「双面の医神」

1990年 「臨床看護6」

 

 

○患者としての医師

 

 熟練した看護婦さんからよく聞くことであるが、医師が病棟に入院してきたら気をつけたほうがいいというのである。医師が病気になって患者になると、看護するうえで気難しいことが起こって面倒なことが多いという。もちろん、立派なお医者さんもおられるし、医師とて多様であり、全部が全部というのではないが、なにかと看護婦は気をつかうというのである。

 これは私にわかるような気もする。つまり、いくら立派な医師でも、医師として立派であっても、ひとたびその人が患者となると話はまったく別だ、むしろ一般の人々より難しいことになるかもしれないというのである。

 これは現代医療の一つの盲点をついている。どんなに健康な医師でも、病気になるときもあるし老いる。それは一般の人と変わらないはずである。しかし、現代医学では建て前としては不思議なことに医師は絶対に病まないことになっている。反対に患者は絶対に医学の対象になって病むことになっている。だから医師の前で座ると患者はそのとき病気になるのである。もし、検査の結果なにも悪いところがないとすれば、それは検査の仕方や器具の精度がもしかすると悪いのであって、やがて精密な器機が開発されると、「すべての人を病人にしてみせる」ほどになる。もちろん、私は誇張して述べているので、実際はそういうことはない。しかし、ここでいいたいことは、現代医療ではとかく人間対人間の関係が忘れられがちで、医師対患者の関係にすべてが還元されてしまい、しかも片方は治す者、他方は病む者にしてしまうが、本当にそれでよいだろうか、という点である。

 古代の医神は双面の神であるか、少なくとも二重の性格を同一の人格のなかにもつ「傷ついた医者」という神であった。インドのカーリ神でも天然痘の医者と患者の二面をもち、ギリシャのもっとも古い信仰であるアスクレピオスの神殿に伝えられる医神も、その治療にあたる神殿では洞窟のなかに参篭して癒されるという医術であった。つまり、医者は同時に病いを負う者で患者でもあったわけである。この医神の伝統から、後にギリシャ医学の祖となったヒポクラテス(Hippo krates)が出たことはよく知られた事実である。彼の思想は外科学や精神医学に対する科学的合理的思考をもって、これが現代医療に受け継がれて発展させられてきた。これは喜ばしいことであるが、忘れられてきた側面もあるのである。それは医師も同時に心を痛め病む人であるという側面である。患者にとってよい医師とは鋼鉄のように硬い鎧を着て、どのような痛みを訴えてもはね返すような人ではない。よく開いてくれて、一緒に、ときには悩んでくれる人である。

 今、癌の末期医療で問題になるのが病名の告知と疼痛の処理である。いろいろな議論があり、さまざまな意見があるが、多くの場合、それは医師と患者の人間的な深い関係、しかも信頼関係に帰着するところが多いようである。その関係なくして、たとえ病名告知がされても、それはこちらの重荷を他方へ移し変えるだけであり、反対に、病名を告知しないことは、また医師としての責任の回避にもつながるのである。しかし、もしここに信頼関係があるならば、どちらにしても他者への深い配慮にもとづく決断として、しかも両者ともに予期しない人間的な経験の深みに2人を連れていき、ともにその体験は両者に満足感を与えるであろう。

 また、疼痛や吐き気の処理は、私は今、現代医療のもっとも反省の求められているところだと思っている。医師は患者の痛みに対してあまりにも鈍感でありすぎた。近代医療の麻酔剤の発明利用から、めざましい外科学の発達となったので、痛みの処置は得意の分野であるはずである。

 痛みのやっかいなところは個人差がありすぎるという点である。不安も危機も疹痛も主観的要素が強い。また、一度体験すると次に痛むのではないかという予知的な経験をすることによってなお痛む。個人的で、またわがままにみえる。もし各個人に疼痛のための薬剤の処方計画がなされ、麻薬系統の薬剤も大胆に投与でき、しかも徐放性のモルヒネなどによって先に先に痛みをコントロールできれば、おそらく癌の末期医療の現状は、非常に現在とは異なって明るいものになるであろう。もし身体的な疼痛、悪心、不快が薬剤によって処理されたとしたら、あとに残るのは精神的な痛みであり、これは医師の心の遣い方によってコミュニケーションが患者との間に最後の最後まで確保されて、交わりのあるなかで死が迎えられるようになるであろう。

