「拍子はずれのユーモア」
1991年10月8日 京都新聞 現代のことば

 人を笑わせようとして顔に飯粒をつけて人前に出ても誰も笑わない。笑わせてやろうという意図がみえみえであるからである。しかし、慌てて昼飯をかきこんで、御飯粒がその顔についているのも知らないで教室に出ようもんなら、当人が真面目に講義をすればするほど、一同大笑いである。なぜかというと、本人はその飯粒に気が付いていないからである。
 つまり、その悲劇性がじつにおかしいということで、どうもいつも喜劇と悲劇は隣り合わせであるような気がする。そう言えば、私の好きだった松竹新喜劇の亡くなった藤山寛美さんの芝居ではいつも悲しい涙のとき、また私はいつも笑わされていた。
 外国で勉強なさったお方はお分かリと思うが、隣の人がゲラゲラ笑っているのに英語が分からず、ジョークをただ一人黙っているのもしんどいものである。といって、やっと笑ったら一拍おくれの高笑いで皆の視線を浴び冷や汗をかいたこともある。これからはどうしても国際人たるものユーモアのセンスの欠けた人は通用しないと思う。つまり、どんなに人間は賢くなろうとも、どこか外から見れば欠けたところがあるという意織で、時に誰しもそれを忘れて自己主張せざるを得ない時もあり、そのところに人間の悲しさがある。少なくとも国際的に通用する人物というものはその性というか、どこか人間のこころの深いところにあるおかしさを知っている人を指すのだろう。近ごろは大分よくなったが、この点で日本人はどうもユーモアのセンスに欠けるようである。特に公式の場で笑うことは不謹慎だとして忌み嫌う。そこへいくと、アメリカ人はちょっと笑いすぎではないかと思うほどよく冗談を連発する。彼らを見ていると、次回のために自分の得意のジョークをいつも二つや三つ用意しているらしい。中にはあれをやってくれと言われて、「では…」とやる人もいるから、普通の人々の間ではおなじみのジョークでも結構通用するのかもしれない。
 アメリカの人にはじつに親切な人もいるもので、私も留学の初期にはジョークも言えずしょぼんとしてたら、友人の一人が自分のおはこを一つわけてくれた。人にもらった話の悲しさで、「次は彼のそれを是非・・・」というのでやったはよいが、パンチラインという小話の落ちを先に言ってしまい、ハッと気がついてもどこで終わるのか分からず、話しながらの冷や汗をかき、教えてくれた友人をはらはらさせた。
 このような巧まぎるユーモアはパンチが早かったり、遅かったりで思ねぬ笑いを産むものである。もうすでに海部首相の胸の内に仕舞い込まれたから「重大決意」が何であったかうかがうすべもないが、そのずれをこの方のユーモアの美徳として感じさせて頂けたし、その底にある身の引き縮まるような現実もまたちらと見させて頂いた。次にどなたがなるのか知らないがユーモアのない政治家だけは御免こうむりたい。なぜなら、それほど国民にとって危険な人はいないと思うからである。
(同志社大学教授・宗教心理学)