影との斗い
エペソ2:11-22
(1990年5月13日 丸太町教会説教)
今日は母の日です。私にも母が一人おりますので、花を一つつけております。ここにおられる方々も皆そうだと思います。これは大変平等で、皆に一人ずつ生んでくれたお母さんがおります。生を受けた恩恵のために、どの方も自分のお母さんを思い出して感謝しなくてはならないと思います。小さいとき、母を知ろうとするとき、母を通して、神さまはどのような人であるかをおぼろげながらに感じるものです。自分が病気であったとき、学校の成績が悪かったり友達にいじめられたりするとき、まず自分を信じてくれて慰めてくれる、看病してくれるというような神のごときの存在であります。ですから一年に一度、教会は全員に赤いカーネーションをつけて母の愛に感謝するのです。
しかし、私は母の愛についてこれから説こうというのではありません。なるほど私たちは母の愛の庇護の下に育ってきました。母は本当に神のごときのものであります。でも神ではありません。いわば母の愛というものは血の愛であります。血がつながっているから母は私の心の隅々がわかるし、私を信じて分かってくれる強さがあるのです。日本人は母の愛を絶対化しています。他にどこにも頼るところがないとき、私たちは母に甘えて母を絶対化するのです。
でも私たちの教会というのは母の愛以上のものを目指しています。皆さんは幼い頃、このような体験はないでしょうか。お母さんがおまんじゅうやケーキを兄弟に分けてくれるとき、兄や姉に大きいものを与え、自分には小さいものしかくれないとき、そっちがほしい、といったことがありませんか。おかあさんは「おまえはこれでいい」と言い、子どもは泣いてお母さんに「ぼくの気持ちがわからない、不公平だ。お母さんは僕を愛してくれない。」と抗議したことがありませんか。 このように母の愛の中には正義がなく、時に母は目がくらみ、天秤が不平等に傾いてしまうことがあります。我が子がいけないことをしたとき、いけないといえないことがあるのです。我が子であろうが人の子であろうが、悪いことは悪い、という正義が母の世界には欠如していることがあります。今私達は、母の世界から離れて、成人した世界の中に一人一人で住んでいます。教会の兄弟姉妹の愛というものは、かならずしも血に準拠した実感的な家族の愛ではないのです。聖なる家族の愛というものは、正義を通過したその果てにある人間と人間の愛です。もう一段高く、もう一段深められたところの愛です。そこで本当の兄弟姉妹となるのです。
ではどうやって血の世界から、このような契約の世界に入り、厳しい契約、おきての世界に耐えることができるのでしょうか。ここに悪の問題が入ってきます。母が保護してくれている世界には悪というものは存在せず、すべてが許される世界でした。ところが私たちの成人した世界は、私の目から見て都合がわるく困るもの、私を責めて攻撃し、苦しめるもの、恐怖を与えるものが充満しているのです。そういう中にあって私たちは人を愛して行くことができるのでしょうか。恐怖の敵は愛です。愛の敵は恐怖です。私たちの心が恐れや不安や恐怖に包まれてしまったとき、私たちは自分を守ることに精一杯で、もはや人を愛することなどできなくなります。そこにうずくまってひたすら神に助けを乞うのみになってしまうのです。こういう世界の中で、聖書というのは私たちにどういうことを語りかけているのでしょうか。エペソ2:11-22 の中の、14節にこう書いてあります。「キリストは私たちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣をとりのぞき、ご自分の肉によって数々の規定からなっている戒めの律法を廃棄したのである。それは彼にあって二つのものを一人の新しい人に作りかえて平和をきたらせ、十字架によって二つのものを一つの体として神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。」“敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。”これが今朝私たちが学ぶ御言葉です。こういう世界の中で、私たちの心の中に起こってくる敵意、恐怖というものを滅ぼすことができるのでしょうか。 実は人間というものは、敵を憎めば憎むほど、自分を正義化し、かえって自分を滅ぼしてしまうように思います。聖書に書いてあるような平和というものは生じてこないのです。恐怖が恐怖をよび、不安が不安をよび、研ぎ澄まされて行くほど不安は深まり、平和には到達しないのです。どういう風にして到達することができるのでしょうか。ご一緒に考えましょう。
私は最近一つの文章を書きました。その主題は「宗教とは」というもので、その中に「宗教と悪」というテーマがあり、そこでは、恐怖、影、悪と戦うには、5つの段階があるとの述べています。
第一段階は、影の出現です。どこか地平線のかなたに、自分を脅かす黒い雲がきざしとして出るのです。実はこれが一番怖いのです。小さければ小さいほど、異常であれば異常であるほど、怖いのです。敵はいつも自分とは異質のものです。同じもの、友達なら恐れません。私にとっていつでも暗く、正体不明のもの、そしてそれがいつしか増殖して大きくなって私を滅ぼしてしまおうという魂胆を持っているのです。ガンであろうととなりのビルであろうと、同業の店であろうとまた、競争する学者であろうと、小さな影が恐怖を呼び覚ますのです。こういう恐怖というものは黒い色と結びつくことが多いのです。どこに私が怖がっているものがあるか、目を閉じて見回してみると、いくつもいくつも小さな黒い点があるのです。しかしその段階では敵はまだ外にいます。私の国ではなく、地平線の向こう側に居るのです。「点の影」という本の中に、心を病んだ人が書いている一つの詩がのっているので紹介します。「窓ガラスが割れている。その破れが鋭く尖っている。人が人を殺すごとき。そんな形に破れている。二つの影が刃物をもっている。相手の影ももっている。じっとみていると今にも抜け出してきそうだ。だんだん大きくなってくる。黒い影は飛び出してくるくらい大きくなった。ガラスが机の上に落ちている。それを拾ってにぎった。先が尖っている。不気味に光っている。殺せ、その先でのどをつけ。殺せ。戸の隙間から死の神が入ってきて死ね 死ね と叫ぶ。 殺せ。」 これは、胸を締め付けられるような詩です。この作者だけでなく、だれでも、とても小さな恐怖であっても、それに耐えられず叫びたくなるような弱い心というものを持っています。