 

○メディカル・コンプライアンズ

 

 このメディカル・コンプライアンス(medical compliance)という言葉は、西欧の医療者たちの間でよく使われ、ときどき耳にする。たいていは、患者が薬をよく飲み、休養したり、通院したり、検査や食事指導に黙って従ってくれる人を「コンプライアンスがよい」といい、「ノン・コンプライアンスの患者」と書いてあれば、これは悪い患者であるから気をつけろという意味である。つまり、医療者が患者管理の視点から使う言葉である。現代医療がしだいに慢性疾患を中心とした疾病構造に変化したので、治療期間が長くなり、自覚症状が少なく、ときにHIV感染症のように発病の不安と闘いつつ療養生活を長期間すごさねばならないようになったからである。

 しかし、反対にちょっと考えただけでも、こういうときほど患者側の治療に対する積極的な参加が必要であり、治ろうという意欲や意志がどうしても大切になってくる。「ほっといたら死にますよ」とか、「いうことを聞かないなら、もう手遅れになりますよ」とか、いわば強い脅しをかけて、患者を屈伏させて、病気の恐ろしさでコンプライアンスを得ようとする。これは同時に、ややもすると、「ほっといてくれ、そんなことするくらいなら死んだほうがよい」というような、患者側のノン・コンプライアンスを呼び出すもとになりかねない。

 では、本当にコンプライアンスを得るにはどうしたらよいのだろうか。患者の逃避的な反応ではなくて、長期にわたるその人のライフ・スタイルの変更を伴うような積極的な治療への参加がどうして得られるのだろうか。もちろん説得も大切であろう。しかし、多くの場合、患者側の人格変化やなんらかの生活様式の変更というような苦痛を伴う場合、やはり人間関係の構築がまず必要となってくる。「何々先生や看護婦さんが私のためにいってくれるのだから」聞こうという態度である。そして、その効果はすぐ出ない場合が多い。そのような場合は、長期間にわたる説得までの準備の期間というその長さが、やがてその決心の探さを補う場合がある。

 意外と忘れられていることに、医師と患者との間の治療についての「取り引き」がある。実は治療者側がなにか与えたら、それを100%直ちに患者が受け入れるというような素直な関係ではないのである。いつも先生を怒らせてはいけないから、患者は一見「はいはい」と聞いているようなことをいうが、実際はそこで意外に多くの取り引きをしているのである。この患者の「おまかせ」スタイルの奥にそれがある。医師との心理的取り引きの力動性に注意を向けて、本当の意味の患者の心からなるコンプライアンスを引き出してこなければならない。

 私はいつもその医師の心のなかに患者のイメージがことを決定するとみている。健康な医師のなかにも病める患者は住んでいる。他人を治療するということは、他人を自分の心のなかに入れることである。もし医師がこんな患者の状態に自分がなったらおしまいであると思って、彼のイメージを自分の心のなかに入れることができず、他人事として排除していたとしたらどうか。その医師のなかにある悪い患者のイメージの投射を絶え間なくこの患者は受けることになる。おもしろいことに、意外と健康な医師ほど病んだ患者像をもっているものである。では患者のなかにある医師像を刺激して、自分で自分を活かそうとする積極的な癒す力をその人のなかにどのようにして呼び出してくるか、これが問題の焦点である。私には古代の医術がたとえ神秘的、魔術的なところがあったとしても、その本質の部分はもう一度見直されなければならないと思う。

 

○コーディネーター

 

