自分の死を死ぬために

(1989年 「いのちを見つめていきる」ミネルヴァ書房)

 

普通人の死生観に関心

 私の興味をもっているのは、個というもの、その人のもっている死生観でありまして、それも日常、平静なときにもっている死生観ではなくて、自分が病気で死んでいくとか、いよいよ自分が死ななければならないという状況に追い込まれたときに、自分があらわすであろう死生観、そういうことのほうが、ずっと問題ですし、私は、そういう興味をもって、今まできたわけです。

 もっとはっきりと言いますと、宗教的でない人間のもっている宗教的な問題というのは、一体どうなのか、ということです。

 今までに立派な死生観をもち、立派な死を遂げられた人も知っています。しかし私は、そういう名僧とか、偉大な人間の死ということではなくて、日頃おもしろおかしく生きていて、死などについても、余り考えないで、サラリーマンならサラリーマンとして生きていって、ある日突然、自分は死ななければならないと知ったときに、その人は何の準備もできていないわけですから、どういう死生観で、その後のときを生きていくか。ここに私の興味があるわけです。

 私は分析というものを通して、個々の人に会っていきます。毎週一回ずつ、何年間にもわたって、しかも、その人の夢を素材にしながら、ずっとお会いしているという場合があります。

 そういう方々の中には、元気で普通に生活して得意の絶頂のときもありますし、反対に、そのような人が突然、がんが発見されて、やがてお亡くなりになるというようなこともあります。その過程に私がつきあっていくときに、さまざまな問題を考えさせられるわけです。

 そういうことの中から、いろいろ考えさせられたことをまとめて、何か役に立てば上いうふうに思います。

  

死と遠くなった現代文化

 一番最初に考えますのは、我々のもっている現代文化は、死というものを取り扱うのに、誠に不便な文化であると思い知らされます。

 普通の人は、個人の死をみとったり、見たりすることは、ほとんどありません。

 我々の見る死というのは、例えば自分の家族や友人が病気になっても、じゃあ手術を受けに行くからと元気な顔で、病院へ送り出して、帰ってきたときには、もう動かなくて、そしてメーキャップしてあって、これが彼だっただろうかというような形で我々の目の前にある。

 その中で何が起こったか。どういうドラマがあったのか。その心がどういう動き方をしたのか。どういう人達と関係を持ち、どういうことを考え、どういうことを感じて、こういう形になったのかは、伺い知ることはできない。

 例えば交通事故死のような、血を流して倒れているという、異常な死もあります。多くの場合、目をそむけ、通り過ぎてしまいます。現代文化の中には、死の固有の位置もありませんし、そういうものが入ってくる場所がないわけです。

 

否定するほど怖くなる

ないということにすると、これはお化けと同じになりまして、否定すればするほど、相手は大きくなりますし、怖くなるわけです。お化けでも、それが枯れ尾花であることを知れば、それだけのことであります。

 しかし、それが何ものであるかがわからないと、不必要な恐怖や、不安をもつのではないかと思います。

 我々の持っている、文化そのものがひずんでいて、そのひずんでいる分だけ我々は、不必要な不安や恐怖を、死に対して抱くのではないかと思います。

 癌という字ですが、私はこの字、大嫌いなんです。意味がわからなくても、もう字を見ただけで、これにかかったら死ななければならないような字なんです。

 大体、漢字で、おかしな字面をしている字というのは、警戒しないといかんのです。病という字とか、死という字もそうです。死の字だって、地下に何かがもぐっておるような字ですね。余計なことですが、女という字も、何とも不安定な字です。用心しなければならない。(笑)

 

語感からの恐怖を除く

 用心して、しっかり対処しなければならないわけでして、がんを告知するか、しないか。そういうときに、もっと科学的な、もっと医学的な正しい用語を、きちっと使っていくと、こういう概念をもっている字の語感からくる恐怖感を、取り除くことができるのではないかと思います。

 それぞれの時代に、それぞれの時代の有名な病気がありました。中世にはペストが、最近までは結核がありましたし、最近はがん。やがてエイズが待っている。

 そういう時に、こういう用語の概念のもっている顔に、惑わされないようにしていくことが、大切ではないかと思います。これがまず第一です。

 こういうおどかし、あるいは社会がもっている集合的な概念、特に杏定的な側面からのおどかしに、我々はもう最初に負けているのではないかと思います。

 