しかし、われわれは次の段階に入らなくてはいけません。それは影と衝突する、ということです。影は大きくならずそのまま消滅してくれたり、あるいはそのまま去ってくれればいいのですが、しかしながらこっちに向かってやってくることがあります。これは恐ろしいことです。いよいよ近づいて私の領域に入ってくるとき、一番怖いのは、実はその敵というのは、私とおなじような顔をして、私とおなじような姿をしていると知った時なのです。小さな点であった影は、近づくにつれて大きくなり、衝突するとき、イメージにより実際よりもずっと巨大に感じられるのです。このような恐怖に取り囲まれながら、私達は、だれか身内の中に通報しているものはいないか、と考えます。そしてそれらしき人を発見したとき、「あいつがいるからだめなんだ」という風に考え、悲惨な内戦状態がはじまります。私達は恐怖と戦うとき、まず自分の身の内を整えなくてはなりません。
第三の段階、それは影の侵入です。敵はどんどん攻めて侵入してきます。敵はいよいよ中の人になります。初代教会においても、敵が外にいる段階ではまだ信仰を守っていられますが、敵が似せキリストとして教会の内部に入ってきたとき、その争いはもっと深刻になってきます。実は、私達の“影”というものは、私の“弱点”なのです。私が弱点だと感じていないもの、むしろ得意とするものが現れても、私は怯えません。しかし欠点、弱点だと思うところが私の内にやってきたとき、脅威を感じます。例えば字が下手な人の内へ、――私もそうで、兼ねがね下手だと思っていますが―― 字の上手な人が、入ってきて、そしてその人が字を書き始めたとき、私は一番脅威を感じます。実は一番の敵は、私の欠点、弱点なのです。私は神さまに証をする場合、長所で証をすること ―― それはもちろん大事なことですが―― しかしながら、短所で証をすること、人に隠したい欠点で神さまの証をするということ、人にみせられないような誉めてもらえないような場所を神さまの前にだして証をする、ということが最も難しいことです。料理の下手な人が料理を作ってみんなに食べさせる、どんなに恥ずかしいことでしょうか、人から何か言われた時、どれほど心に突き刺さることでしょうか。しかし神さまが現れてくる場所というのは、私達の長所の場所ではないのです。多くの場合、神さまがお見えになる場所というのは、クリスマスにあのイエスキリストがお生まれになった場所のように、私達がもっとも弱い場所、影の中に神さまはひどい姿をして入ってこられるわけです。もしかしたら神さまは私達がイメージしているような立派な方ではないのかもしれません。私たちが、この人は神からもっとも離れていると思う人の中に、立派ではない形で現れ、私達に近づいていらっしゃるのかもしれません。そして、あなた方は神を愛することができるか、とおっしゃっているのかもしれません。これが影の侵入です。
第四段階は、影の反転です。その影は反転するのです。今まで一番弱点だと思っていたことは、実は神さまが現れる場所であり、恵みになるわけです。パウロは、自分がユダヤ教徒であったとき、キリスト教徒を迫害していました。彼にとっては痛恨の出来事であったに違いないと思います。神様にとって許されるはずのものではないと思っていたわけです。私達は自ら反省するとき、その罪というものは反省してもしきれるようなものではないということを知っています。ではどうやって許されるのか。人間以上の力によって許されなければなりません。神さまは罪を許す時、私達が目覚めるために、自ら自分の体の傷つけました。つまり、その罰の中に恵みというものが現れていること、私のこの中に恵みがある、ということをずっと言いつづけて来られました。ですから私達は十字架に出会ったときに衝撃をうけるのです。自分の傷の真っ只中で、神さまというものが立ち賜うのです。その時、私達にとって汚濁であったものがもっとも尊く、もっとも価値の低いものがもっとも高く、反転するのです。
そして最後に影は変容します。正義というものは大変尊く、皆が公平であるために必要なものです。しかし、どの人間も本当の正義というものは耐えられないものです。正義が研ぎ澄まされれば研ぎ澄まされるほど私達はなお裁かれていき、そこには救いがないのです。ですから、母の家をでて、自分達の生活をはじめたとき、正義という観点から絶えられなくなって辛くてうずくまってしまいます。 しかしながらその中に十字架が現れてくるのです。聖書はこのようにいっています。「十字架によって二つのものが一つの体として神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼした。」私達の敵意というものは頑固で、決して簡単に滅びるようなものではありません。十字架がなかったら、神の血がなかったら、滅びることはないでしょう。神が私達の罪ために十字架にかかって、そのことによって私達は愛というものを知るようになったのです。ごく初めは私達の愛というものはささやかなもので、つまずきの多い、持続しないものかもしれません。しかし恐怖に打ち勝って、愛を次第に高めていくときに、十字架に裏付けられて次第に高められていくときに、次第に恐怖の影は消えていくのです。あなたが今生きているということは、神によって守られているということです。あなたが存在するということは、存在自体で神に許されているということです。そして十字架の存在に目覚めるのです。自分の影に直面するものは、自分の光に気付くことになります。自分にもこういう光が与えられていた、自分の中からこういう光がでていたということに気付くようになるのです。その時、聖書にあるとおり、「神の家族」となり、血の家族をでて、もう一度聖なる家族の中に数えられ、神を“天のお父様”と呼び、祈ることができるのです。