「月と女性」
1991年11月28日 京都新聞 現代のことば

 このところ、夕方暗くなってからのわが家への帰り道、ちょうどまん丸い月が東山にのぼっている。これを見るとなぜか心がほっとする。夏のころ、まだあたりが暗くもないのに、見上げると、もうちゃんと昼間の空に月が顔を出して私を見ているのでギョッとした事がある。考えてみると、太陽は朝出て、夕方沈むが、出た時は必ず朝であり、沈んだ時は夜である。エジプトの書から太陽のカレンダーは正確であった。それに反して、月の動きや姿は人間に不思議に見えたらしく、古来、女性はさまざまな国で、月になぞらえてきた。
 女性の一生を月にたとえると、新月が若い女、満月が中年、そして旧(ふる)い月が老年ということか。月経の開始と終了もそうだが、それぞれ女の一生の期間は固有の性格と課題をもっている。たとえば、よい娘が必ずしもよい妻になるとは限らないし、母に対して悪い娘、目だたない娘が結婚したら見違えるような立派な妻になる人もいる。このように男との対で女性は女を生きる時期もあれば、夫に先立たれた老女のようにしたたかに一人で生きる時代もある。今日では、女性の生き方は多様になり、ますます創造的になってきている。
 わたしはごく最近になって、女性は月のようにその可能性が隠されている部分もあるが、意識的に自分自身を生きる人が増えたのではないかと思う。しかしその意識は、男性社会のギラギラした太陽の意識ではなくて、昔は夜、月の光が植物を成長させ、動物の疲れを癒(いや)したと考えたような、いわば地球の環境をはぐくむ月の意識の時代ではないかと思う。
 折しも、京都で国際箱庭療法心理学会が開かれた。最後の二日間は日本の学者と合同で、約七百人の内外の研究家が集い、発表があった。そこでも、やはり世界的にも同様に女性のイニシエーションの問題が中心であったように実感された。ご存じの方も多いと思われるが、これは砂を入れた箱の中に小さなおもちゃ、木や家や人などを置いてもらって行う心理療法の一種である。大人の人もけっこう子供と同じように砂をいじって始めるとやがて夢中になってつくるし、その人の内的世界をかいま見ることができる。外国人の学者の発表するケースを共に見ていると、今の世界の人の心の中に起こってきつつあること、人々の心の傷や問題点が一つ一つ手に取るように分かる。そして、この傷がまた人と人を結びつける。この点で私の印象に残ったものを挙げてみよう。
 まず心に残ったのが、思春期の少女の感情的な発達の困難さである。長い間、西欧社会は男性中心であったため、女の子の発達はその影で考えられてこなかった。家庭や社会の暴力に耐えながら、自分を発見していくイニシエーションの過程がやっと識者に注目されはじめたのである。数多くのテレビ番組も、少女漫画もこれを取り扱っている。また、その反対のいわば思秋期に胸の癌(がん)に病みながら箱庭をつくり、死に対する怒りを表現しつつ、来世を示して亡くなったイギリス婦人のケースにも心を打たれた。我が国の例では、自分の日常生活で負う深い心の傷を言葉では表現できず、毎回来ては箱庭を作っては自己表現して帰っていく中年婦人たちのグループの発表もあった。なるほど女性は月だなと今更のように感じる。それ自体は光源でなく、光を映して姿を見せるが、その影によって姿を変えると考えられてきたもの、それが女性である。しかし、いまその全体としての自分の姿を次第に露にしつつある。
 (同志社大学教授・宗教心理学)