直線的・向上的な身体観

その次は、我々のもっている身体観、肉体観。私は二十数年前にある雑誌に、「肉体の終わりとしての死」という論文を書きました。現代人のもっている肉体観は、非常にひずんでいることを指摘しました。

その当時、死という問題は、正面から取り扱うことができませんで、一種のタブーであったために、少し斜めに取り扱ったわけです。

そのときに指摘しましたのは、現代人というのは直接的、向上的肉体観というのをもっている。

誕生して、だんだん進歩していって、無限に上がっていく。そして、あるところで死を迎える、というふうに考えている。

現代人と称する人々は、大体、進歩、発達、直線型の身体観をもっている。ジョギングをやったり、できるだけ健康な体をつくる。つくるばかりじやなくて、無限に向上させていく。また向上していくものだと考える。ですから、皺が一つふえると、これは否定的な意味しかないということです。

 例えば、記憶力というのは、二十歳で下降していきますし、臓器は、三十歳を過ぎれば、機能は下降していきます。下降していく瞬間から、今度は非常に大きなエネルギーを使って、元に戻そうとする。その恐怖と闘っていく。

 ある女の人が、例えば、お肌の曲り角が過ぎてしわが出るとして、そのしわの一つひとつに、何方円かけても構わないという大変なエネルギーを注ぎ、財力を投入して、老化を防ごうとする。

 現代という文化は、時代の頂点にある若者を信仰し、賛美し、それ以外のものを恐れるという形になっています。老人は、中古の青年になるということです。

 

健康信仰の価値観

 しかし、よく考えてみますと、子供は子供の固有の価値がありますし、老人は老人の固有の価値があるはずです。決して肉体的に人間を見るという見方だけではないはずです。

 命というものを考えるときに、命というものを、肉体の十分な機能を、フルに発揮させる状態が最もよいという身体観、同時に死生観をもっている人達が、多いわけです。

 私は、こういうのを「健康ばか」と称しております。余りにも肉体的に健康になり過ぎますと、不安になって、そういう人達を見ると、どっかおかしいのではないかと思います。

 健康というものを、一番上の価値の玉座にまつり上げて、これを賛美して、それ以外のもの、例えは病気であるとか、多少寝られないとか、多少自がかすむとか、そういうことを全部マイナスの意味しか与えていないという、健康信仰の価値観の構造ができ上がっているのではないかと思います。

 駅などでのポスターで、夏になりますと、きれいな女の人が、きれいな砂浜で泳いでいる。あれを見ますと、夏になると、日本の未婚の女の人は、全部どっかの島で泳いでいるんではないかと思います。しかし、もし自分の家庭にご病人がいて、自分はその人を看病しなければならなくなった人がいるとします。あるいは自分自身が、体に故障があったりして自由に動くことができない。そういう日々を送っていらっしゃる人がいたとしたら、その人はそのポスターを見たとき、どれだけ自分は、これに反して不幸な状態なんだろうと考えてしまうことでしょう。

 ところが、実際に、ああいう場所に行ったら、さんさんと太陽の輝くところで、ぷかぷか浮いていたら、ものの一時問もするうちに日ぶくれになる。快適どころか、あれはポスターだけの快適でして、そうすると、我々のもっている、快適であるとか、苦しみがないとかという、一つのイメージは、どこか肥大していて、どこかゆがんでいるのではないかと思います。

 

生がなければ死はない

 もっと大切なのは、現代人にとって死というのは、自分が体験しない何かである、というふうに考えます。意識しか自分には価値がないと言いますから、意識がなくなれば、もう自分はどこにいるかもわかりませんし、死というのはないというふうに考えます。

 先ほど言いましたように、その存在を否定したときに、その存在というのは一番怖く、牙をもって襲いかかってくるかもわかりません。

 そういうものがあることを認め、できるだけその姿を見ようとするときに、それでもこわいには違いありませんけれども、不必要な恐怖とかいうのは、なくなります。

 死というのは、生の向こう側にある何かではなくて、生がなければ死がないわけですから、生の反対の向こう側にもあったし、今もあったし、これからくる向こうにもあるものではないかと思います。

