命を与えるもの

口語訳聖書:詩編34 12・22   コリントⅡ 2:12-17

(1991年8月25日 丸太町教会説教)

 

 

詩篇34篇 12節

さいわいを見ようとして、いのちを慕い、ながらえることを好む人はだれか。

あなたの舌をおさえて悪を言わせず、あなたのくちびるをおさえて偽りを言わすな。

悪を離れて善をおこない、やわらぎを求めて、これを努めよ。

主の目は正しい人をかえりみ、その耳は彼らの叫びに傾く。

 

詩編34編 22節

主はそのしもべらの命をあがなわれる。

 

コリント人への第二の手紙/2章 15節

わたしたちは、救われる者にとっても滅びる者にとっても、神に対するキリストのかおりである。

後者にとっては、死から死に至らせるかおりであり、前者にとっては、いのちからいのちに至らせるかおりである。いったい、このような任務に、だれが耐え得ようか。

 

 

旧約聖書における二つの命

 大変蒸し暑い朝です。こういう時は命がなえそうになり、元気が出ないものであります。

 さて、先ほど司会者の方にお読みいただいた、詩編の34編 12節『さいわいを見ようとして、いのちを慕い、ながらえることを好む人はだれか』とあります。ここで命といっているのは、聖書が糾弾している命のことであります。ながらえることを望むのはだれか――ただ幸いを得ようとして命を慕って長く生きることだけを求めているのはだれか――と言っています。そういうことを聖書は命だと考えているのではない、と言っています。 そしてもう一つ。22節に、『主はそのしもべらの命をあがなわれる。』と書かれています。

 私は聖書における命というものは、少なくとも二つあると思います。一つは、うすっぺらい、浅はかな命です。そしてもう一つ、聖書が本当にいっているのは、私たちの奥底にある命、「命に触れる」というような、そういう命であります。聖書では、結論が先に出ています。私たちの命というのは、キリストによって購われた命であるわけです。これが旧約聖書です。

 

パウロが言う「命」と「語り」とは

 それから、新約聖書。今朝語るのは、コリントⅡ2章16節。『後者にとっては、死から死に至らせるかおりであり、前者にとっては、いのちからいのちに至らせるかおりである。』

 「かおり」については、また別のときにお話をすることにして、ここにある「命から命に至らせる」にある「命」とは、どんな「命」なのでしょうか。一つの命からもう一つの命へと私たちは人生を送り、そして最後に「真心をこめて神に使わされたものとして神の御前でキリストにあって語るのである」と、パウロは言っています。なぜ、命に触れたものは、語るのでしょう。「命」と「語り」とは、一つの相関関係があり、「命に触れたものは、語らざるをえない」し「語ることが命の表現である」といっているのです。このことをまず頭に置いて、命について述べてみたいと思います。

 

日常の中に見失う命

 日本でも外国でも、現代人は忙しくなってきて、みんな疲れたような顔をしています。もしも宇宙人や、前の時代の人がここへやってきてわれわれ現代人を見たら、「この人たちは命をもっているのか?」と思うに違いありません。自分の顔を鏡に映して見たら、「これは命をもった生物の顔だろうか、本当に命を持って生きているのだろうか?」と思うかもしれません。現代人はもしかすると、命をもっていないのかもしれません。命を持たずに生きているなんて、そんなばかなことはないはずなのですが、それでも「現代人には命がないのかもしれない」と思う日々です。

 ではなぜ生きているのでしょう。私たちは義理で生きています。惰性で生きています。責任や義務で生きているのです。歳を重ねると、たくさんの責任、義務が生じます。朝起きて、学校、職場に行かなければなりません。家族のための義務。仕事のための義務。学校のための義務。教会のための義務もあるかもしれません。どういうものがどんどん加わっています。そうやって生きていると、いつしか、本当の命がなくなってしまうのです。元気を出そうと思ってなんとかドリンクを飲んだとしても、ただのカラ元気がでるだけ。多くの場合、こういう命、つまり責任や義務というのは、より上のもの――国家とか会社とか社会とか――から課題が来るのだと思います。そして自分の心の中、非常に深いところにある、命の源、命の泉については、考えようともしません。いや、考えることもあるかもしれませんが、そんなものは別にどうってことない、大したことはない、それよりももっと大きい会社のため、もっと大きい国家のため。もっと大きい何かのために私は命を奉げなくてはならない・・・という思いにかられるのです。が、そう思いながら何も捧げていない。ですから、日常生活の中で、命がなくなってしまうのです。大部分の人は、義務だけで、仕方がないから日々生きているということになっているのです。

 

偶然の中で出会う

 そんな毎日の中で、みなさんどうですか。時々、「おれは生きているなぁ」と思う瞬間があるでしょう。たとえば、ところてんを食べたときとかね。なんでもないようなつまらない時に、にやっと笑っていたりして、人が見たら吹き出すような時かもしれません。いったいどんな時に、私たちは本当の命の泉というものに出会うことができるのでしょうか。

