「女神 モニタ」
1990年11月2日  京都新聞 現代のことば
 
なぜ日本の多くの銀行はギリシャ・ローマ風の神殿建築になっているのか、長い間疑問に思っていた。知りあいの銀行の人に尋ねても「さあ?」と言うばかりである。最近、ある大銀行のビィヘイビヤーが問題になったり、イラクに人質がとられながら、四十億ドルも多国籍軍に拠出すると約束してまだ足りず、汗も、皿もとなってきて、どうやら一体お金とは何なのか、われわれも考えねばならない時にきているようである。
 そもそも英語のマネーはローマの女神モニタからきている。ゼウスの奥さんヘラ(ローマ名ユノー)の別称というか、あだ名で、その神殿は貨幣の鋳造所であったところに由来している。したがって、もともとお金には宗教的起源があったと言って良いのであろう。
 しかし、お金には表と裏があるように聖と俗があり、銭を空中に放り上げて占うように、幸福な面と不幸な面の二つが同居しているらしい。人によって、ばかにお金を汚いもの、ロにすべきでないものとして、軽蔑(べつ)する人がいるかと思えば、反対に汗の結晶、勤勉の報酬として、尊ぶ人もいる。
 面白いことに、どうもこのモニタがローマで崇(あが)められるようになったのは、世界各地に当時駐屯していたローマの兵隊さんにお金が足りなくなると、この神さんがお金をつくって、送ったかららしい。そこで、士気が揚がり、戦うこともできたし、勝つこともできた。お金というものは、古来ありふれた貝がらや、石、犬の歯、鋼など比較的価値のないもので造って、交換するものより価値のあるものなら、懐にしまっておくだろう。つまり、その価値の差は女神の魔力で補われることになる。そこにどうしても貨幣鋳造には疑いが付きまとわれ、信用のある神殿でとなるのである。そこで、もう一人の知恵の働く神様ヘルメスのおでましである。ギリシャの昔からこの神は交易や商業の神様として、奉られてきた。お金は物を変化させる。らくだが油になるという具合である.彼は足が速くて、姿が見えない.まさに「おあし」である。今では差し当たりクレジットカードか、IMF資金、それに株屋の電光掲示板にという具合である。今日では、彼の足はますます速く、その姿は目にも止まらない。 彼が産みおとされた時、暗い穴にいた。すると、目の前に亀がいっぴき歩いていて、彼はすぐさま身をさいて、甲羅で楽器リラを作り、またアポロンを騙(だま)して牛を盗んだ。ゼウスの怒りに触れた時、うまいこと言ってこの楽器と牛を上手に交換したから、楽神アポロンは感心して、二人は仲のいい友達となった。
 私は、この日本の戦後、商業、交易、コミュニケーションの時代、なによりも ヘルメス的時代を生きてきたのではないかと思っている。そこでお金なるもの、女神モニタを、いまだ日本人自身それがなんであるか知らない。ただそれは、時に人々には安全であり、威力であり、悪であり、性であり、そしてなによりすべてのものを換算する冷厳な現実を意味する。だがしかし、しょせんはただ人間がお金に見たいものをそこに映しだすだけである。手に触れるもの皆金に化し、食べ物まで、黄金に変えてしまい、身に授けられた刀を嘆くミデス王の悲劇がそこにある。だから、この女神がわれわれに、汗と、皿を要求する前に、その正体を見極めてこれを知恵で用いて、もう少し地球のためにこれを使える者になりたいものである。
(同志社大学教授 宗教心理学)