 そうすると、我々の住んでいる現代文化でない文化、例えば中世の文化とか、古代の文化は、随分たくさん、死の象徴とか、シンボルをもっていましたし、儀式ももっていましたし、また家庭の中で、そういう訓練や教育を受ける機会がたくさんあったわけです。

 割合近くに、死と一緒に住んで、それをなじませながら、どういうふうに自分は死んでいくかを考えて、育っていくような環境になっていたのではないかと思うのです。

 

立派な死に方ができるか

 私は今、宗教の世界におります。ですから、樋口は立派な死を遂げるのではないかと期待して、いろんな人が見ています。特に本を書いているので、あれがむごたらしい死に方をしたら、もっと別の道を進まなければならない、というふうになるかもしれない。これだけ本を書いたら、神様が、私だけは死なないという保証を与えてくれたら、もっと立派な研究をして、もっと精細に死をみて、ご報告申し上げられるんではないかと思います。

 しかし、そうではなくて、私も死んでいきますし、皆様の死よりも、もっと立派でない死を遂げるかもしれない。宗教家といえども、そういうことは関係ない。関係がないどころか、お医者さんに言わせると、かえって厄介で、難しいという方もあります。

 私は自分が死にたくないと絶叫しながら、自分の表現の自由を認めてくれながら死ねる。そういう看護婦さんがいてほしいし、そういうことを許してくれるお医者さんがいてほしい。

 そういう人に、みとられて死にたい。

 

臨床牧会訓練を十二年

 私は、将来牧師になる人達、神学部の学生さん、大学院の学生さんを、ここ十二年ほど、京都の日本パブテスト病院に連れていって、セミナーをもっております。 これを臨床牧会訓練といっています。

 将来、牧師になる人が、病院の中で死に直面したり、苦痛に苦しんだり、孤独に苦しんだり、そういう方に出会うことによって、自分の宗教観、自分の使命が、どういうものであるかを自覚していく、そのための訓練です。

 普通、勉強というと、特に神学なんていうのは、紀元前から紀元後にかけて、現在までにたくさんの文章がありますから、そういう聖典とか、教義とかを学校で習います。論文もたくさん書きます。

 しかし、どんなに宗教的な思想、教義を習っても、実際にそれが役にたたなければ、例えば神の愛というふうにいっても、その人が接する相手が、神の愛を感じてくれたり、受けてくれなければ、何にもならない。

 人間というのは、どんな人も、死にのぞんだときに宗教的時間をもちます。非宗教的に生きてくればくるほど、もしかしたら、宗教的時間をもたなければならないかもしれません。

 そのときに、自分の傍らに宗教家が立って、その宗教家が、どの教義を信仰していようとも、具体的に、宗教的な行為として、その方の魂、心を休めてくれて、彼がそういう苦しみと闘うことを援助してくれる。そういう牧師、宗教者を養成できないかということで、私はやっておるわけです。

 教師は、私ではなくて、一人ひとりがもつ患者さんです。

 

患者が持つ罪意識

 入院している方は、多くの人が、いろんな形の罪意識に悩みます。例えば、自分がもっと早く検査を受けておけば、こんなことにならなかったのに。家内が言ってくれたときに受診していれば、こんなことはなかったのに。私が、こういうふうになったために、家族はどんなに苦しみ、嘆いているか。自分がもし、いなくなったときに、残された家族が、どんな苦しみを受けるか、ということを思って、苦しんでいる場合が多くあります。

 ある若い患者さんが、血液の病気で治らないとわかっている。午後になると、家族が車に乗って来るんですが、お母さんが上まで上がって来られませんで、お父さんだけが上がってくる。

 そのときに、二人がお話しているのを聞いていますと、息子さんは、お父さんに対して、自分が亡くなっても大丈夫なんだということを、迫ってくる時間と闘いながら、お父さんに言っている。

