「六十の手習い「泳ぐ」」
1991年4月5日 京都新聞 現代のことば
桜の花咲く四月は何といっても新学期、幼稚園の園児から大学生まで、毎年毎年胸に新しい希望をいっぱいに膨らまして新入生が校門をくぐって来る。この光景を見るのはいつになってもいいものである。そうこうしているうちに、若い人たちはあっという間に成長していく。その進歩の速さには目をみはるものがある。ところがどうだろう、彼らを迎えるわれわれ教師たちは一年一年と年をとって、私など六十を過ぎると、専門の研究でも、もはや若い人たちのように目を見張るような上達というものはない。むろん、より緻(ち)密になったり、多少行き届いたりすることはあるが、もはや凡才にはあまり大きな進歩は期待できそうもない。しかし、思うにいつになってもどんなことでもいいから、年をとっても毎日少しずつ目に見える進歩を経験することは、生きる上で案外と大切なことかも知れない。他人からみると、誠につまらぬことでもである。
そこで、六十歳からの手習いという訳である。私の畏(い)友 河合隼雄さん(国際日本文化研究センター教授)はフルートを習っておられる。どんなに忙しくても、練習を欠かさないのがこつであるという。ある時、フルートをタクシーの中に忘れて、さて先生の前で吹く段になって初めて気がつき大変だったという話を聴いたことがある。私のは泳ぎである。
いつだったか、私が還暦だということで、後輩の方々が祝ってくれたことがある。誠に有り難かったが、その帰り道で、どうもこの還暦というのば怪しい、「もしかすると、老人にしてしまう陰謀の仕掛けかも知れない」と、ちょうど友人から誘われたこともあって、水泳を始めたのである。 はじめは二十五㍍泳ぐと目の前が真っ暗、息ははあはあというていたらくであった。いかに長年酷使してきた自分の体に無関心であったか、いやというほど知らされた。昔の旧制中学では水泳は訓練であって遊びではなかった。上級生が竹ぼうきをもって、プールの周りで水から上がってくる下級生を掃き落とすというような、乱暴なものであった。私の習った水泳は今から考えると生き残る訓練のようなもので、楽しさからは程遠いものであった。 ボストンに留学した当時、寒い雪の日でもガラス張りの体育館で人びとが泳ぎに興じているのを見て驚いたものである。やがて今私たちの国でも、にわかに水泳をはじめスポーツブームである。今になって泳ぎを目分で習ってみて、初めて教え方の大切さを会得した気がする。 私の通っている所は必ずお嬢さんがついてくれて体操をし、一人ひとりのメニューで運動の指導をしてくれる。かわいいお嬢さんでも体育大学出の専門家である。どうも私のような年寄りのやりすぎに気を付けているのかもしれない。そして、時々「このごろ、頑張っていますね!」とか、「やせてきましたね!」とかうれしいことを言ってくれる。それで、ついつい通うことになる。また、水泳でも、一度に一つのことが精いっぱいで、そんなにたくさん言われてもどうしようもない。教師として恥ずかしいが、これらは実際に自分が習ってみて、知った教え方の秘訣(けつ)である。
その上、いまでは度のついたゴーグルまであって、私のような近眼にはプールの中はまるで、竜宮城のようで、たいやひらめのような美しい生き物が泳いでいる。その中を無念夢想、どのように隣の人が泳いでいようとも沈思黙考、ゆうゆうと水の中を泳ぐのは誠に心地よい。この水の感触は、そうそうこれはいつか知っていた感覚で、たぶんまだ母親の体内を泳ぎ回っていたときの記憶かもしれない。やがて、五十㍍が百㍍になり、百が二百となって、いまでは連続クロールで一㌔も泳げると悦にいっている。それこそ、人からみるとたわいもない話で、それでも目に見えた進歩があるとうれしいものである。改めて年をとり、すべてが下降線をたどる時、その必要性をずいぶんと感ずるものである。このプールの水を温めるのはサウジの油かな、ちょっぴりの罪悪感と共に今日も泳いでいる。(同志社大学教授・宗教心理学)