 意外なことに、私たちは「本当の命に出会いたい、出会いたい」と思っていますが、本当に自分の命に目覚めるということは、大変恐ろしいことです。我々は恐怖するのです。だから多くの人は、私も含めて、死んだふりをするほうが、実はずーっと楽なのです。いったん目覚めてしまいますと、自分の人生がどう変わるのか、自分のまわりがどう変わるのか想像できないほどの、革命的な起爆力というものを持っているのです。つまり、本当の自分になる怖さ、というものがあるわけです。怖い怖いと思ってなるべく死んだふりをして毎日生きていても、時々人々はその命に出会うのであります。そして目覚めるのであります。これは偶然であります。出会いたくて出会うひともあります。本当の訓練をして、よほどの修行をして よほどの立派な人は、出会いたいときに出会えます。でも我々凡人は、偶然に、命というものに出会うわけです。

 

偶然とはいつなのか

 まず偶然の一番の源は、命を与えるもの、つまり母親です。母親が子供を産むわけです。私の命というのは母親からいただいた。偶然私はいただいたわけです。命とは、最初から偶然で始まっているのです。しかし、日常ではそんなことは忘れています。誰しも、昔から私が生きていたような、母親などないような顔をして、感謝もせず、当たり前だと思って忘れています。

 では次に命に出会うとき。それは、人によって様々ではありますが、大抵は、その人が最も困難にあった時、自分の命が危険にさらされた時に、本当の命に出会うのであります。そしてそのときに、「この私にも命が与えられていた」ということに対する感動を味わうのであります。本当に自分の命が無くなりそうになる時...例えば、病気によって命が取られようとしたとき。今生きている命が全く新しい姿を帯びて、私は今生きているのだなあと。感激をもって命と出会うことができるのです。また、仕事の命が失われようとしている時もそうです。ただ義務感だけで仕事をしている自分が、私に与えられた命の仕事に出会った時にこそ、この人は目が輝くのであります。その仕事は困難かもしれない。この仕事はやりおおせる力がないかもしれない。恐れを抱きながらも、感激をする。私にも命が与えられていたという感激があるのであります。命は偶然の時に、しかも幸福の絶頂ではなく、不幸のどん底という中で、私たちは命に出会うのです。

 

命との出会いの物語

 命の出会い、目覚めるとは、どういうことなのでしょう。これは非常に不安なことでありますが。密かな喜びでもあります。怖いけれどどこかでニタっする瞬間です。こういう経験には、「話」といものがあります。「話」には、話したいこと、話したくないことがあります。話したいことは、誰でも一つは持っています。ある人は恋人のことばかり言っています。もういい、聞きたくないと思われても、まだしゃべっています。しかし本当に恋をした時には、人には言いたくない、という気持ちもあります。言いたいけれども、同時に言いたくない。深い命に出会ったときの経験というのは、そういうものなのです。

 

語り始める密やかなストーリー

 自分たちの命というもの、深いいのちではなく、こうやって生きている命というのは、長い歴史の中で、難しい言葉で言うと「集団のシンワの中に」ある命。これが病んで、ひずんでいきます。私たちが前提としていることが、だんだん陳腐になってくるのを見ます。私たちがすがっているもの。世の中はどんどん変わっていき、いつかそれが露わになって、古い集団の心理は、どこかへ消えてしまうのです。例えばこの一週間を見ても、ソビエト共産党は、70年の夢、彼らが信じてきたものがわずか一週間で崩れ、次の時代へ飛び立とうとしています。そんな政治シンワだけではありません。身の回りには、私たちが知らない間に。たとえば、女の人は家にいなければならないとか、あるいはセックスはいいものであるとか、あるいは雇用というのは終身であるとか、学校に行けば将来偉くなれるとか・・・・。当たり前と思っていたようなシンワ。しかし本気に問うてみると、それは本当なのでしょうか。もしかしたら、学校にいかなくても偉くなれるのかもしれない。もしかしたら女は外で働いた方がよいのかもしれない。もしかしたらセックスはただ享楽のためではないのかもしれない。身体障害者でも結婚し幸福に生活することができるかもしれない。

 

井戸を掘りあてた時

 例えば、自動車をより安く、たくさん生産することを目指してきたけれど、道路の上に車が溢れてしまったら、自動車ではなく不動車になってしまう。よいと思ってきたビジョン、前提条件というのがどんどん古くなってしまう。そのような時、大切になるのは、集団のシンワではなく、私たちが心の中にもっている、私たちが語りたい、あるいは、まだ語れない、語りたくない、密かでプライベートなシンワ。語り。ストーリーなのです。それぞれの人に自分の人生のストーリーというのがあるわけです。人に語りたいストーリーというのがあるわけです。そのストーリーに触れたとき、その人は語るわけです。語って語って、語るのです。人が聞いてくれないのであれば、耳をこちらに向けてでも聞いてほしい。語りつくせない、ネバーエンディングストーリ―。語りつくせない物語をもっています。ですから人生は豊かであります。喜びに満ちています。感動に満ちているわけです。もしこの井戸を掘りあてたならば、そうなるわけです。

 