「お母さんはどこにいるのか。家にいるのか、元気にしているのか」と。実際は下で待っているわけです。上へ来られない。

 それを見ているときに、患者さんのもつ、そういう罪悪感。小さなものも、大きなものもあります。それはさまざまな形をとって迫ってくる、ということがわかりました。

 またある方は、自分がこれで死ぬということになるとすると、どうしても、離れた娘さんに会いたい。その娘さんは家出をして、反対を押し切って出ていったんでしょうが、あのときにあんなひどいことを言わなければよかった。ひとこと娘にすまないと言ってから死にたい。胸の中の、まだ完結してない思いを満たしたいのですね。

 

心の機能を活性化

 体だけではない。どういう目的に向かって、どういう価値に向かって、どういうふうに自分は生きていくかということで、初めて生き生きとしてくるわけですね。

 それがなくなれば、たとえ呼吸をしていても、生ける屍のようになってしまう。ということは、体がただ生き生きとしているということばかりではなくて、精神、心まで含んだ意味で、生き生きとしていることが大事になってくるんです。

 体は、衰えていくけれども、それを補って、心の機能を活性化してきて、多くの人の親切とか、人の心とかが、にわかにわかり始める。心が通い始めます。その人の精神的な世界は、ぐっと広くなってきます。

 病院で入院した経験のある方は、おわかりになると思いますが、食事をして、朝まで、むちゃくちゃに長いわけですね。あとは、天井を見ていなければならない。

 昔、結核がはやったときも、多くの人が結核を療養しながら、いろんなことを考えるわけです。いま活躍している文学者とか哲学者とかいう人達で、青年時代に結核を患って、恐怖や死と闘い、療養していたという体験をもつ人が、かなりいるんです。

 ということは、体を治しに療養生活に入っていくわけですが、結果的に自分の心を巻き込んで、心の発達、成熟を促して、出てきたときには、違う生に入れることのできる準備をして、もし自分は生かされて、社会にもう一度帰ることができたら、自分はこういうことをしたいと考える。

 

西村公朝氏が戦地で見た夢

 仏像をお直しになる西村公朝先生という方、この人は文化財委員会の委員として何十年にもなり、また、芸大の彫刻科の先生となられて、今は小さなお寺の住職をされて、石に仏像を彫っていらっしゃる。この方にお会いして、なぜそういうことをなさるようになったんですか、とお聞きしたんです。

 戦争のときに中国に渡られて、戦地で夢を見て、その夢に、仏様がいろんなお姿で出てこられた。

 その夢の中で、仏様に対して、「もし生き長らえて、戦地から出ることになったら、あなた方の修理をいたしましょう。待っていてください」とお願いした。それが元になって、全国の壊れた仏様を訪ねて、今日までいらっしゃった、ということです。

 

なぜ自分が病気になるのか

 人間というのは、ある一つの体験、しかもその体験が意識にとっては好ましい体験ではない、予定された体験ではない場合、例えば、病気がそうですが、なぜ自分は病気になるんだ、ということになる。

 医学的には、病気というのは、こういう原因でなるというのはわかるけれども、多くの患者さんは、「隣りのやつは、あんな悪いことをしても、ぴんぴんしていて、私は悪いことをしてないのに、なぜ、がんになるのか」と、いうことになる。そんな中へ、学生を派遣して、病棟につける。

 何をしてくるか。何を自分はしたらいいか、自分で考えて、したらいいと思ったことをして帰ってくる。そうすると、患者さん達は、変な人が入ってきますから、「どこから来たか。何をしに来たか」と問う。苦し紛れに、「お友達になりたい」とか、「あなたと一緒にお祈りをしたい」とか言いますと、「みんな間に合っています」とくる。大体、ただで宗教家が来たら、危いですから。

 

病院に宗教の出番はない

 病院の中には、そういう宗教の出番はないわけです。病院というところは、科学の支配するところです。

 昔はありました。古代のお医者さんというのは宗教家でしたし、いやしびとであった。ところが現代は、医学と宗教というのは、二つにはっきり分けています。

 多くのお医者さんに聞きますと、面会時間に、そういう宗教をもったりした方が、訪問されると、病状が悪くなる恐れがある。また、むちゃくちゃなことを言う人もいる、ということです。例えば、こんな先生にかからないで、私が持ってきた薬を飲んだら治るとか、医学の中に生の宗教を持ち込むことによって、医学自体の仕事が壊れてしまう。

