「善意の暴力」
1990年9月12日 京都新聞 現代のことば
 最近、いわゆるヘルピング・プロフェッション(援助専門家)とでもよばれる職業の人々が増えてきている。お医者さんや看護婦さんなどは昔から人を助ける専門家として知られてきたが、近ごろになって私たちの周りに片仮名の職業、中でもカウンセラーとか、ケースワーカーとか、スピーチ・セラピストとか、コンサルタントとか、さまざまな困っている人々のために相談にのったり、実際に手をかして専門的に援助する人がいる。また、それらの人とは別に、いわゆるボランティアと称するいわゆる素人の人々が大勢、社会のなかで隠れたよい働きをしておられる。私もささやかではあるが、二十四時間眠らぬダイヤル「いのちの電話」にかかわらせていただいている。これは主として、自殺の予防のためで、じつに多くの人々が、昼となく夜となく献身的に電話相談を受けておられ、私などそれにはいつも頭がさがる思いである。
 今回はこれについて書くのではない。プロであれ、アマであれ、このような人に援助する人々が、陥るワナ、善意の暴力について書きたいのである。
 いわゆる悪意にもとづく暴力についてはだれでもよく知っているし、警戒もしている。しかし、よく考えてみると、悪意のものなど善意のそれに比べればまだかわいいものである。それが証拠に、人の物を盗もうとする泥棒など、自分がやはり悪いことをしているとどこか知っているとみえて、どうもこそこそとやるようである。また、泥棒にも器量に大小があるらしくて(経験がなくて断定は出来ないが)、やはりそれだけの器量がなければ、そう簡単に大金をやろうと思っても、出来るものではないらしい。
 ところが、善意では事情は全く異なる。これには器量はない。普通の人でもじつに立派なことを仕出かすのである。また、その刀には明と暗の両面がある。特にその善意が相手に拒否された場合が一番恐ろしい。もとより、相手のためになるからと、善意の人は、誠心誠意柏手につくす。このひた向きの純粋さ、その誠実さこそ善意の何よりの取りえである。わが国の人は特にこれが好きで、またこれに弱いのではないかとかねてから私は思っていた。
 誤解のないように言っておくが、私はこのような善意を否定しているのではない。それどころか無償の善意こそ温かい人間の住める社会をつくる基礎であり、たとえ自分のこともろくに出来ない人でも、なお他人のために何か出来ることをする。なんと尊いことか。 だが、しかしである。その善意が相手によって拒否された時どうなるであろう。恐らく、彼、または、披女は反省するだろう。「まだ、私の力が足りなかった」と。なぜなら善意のあふれる人だから。そして、なお前にもまして、相手に迫るだろう。そして、また拒否されると、なお激しく迫る。そして、やがて「よぉーし、見ておれ、君(あなた)のためにこんなにやっているのにィ! 今にみておれ、今度はそうはさせんぞ!」と。いつしか同じ善意が柏手を生かすどころか、殺してしまう暴力に変わるかも知れないのである。 なるほど、そう言えば、どの戦争も「善意」の侵入である。その暴力による被害は計り知れない。どのヘルピング・プロフェッションにも自戒すべきことである。これを防ぐ手はただ一つ、己れの内に呼び出したその暗い力を自分で知り、これに克(か〕つ男気を持つこと。これである。(同志社大学教授・宗教心理学)