誰が命を与えたか

 こういう命は自分が作ったものではなく、また自分自身が所有しているものでもありません。命を作り、命を与えた方から授かった我々の命。この命は、実は皮肉なことに、命を失いそうになった苦難の中でしか発見できません。苦難は私たちを謙遜にするから出会うことができるわけです。

 この命は、我々が生まれた時に、神さまから与えられたものです。ずーっと昔から、私たちの中に、恩寵として与えられていたのです。ただそれを自分が発見したり 意識したり 目覚めたりしなかっただけなのです。命を与えた神は、十字架において、ご自分の命を犠牲にして、たえず購っていらっしゃった。そのキリストの贖いの結果として、私たちは今、信仰と、そして命を一人一人に与えられた、ということです。

 

選ばれた時を待つ

 では今すぐ、命に我々は与かりたい。接触したい。そう希望されると思います。しかしここで、やはり聖書というのは我々にいろいろなことを教えています。命というのはやはり力があります。それに接触すると、有頂天にさせます。すぐに神さまを忘れ、喜びいさんで駈けずりまわります。自分だけが命を得られたと吹聴してまわります。それはその人にとって最も危険であります。命に出会うためには、静かな長い準備の時があります。そして神が時を選びたもうて、神が購って、その命を守ることをお命じになるのです。私は、命というのが外側から入り込む状態、それはまだ準備の時だと思っています。命が外側から、その人の内の内にはいったとき、そして自分にとって密やかな、かけがえのない宝物になったとき、うれしい体験となります。だから物語があるし、語らざるをえないのです。もしこれが苦しい体験、義務であるというのであれば、これはまだまだ、その人は祈らなければならないし、心を整えなければならないし、学ばなければならないし、準備をしなければなりません。

 

キリストの命があなたに

 強いものに接触したとき、熱病のようにうかれて、あとで何に接触したか、どう自分が変えられたかということをみんな忘れてしまいます。静かな、持続的な、しかし決定的な体験というのは、長い人生の中でその人の原点となり、何回も何回もその物語を語りながらも、語るたびに新しくなっていくのです。生き生きと新しくなっていくのです。そしてさらには、自分自身の独り言ではなく、語った言葉が相手に響いていき、相手の命を揺り動かし、そこに命の共鳴、共感を呼び覚ますのです。もしそうでないとしたら、それは、本当の大きな命の一角に触れたというわけではないのです。キリストが永遠の命といっているのは、ただ個人的に所有しているところの命を言っているのではなくて、イエスキリストにとっては、神が命じられた、彼が与えたもうた命であります。彼が地上におけるその十字架の生活を送ったのは、この命に預かったために、送り得たという、その命。その命をあなたがたにもう一度分けよう、ということなのです。

 

「いのちからいのちに至らせる」の意味

 そして次に、そのような物語を語り出した時、この命というのは一人一人に最後にどのようなことをさせるのでしょう。それは、口々に命を与えた人を讃美するということ。先ほどの詩編の中にもあるように、われわれの個人の体験は二次的になっていきます。それがどんなに辛いことであったかということは、だんだん背後に追いやられていきます。それよりも、私の貴い命を与えてくれた創造主。その人に対する偉大さ。すばらしさ。それに対する讃美にかわっていくのであります。その讃美の輪が広がって行き、すべての人が新しく生かされ、人生が変化して行くのであります。聖書が言っているように、命から命へと進んで行くというのは、このことなのです。一つの命がもう一つ別の命へと広がり、深さ、広さを持つものになるのです。

 

神さまの舞台が

 私はこのキリストが与えてくださった恵みの深さ、偉大さというのは、先ほどいいましたように、決して語りつくすことのできないものだと思います。語って語って語らなければいけませんが、決して語りつくせない。なぜなら、我々の経験、我々の人生というものが、すべて限定された場所、限定された時代における、限定された経験であるからなのです。だから、私たちには神さまの無限の愛というものをすべて語りつくすことはできないのです。

 しかしながら語りつくせないことと、語りつくせること、この中間に、神さまの舞台があるわけです。神さまがその姿をお現しになるところの場所、舞台。その舞台は、一人一人の人生。生まれてから死ぬまでの人生。そして日常の生活。我々の様々な営み。そこに神さまが姿をお現しになります。その中で、神さまは私たちに気落ちしたときに喜びを与えてくださるわけです。命を与えて下さるわけです。

 私たちがその大きな命の一部に触れたときに、私たちは落ち込むことなく、疲れることなく、また、キリストにある命に与かって生きていくことになるわけであります。

 

 

祈祷いたします 

 天の父なるかみさま。私たち生を受けまして、あなたによって今日まで生かされ、必要な時に、命に与らせていただきましたことを心から感謝いたします。私たちの讃美の声が、祈りが、口が萎えて出なかったこともございます。また呪いの言葉さえ出たこともございます。神さまはそれをすべてご存知でした。神さまどうか一人一人を、もう一度あなたの贖われた命に与らせてください。そして賛美の歌を、賛美の口を、賛美の舌を一人一人に与えて下さい。そして私たちが勇気をもって私たちに与えられているところの命に応えて、日常を送ることができますように。この祈り愛しまする主イエスキリストの御名を通して御前に捧げ奉ります。アーメン。