 しかし、宗教家の方が、そういうことをわきまえて、病院の中にいるお医者さん、看護婦さんのほか、栄養士とかソーシャルワーカーとか、検査技師と同じように、自分のプロフェッションを自覚しながら、全体の中で宗教家として働く。

 そういうことができれば、患者さんにとって都合のいいことではないかと思います。

 

宗教観の成熟に役立つ

 ある患者さんは、将棋を指してはしい。ある患者さんは、自分の書いたものを読んでほしい。ある患者さんは、そばに座って手を一緒に組んでほしい。そういったさまざまな必要をみたしていく。

 将棋を指しながら、話をしながら、その人の本を読んであげることをしながら、ときにその人は、はっと思うような心を開くときがあります。

 「先生、私が死んだら、どこへ行くんでしょうか。その途中には苦しみがあるんでしょうか。残された家族を心配していますが、どうしたらいいんでしょうか」。

 そういうときに、その人の必要に応え、その人のもっている宗教観を、もう少し成熟させることができるんではないかと思います。

 ある学生は、ちょうど産科の部屋で、妊娠中絶の手術を受けたご婦人と話していたら、突然、そのご婦人は、「自分は赤ちゃんを殺してしまった」と叫ぶ。 その学生は、一緒に礼拝堂に行って、罪の許しを願うことを一緒にしました。

 病というのは、非常に個別的です。個別というより、この段階ではこの言葉、あの段階ではあの言葉、この人にはこの言葉、どんな段階の人も、どんな種類の人達も、その人が必要としていることを聞いてあげる。それが非常に大切なものになっていくと思います。

 

生命の質を追求する医学へ変化

 これからの世紀、例えば二十一世紀に、科学と宗教が、独特の形で昔に帰るという形ではなくて、独特の形で、二つがもう一度結合する時代に入ってくるんではないかと思います。

 例えば、単なる延命という価値を追求する医学ではなくて、クオリティ・オブ・ライフ、生命の質を追求する医学に変わっていくだろうし、治療だけを目的にするのではなくて、治療ができないものに対して、それでストップしてしまうのではなくて、人間が生きている限り、どんな段階でもケアをしていく、という医学。

 そのためには、それを支えている、治す側の倫理とか価値観も、宗教の死生観によってバックアップしていく。そういう宗教が求められてくるんではないかと思います。

 今までの医学は、治すほうは、いつも治すほうです。治される側の患者は、いつも苦しむほうです。だから、病院の中で、さっそうと歩いておるのは、看護婦さんかお医者さんです。

 病院の中で会うお医者さんは、すごくしっかりしているという感じですね。お医者さんはますます健康になり、患者はますますみじめになる。どんな人間でも、あそこに座った瞬間に、どっかが悪くなるし、みじめになる。

 

医者・患者が持つ相互のイメージ

 私は、お医者さんの中にもっている患者さんのイメージ、これは非常に大切だと思っております。健康なお医者さんであればあるほど、患者さんのイメージは不健康で、みじめで、治りにくい。いったんこの病気になったら、もう駄目だというふうに思ってしまう、そういうイメージがあるかもしれません。

 お医者さんばかり責めて、不公平なんですが、それじゃあ患者さんの中に、どういう自分自身のイメージがあるか。多くの患者さんは、自分は非常に不幸であって、力がなくて、駄目だというイメージがあります。それにさいなまれる。

 お医者さんに会うことによって、そのイメージを投射されて、自分はそういうふうになることが多いと思います。反対に、患者さんの中にもっている医者のイメージが、非常に貧困であって、自分の中で仕事をしてくれるお医者さんの像というのが、不活発で、頼りにならない。

 お医者さんは、自分の患者さんとしての像を自分の中に引き受けて、また反対に、患者さんは、自分の医者の像がいかに貧困であっても、できるだけ医者像の力を自分で強めていく。自己改革の機能をここで活性化していくということができるんです。

