の基調講演を拝聴しつつ、私の都市についての連想は果てしない人の心の奥深くファンタジーを伴って彷捜(まよ)い込む。
かねがね、京都の駅の前に、いわゆるフロイデアン・シンボル(男根崇拝)ともいえるクワーが出来たときから、この高い建物に疑問をもっていた。京都にはそぐわないのではと心の中で反発もした。しかし、その後、東京から夜新幹線などで京都駅におり立ったとき、照明に輝くタワーの姿にほっとすることも正直いってある。そして、地下街ができて、いわば地上の「高み」と地下の「深み」がそろうようになって、あれでよいのかも知れぬと、今では自分に苦笑しながら、自分の中で受け入れている。
しかしである。それでも、京都という歴史都市の将来を考えてみると、どうもあの「高さ」がしっくりしない。あれが男性のシンボルであるとするなら、京都という都市全体を女性シンボルですっかり統一してしまうわけにはいかないだろうか。別に、北山にそれと対比される女性シンボルを立てろという訳ではない。むしろ、東山、北山、西山、それに中央部と自由自在にあらゆるところをつなぐ、地下のもぐら道か、胎内巡りの道かは知らないが、地下を設け、一たん京都の駅前の地下街ポルタに入ったら最後、そこは別世界、明るい所も暗い横道もあって、それぞれの目的に応じて縦横に歩いて廻れるようにしたらいかがなものであろう。きっと現代人の緊張(ストレス)や不安がとれて、ある種の母性胎内回帰の安らぎを得るにちがいない。
私は、京都見物はやはり草鞋(わらじ)で歩かないと本当に見物したことにはならないのではないかと思う。近代都市としての地の上はどうしてもバスや自動車を走らせなければならないだろうから、駅前に一大観光センターを建て、そこではビデオ一時間で京都の歴史的地理的案内をいつでも見られるようにしておく。忙しい人々はそれだけで京都を見物したつもりで新幹線で帰っていただく。次に、何か興味をもった観光名所を見て廻りたい方には、そこから観光バスが随時現在のように出るというようにしておく。でも、本当に歴史都市京都をみたいという方はどうしても地下道を歩いて目的の神社仏閣へ行き、上にあがって参拝していただいたらどうだろう。仏様でも、バス組にはプラスチックの模造品で結構。その代わり広隆寺の弥勒菩薩(みろくぼさつ)など、いくらでも手にとってもらったり、分解できるようにしておいて、内部を研究してもらってもよい。写生用、撮影用の特注をしたらよい。ただし、親しんでもらうが、あくまで仏様なので粗末にしてもらったら因る。
本物はやはり信仰の対象として、歩いて参拝しにきた方々だけに拝んでもらったらよいのではないだろうか。
そもそも、近代都市にはその建物の「高さ」や都市空間の「乾き」がその特徴でないかと思っている。あのニューヨーク、マンハッタンのスカイラインや東京クワーは「高い目」であり、そこに人々が登ってしまえば、はるか彼方の地上に生きる人間の苦しみも心の顔はもう見えない。それは管理の目だし、能率や支配の目である。100階のガラス張りのオフィスからコンピューターで世界の穀物や株をコントロールできても、人の心やその痛さは見えなくなる。
私はこの「高さ」に対して「深み」を提唱する。フロイトの精神分析学やユングの分析心理学はその創立からいつも都市と関係があり、20世紀の近代都市にその「深み」と「癒し」を与えていた。ウィーンでも、ロンドンでも、チューリッヒでも、サンフランシスコでも、文化都市といわれる都市には、みな夢の分析家や心理療法家が棲み彼らの治療室をもっている。観光を兼ねると同時に疲れた心や創造性を失った芸術家たちがそれぞれ自分の分析家をもっていて、そこを訪れ、心を癒し、創造性をとりもどしてまた故国に帰っていく。
たしかに、近代都市には暴力や性、不眠に拒食、金に退廃とその病理をもっている。しかし、その冥(くら)い側面と共に、都市はギリシャ、中世の昔から創生の場所であり、刺激に富み挑戦的な素晴らしい世界であった。その創造性のくるところはいつも「深み」という闇であり、無意識という測り知れない智慧の貯水池だったのである。
「乾き」に対して地下は「湿気」をもっている。地上空間とは違って、地下空間にはなによりも「湿気」があり、人間に対する潤いをもっている。したがって、私は真昼のように明るい地下街よりは、翳(かげ)りのある異次元の空間や過去の歴史的空間はできないものかと考えてきた。地下には埋蔵文化財があり、氷室があり、貯蔵の酒や漬物がある。それらはいつか分からないその日に、自分の姿を現すのを待っている。それは都市の「過去」であり、そしてまたわれわれの人生にも無意識の中に限る記憶があり、「過去」がある。それらはみな想い出されるのを待っている。そしていつしか、清水坂や先斗町や八坂で、その過ぎた過去をある種の「湿り気」と共に、人々は想い出す。あちこちにみられる、京都の疏水や地下道。手水鉢や上賀茂、下鴨の清い流れなどは、今でも大切にされている。この地下水はもともと狩野派という絵の水脈で今では京都学派のような学派となって貯められ、繋がり、時代を超えて開花する。文様化されたあの尾形光琳の水辺には、今も花が咲いている。それはいかにも京の「水」と「夢」と、そして「女」を憶わせ、それが「深み」 へと流れて「地下」のはてしない冥さに注ぎ込まれていくような気がする。
このような地下という「水」と「夢」と「女」とが京都では一体となって、人々を魅了しているのではないだろうか。
そもそも、都市というものは、市の建築課や土木部、道路公団が造ったものではない。壇上の歴史都市の代表者たちのお顔をみていると、町々が偉人や王や神によって創られたその不思議さを感じさせる。都市は戦争で破壊されても滅亡しないのは、地下があるからである。ただ都市はその「精神」や使命を絶った時に滅びる。
どうか京都も、近代都市としての「見える都市」だけでなく、地下の「見えない都市」が地下室や道路、倉庫に劇場、墓に寺となって抜け道でつらなり、なにより無数の人間の身を隠す場所 ―― かつて、勤王の志士を匿(かくま)ったように――銅像よりも殉難の碑、栄光のモニュメントより悲劇を憶え忘れない記憶のための碑が多くある所であってほしい。これがなによりも「女性的なもの」であり、なによりも京都に地下のシンボルが必要であるわけである。