 別に看護婦さんにお世辞をいうわけではないが、前述のような医療者側と患者との取り引きをそばでみていて、上手に治療に結びつけるのは女性の働きであるように思う。

 どうしても、現代医療はさまざまな専門家や職種の人々の機能的に一体となった包括医療である場合が多くなってきた。そこでまた、それぞれの専門の治療技法や目標の対立も生み出されてくる。利害も対立してくる。たびたび例に引いて恐縮だが、HⅠⅤ感染症のような場合、患者の個人の秘密の厳守という人格にかかわる問題と感染の予防の問題とが根本的部分でどうしても矛盾してくる。ただ、一人の主治医が患者の秘密を守っていても、その患者は外科的な手術も受けなければならないし、歯科の治療も受けなければならない。ボーイフレンドもできるし、結婚生活も送らなければならない。また、教育や就職の不当の差別を受けるかもしれない。従来の単純な治療体制よりは非常に複雑な人間関係のなかでそれぞれが仕事をしなければならないし、治療者側の体制の調整がなにより必要になってくるのである。もちろん、医療費任者、管理者としての医師の最高の責任体制にいずれの国においても確立されていて、これは明確である。しかし、医師だけがすべての側面で万能であるという考えは誤っている。また、神様ではないので一人でできるはずもないのである。

 そこでコーディネーターというすべてをつなぐ調整・推進役が必要になってくる。わが国では今までは縦社会の管理体制で仕事も処理してきたが、これから患者中心の全人医療体制にもなってくると横の関係に並びかえて、しかもその目標に応じて、柔軟に対応できるシステムがとうしても必要になってくる。

 一人一人という部分が全体をもっていて、全体が一人一人という部分で専門的に仕事しているという体制である。そのためには、自分はほかの職種の人がなにをしているか理解している必要があり、また知っていても、ほかに人の領分に越境して混乱させないというような仕事の仕方である。その中心になるのがコーディネーターである。もちろん臨床の場では誰か一人がこの役割をとり、周囲のほかの人々がこれを認める場合もあり、これが分担してもたれる場合もある。

 医神という場合、今日では一人の人間を想像しがちであるが、たとえばアスクレピオスの神殿など、紀元前10世紀には始まり、長い間エーゲ海を中心とした古代地中海沿岸地帯の各所に存在していたこれらの神殿跡は、アテネをはじめいろいろの場所に今日みられる。しかし数多くの神官やその他の人々が一人の神の名前のもとで働いていたと考えられ、患者も世界各地から名を伝え聞いて集まってきた。医療の技術について、その参籠の神秘的体験の内容などは失われてしまったが、しかし、全体として巨大なシステムとして統合しながら運営されていたらしい。後世になって、医神は遊行神となり、ヨーロッパ各地の都市を巡回するようになり、しだいに専門的な技術(アート)として中世、近代と発展してきた。

 最近、包括医療の名のもとに、たとえば血友病の患者のグループなど、医療者側の援助を受けて、自立的に療養体制を組む試みがある。治療にあたっても、産業医科大学病院のように特定の日に、関係する医療者側の全体が集まって治療にあたり、患者はその部屋ですべて用がたりるという体制もできつつあると聞く。動かない医師が、反対に動いていって患者の場所に行き、神殿ではないが、すべての専門家が集まったその場であらゆる用がたりるというような医療が始まっているのを知って嬉しく思った。まだまだ問題点も多く、そうやすやすとは発展しないように思うが、コンピューターの発達などを考えるとそのような試みが困難にもかかわらず続けられるのが大切ではないかと思う。この場合、やはり私はどういうコーディネーターが生まれてくるのか注目していたい。患者と治療者側、専門家と素人、理論と実践、身体と要望など、すべての二律背反を触媒のようにつなぐ専門家である。なぜか私は女性の成熟した人がわが国にもやがて多く生まれてくるような気がしてならない。そのとき、現代医療の高度に発達した優れた点と、今まで述べてきたようないわば遅れて歪んでいる点が上手に結びつけられるのである。これは母親が子どもの能力とニードを精細に識別して、その必要性に応え、しだいに成熟性へと発達させるような「育てる」力であって、男性のような概念と概念を峻別して、メスで切断して、患者を除去したり、部分をただ結合させるような力ではないので、「切断」と「より分け」は異なるし、より分けることは忍耐のいる仕事である。このような女性のカが医療のカに本来的な意味で入ってくることを望んでいる。(1990年 「臨床看護6 Vol.16 NO.6 1990」 発行所:株式会社へるす出版)