 患者さんの会が、あちらこちらにあります。そういう方の報告とか、そういう方に接すると、患者さん達が、自分の中にある医師のイメージは不活発で、ちっとも活躍していない。それを、寄って話し合うことによって、お互いに刺激しあい、お互いに強めあって、成熟させる。そういうふうに努力なさっているのではないか。

 もし、そういう中に、ちゃんと自分の患者のイメージをつかまえることができるお医者さんに入っていただくと、人間と人間との交わりができ、病気が回復するばかりでなくて、非常に生き生きとした状態になる。

 これを「傷ついたいやし」と言っております。自分は健康であるにもかかわらず、自分の中に病んだ人のイメージを入れて、そして、自分の傷つくことによって、人をいやしていくというイメージです。

 そういうふうに考えますと、本当にいいお医者さんは、私が言ったことをよく理解してくれますし、私が気がつかないことまでも感じてくれます。そういう人に出会うと、本当にほっとしますし、私の心を差し上げて、そして治してもらえるんではないかと思います。その交わりの中で、今度は自分で責任をもって治していこうというカが出てくるのではないか。

 

問題は、「自分の死」

 死というのは、客観的に勉強したり、客観的にとらえるというのは、余り意味がないので、問題になってくるのは 「私の死」 ですね。

 『死よ奢るなかれ』 という、本がありますが、死は、すべてを支配しよう、すべてをさばこうとするわけです。

 しかし、これと闘っていく。死の中に入っていって、死に勝つこと、ここにどの宗教でも、宗教的核心の大切な点がある。

 死の向こう側に復活を見たり、永遠の生命を見たり、死の向こう側に、何かそれ以上のものを見出していく、そういうものです。

 

死はイニシエーション

 そういうふうに考えていきますと、死というものは一種のイニシエーションであると思います。

 いろんな局面を通って、次第に人間は成長し、発達していくわけです。身体的に発達するばかりではなくて、精神的に発達する。

 例えば、誕生というのはそうですね。向こう側も私も知らない世界から、ここへ入ってくる。ここに一つの境界があって、スポッと入ってくる。子供になれば、今度は、子供から大人になる一つの境目があって、越えていく。成人になり、老人になれば、老人になるというときは非常に苦痛ですが、やがて、いつまでもこの世にいたいと言っても、またどこかへ行く。これはイニシエーションです。

 イニシエーションというのは、二つの特徴があります。一つは儀式。結婚式であろうと、成人式であろうと、誕生の式であろうと、儀式と宗教というのは、今まで非常に結びついてまいりました。 ところが現代人は、ある種の儀式を生かしますが、これをシリアスにやったり、大切なものとしてやろうとはしなくなって、儀式には余り意味がないんだ、というふうな考え方をもつようになってきました。

 私は、現代人には現代人に合った、宗教的な表現が、あってもいいと思うんです。それは心をゆすぶるような何か強いもの、ということです。

 そのときに一番助けになるのは、今日まで人類もそういう遺産としてもっている祈りであるとか、聖典と言われるようなものが、心の慰め、心に勇気を与えるのではないかと思います。

 

苦痛と苦難を分けて考えよ

 それから、もう一つ、我々は苦難と、苦痛とをわけて考える必要があるんではないか。

 苦痛というのはペイン。がんの場合は吐き気と、痛みですね。日本の末期の患者さんの最大の問題は、精神の問題、宗教の問題もありますが、まず解決しなければならないものは、痛みと吐き気の問題だと思います。

 そのために例えば、麻薬が、もっと使われてもいいんではないか。お医者さんも麻薬というと使いたがりませんし、法的に厄介なもので、都道府県が管理していますが、過度に厳格であるために、なかなか使えない。

 痛みというのは、いったん体験したら、次にまたこないかと、非常に恐れをもって主観的、個人的になります。これだけ医学が発達しているのですから、もっと個別的に、この場合はこういう形の痛みがくるということで、それが出てくる前に、対処していく必要がある。

 もし痛みを、完全にマネージすることができるなら、もっともっと精神的、宗教的に、いろいろな最後の儀式を行うこともできてくるんではないかと思います。

 

