「神様、よろしかったら、お電話下さい」
1990年7月28日 京都新聞 現代のことば

 これは、かの有名なコピー・ライター糸井重里氏の手になるものという。さすがに巧(うま)いものだと感心する。 何が上手かというと、今の人、つまり現代人の宗教観を見事に言い当てているからである。なんと言っても電話は身近である。パーソナルで、秘密が守れるのが良い。また、自分から電話しないで、神様に電話をかけて貰(もら)うのが気に入った。(コレクト・コールだったらどうしよう!) 私は別に予言者でないので、西洋で四百年、日本で百年続いた、この近代という時代が終わって、すぐ来る二十一世紀、ポストモダンの新しい時代がどういう時代か分からない。しかし、宗教と科学が今日のように領域を住み分け、それぞれ離婚していた二元論の時代は終わって、あたらしい柔らかいスピリチェアリズムの時代が来るのではないかという予感がする。 少なくとも、今のように宗教は人の心の内側だけのもので、外は客観の支配する科学の世界、しかも当てになるものは物であり、外を支配する科学の世界だけだというこの考え方だけは変わっていくだろう。もちろん、両者が一体になっていた、呪(じゅ)術の時代、プレ・モダンに帰れといっているのではない。 そうではなくて、例えば、現代人は自分の気分や感情、夢の内容まで勝手に見られると思っている人が多いからである。遠足の前の晩、先生によく寝ておきなさいといわれて、寝ようと思って寝られず、ついに泣きだしてしまった子供の時のことを覚えている。それまで、なんでも出来ると、思っていたからである。 長い間、宗教は弱い人、病んだ人、遅れた人の迷いごと、未熟な人の報われる事のない憧(あこが)れであり、そして強い人、武士は神仏を頼まず、であった。もしかすると、この現代のサラリーマンの企業戦士と織田信長あたりからの侍とは宗教観が同じなのかもしれない。そして、いまやこの「外」が「内」を、人のこころのなかまでも支配しようとした近代は終わろうとしている。 あるこの町で知られたセラミックの会社の社長さんで、科学者でもある方におうかがいした事がある。どのようにダイヤモンドより固く物と物とが結合するかは、じつは不思議なんですよ、と。同じ条件でも次の実験ではくっつかない。つまり、今日のように科学技術が発達すると、測定も精緻(ち)になり、追経験も困難な状況にもなり、まるで行う人の祈りにも似た、物に対する実験者の心の態度がその結果にも影響するのではないかと考えるほどである、と言うのである。 二度とは起こらない真理もこの世にあるかもしれないし、追経験できないような出来事がその人の全人生を変えてしまう事もあるかもしれない。もう一度、科学と宗教を辛福に結婚、いや再婚させたいものである。ホスピスのなかで、鉄のカーテンの向こうで、静かに新しくいま二つが手をとりあおうとしている。
 二年ほど前、学界でラッセル・シュワイカートという宇宙飛行士にお会いした。この方は、機械の故障で五分間宇宙船の外に何もせず放り出されていたそうである。その時見た、地球は冷たい岩石の塊ではなくて、奇跡のように青く輝くまるで息をする生き物であったと言う。地球の外にでるという体験は新しい。そこからいま何もかも見直している。 その時、「神様、よろしかったら、お電話下さい」。
(同志社大学教授・宗教心理学)