苦難の中で悩みきること

 これはどこまでも苦痛の問題です。苦難、サッファリングというのは、むしろ、その中にあって、悩みきることによって、人間としての尊厳さ、生きがいを感じる、そういう源になるのではないか。

 それを、あり得べからざるものとして、現代の文化が死を否定するように、表現はよくないけれども、せっかく苦難が与えられているのに、何かで切ってしまう、解消してしまうことは、人間としての自覚、人間としての生活の経験をこわしてしまうのではないかと思います。

 人間は、死んでいくときは孤独です。いくら愛するものと一緒に死にたいと思っても、死ぬのは自分一人です。

 そういう中に、何らかの形で宗教というものが、孤独の中に切り込んでくる。そして交わると、その人のイニシエーションを助けるのではないかと思います。

 

苦しみを楽しむ

 現代人というのは、苦しければ逃避する。反対に、楽しければ逃避しないで、それを求める。そういう一種の快楽原則をもっています。

 苦しみを楽しむというのは、現代人は、例えばサディズムというように、否定的な要素だけしかみていきません。そうじやなくて、我々の本当の楽しみ、特に宗教のいろいろなものを読んでみますと、魂の本当の喜び、霊的な喜びがあります。

 必ずしも、現代人が考えているような、肉体的な快楽にすり替えたものではなくて、魂が苦闘の末に発見するとか、そういう境地です。

 苦難のただ中に一種の快楽という言葉は、また、楽しみというようなものもおかしいんですが、ある種の恍惚な境地というものがあらわれてくる。

 それが偉大な人間とか、立派な人にあらわれてくるばかりではなくて、普通の人間が、一人ひとりに与えられた死の中で、そういうものを体験していくのではないかと思います。

 

最後に何が残るか

 今は擬似死の体験を終えられた方の報告が、随分と出ております。そういう人達の報告を読んでみますと、どれが本当でどれが嘘かよくわかりませんが、我々が死んでいく過程の中で、ある種の予期しない心安さ、快さ、あるいは光をみて、光の中に道を導かれてと、そういうような話をしてくれる人がおります。

 こういうものは言葉を絶するものですから、言語のままで受け取っていいのかどうかわかりません。あるいはまた走馬灯のように、いろいろなことが思い出されて、特にその中でも、だれが愛していてくれたか。

 それは時空を離れて、意識の価値構造が壊れていって、今まで自分の一番大切だと思っていたもの、例えばお金だとか地位だとか、家族とか、そういうものが、ばらばらに壊れていって、最後に残る価値観、自分はだれに会いたいか、何をしたいか、何を感じたいかというふうに、急速に、自分を愛してくれた人、そういうものの顔が目に浮かんで、ほかのものは一切、自分にとっては価値がなくなって、それだけが輝いている、というようなことが出てくる。

 最後に、私は不思議に思うんですが、私が死というと、生きていて、向こう側のことばかり考えますけれども、私が生まれてくる前は、これも死になるわけです。私が生まれてくるときは意識がありませんでして、生まれてきたとき、どうであったかということは、よく知らないのです。

 しかし、苦痛はありませんでしたし、むしろ覚めていくほうがずっと苦痛でして、それからまた、思春期になっていく。そして向こうへ出ていくときは、恐らく、こっちが死から生へのイニシエーションであるとするならば、生から死へのイニシエーションですから、やはりそういうふうにでき上がっているのではないかと感じます。

 

小さな死、大きな死

 もう一つだけ申し上げれば、どうも死の問題を取り扱いますと、人間の生き死にのことですから、すぐ英雄的になっていくわけですね。何かすごいことをいわなきゃいけない、すごいことをしないといけない、そういうときがあります。

 私は、大きな死のほかに、もっと小さな死があるんではないかと思います。例えば金魚が死んでいく、我々の細胞が死んでいくとか、それから、娘が結婚するときに、自分の娘が死んでいって、妻になるわけですが、小さな死というのは、我々はいろんな意味で体験しているのではないかと思います。

 こういう小さな死の体験を、もっともっと大切にしていって、そしてやがて大きい死に対するときに、そのための準備を、十分につけておく必要がある。そうすれば、それほど不必要な怖れはなくなるのではないかと思っています。