祭りと犠牲

1992年8月16日 京都丸太町教会説教

 

マルコ12章28-34

ひとりの律法学者がきて、彼らが互に論じ合っているのを聞き、またイエスが巧みに答えられたのを認めて、イエスに質問した、「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」。イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。そこで、この律法学者はイエスに言った、「先生、仰せのとおりです、『神はひとりであって、そのほかに神はない』と言われたのは、ほんとうです。また『心をつくし、知恵をつくし、力をつくして神を愛し、また自分を愛するように隣り人を愛する』ということは、すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです」。イエスは、彼が適切な答をしたのを見て言われた、「あなたは神の国から遠くない」。それから後は、イエスにあえて問う者はなかった。イエスが宮で教えておられたとき、こう言われた、「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子だと言うのか。

 

 

はじめに 桂信子氏の俳句より

 佐藤先生に休暇をとっていただくということで、私がお説教いたしますけれども。先生は休んでいられないということで、出てきて下さっています。でも、休暇でございます。今日は、「祭りと犠牲」というテーマでご一緒に考えてみたいと思います。こういう俳句がございます。

「四五人に日向(ひなた)ばかりの秋の道」

「母のせて舟萍(うきくさ)のなかに入(い)る」

「白波のあちらこちらや夏の果(はて)」

これは、桂信子という 草苑 という俳句の雑誌の主催者の、70歳くらいの方の作られた歌であります。14日の朝日の夕刊に載っておりましたから、ご覧になった方もおられるかもしれません。ちょっと聞くと単なる写生の句のように思いますが、実はその背後に、ものすごいイメージが隠されていることがわかります。それは、生死の境というものを越えた世界を歌ったうたであります。「四五人に日向(ひなた)ばかりの秋の道」「母のせて舟萍(うきくさ)のなかへ入る」母は、亡くなったお母さんのことだと思います。「白波のあちらこちらや夏の果(はて)」この世のものではないような情景が描かれております。この方は、幼い頃からそういう境を彷徨って、このような俳句を作られていると思います。

 

祭りには犠牲が伴う

 祭りというものには、いつでもある種の寂しさ、はかなさというものがつきまといます。京都にはたくさんの祭りがあります。ほとんど毎日のようにあるといってもよいでしょう。特にこの時期は、今晩もあります。

 このような祭りの中には、後にも、あるいは前にも、天の果てといいますか、舞踏会の後といいますか、戦争の後といいますか、そういう祭礼の前や中や後には、いつでもそれにそぐわないものがあります。ところが、われわれ現代人というものは、こういう祭りは、ディズニーランド的な、楽しさのための楽しさ、そういう祭りを作って祀ってきました。「楽しさいっぱい」というキャッチフレーズがよくありますが、実際に行くと、「疲れいっぱい」という状態。これらはみんな人工的な祭りのパフォーマンスなのです。しかしながら、本当の祭りというものは、実はその中に、深さと奥行きというものがあり、なぜかそこにはいつでも犠牲というものが伴うのであります。今朝はその意味が何であるかということをしばらく考えてみたいと思います。

 

犠牲は上に向かう

 まず、犠牲というものには目的があります。目標といいますか。犠牲というもの、捧げものというものは、何かに捧げられるのであります。必ずしもその目的が完遂されるとは限らないわけですが。捧げる側からしますと、目標というものがあり、そこに犠牲というものが生きてくるのであります。目標のない犠牲は、無駄な死であります。そのような死をとげますと、魂は迷って行き先をうしなってうろうろすると考えたのであります。考えますと、私たちの身近なところに、自分の家にも職場にも国にも世界にも、たくさんの無駄と思われるような死というものがあります。シベリアで亡くなった方々、あるいは従軍慰安婦で凌辱の果てに亡くなった方々。そのような人たちの死というのは、無駄な死であったのでしょうか。誰かに捧げられるということ、それによって、犠牲というものが犠牲として完成するのであります。それが無駄の死ではないということになるのです。

 犠牲という元々の語源の中には、上がる、上げられる、という意味があります。捧げるものを、無造作に放り出す人はありません。だれでも上にのせて捧げる。この「上に」ということ、それは犠牲の語源の根本にございます。上にあげられることによって、神様のものになるわけです。

 従って、様々な宗教でお線香のように香しい良い香りが珍重されたのは、煙となって上に上がっていくということ、その香りが神様に届くと考えたのであります。

 

血を流す祭り

 第二に、犠牲には血が流されるということであります。動物の血が流されること。聖書では、これは、燔祭(はんさい)といいます。「オーラ(ヘブライ語:捧げもの)」「バーント ボッホリ」「ヤイタ イセ」というふうに。

 犠牲というものは、こういう動物は、供え物とされた獣の全部を祭壇の上で焼いて捧げる犠牲というのが燔祭であるというふうに言われております。旧約聖書に出て参ります。特に動物の血と脂肪が神様に喜ばれるのだと、当時の人は考えたようです。血は神様からいただいた命でありますし、脂肪は灯明のように光となって、煙となって上にあげられたと思います。新約聖書にも、山鳩を奉げるところがあります。大きな動物を奉げることは、お金持ちにはできても貧乏人にはできません。そういう場合は、山鳩のような小さな動物、祭壇に乗るような動物の血を流して塗るという行為をするわけです。

 旧約聖書には、この燔祭の他も、よく読んでみるといろいろな祭りがのちの時代にございます。燔祭が元々の形とすれば、後にいろいろ工夫され、神様に対する多様な捧げものが生まれてきたと考えられます。

 

野菜を捧げる祭り

一つは、そさい素祭(そさい)というもので、これは食物のことです。日本なら野菜ですが、穀物やオリーブ油で作ったパンのようなものを焼いて捧げたりしました。

それから、酬恩祭(しゅうおんさい)というものがあります。これは、燔祭とだいたい同じですが、非常に古い形、血を流して塗って捧げるところに主眼があるのですが、酬恩祭とは、そういう行為をしながら神様に感謝を捧げるというように、重点が少しずつかわってきたのであります。

 

知らずに犯した罪に対する祭り

それからもう一つ、罪祭(ざいさい)というものがあります。これは、知らずに犯した罪を購ってもらう、というものです。これは、その後にどういう罪を犯した時にはどんな犠牲を奉げなければならないか、という様々な律法の規程ができてはっきりと区別されるようになる中で、はっきりすればするほど困るのは、「私が知らずに犯した罪」です。そういう知らずに犯した罪も神様はご存知ですから、そういう罪を贖っていただくところの「罪祭」というものが行われるようになっていったわけです。これはイスラエルの民族がバビロニア捕囚から帰ってきてからできたものであると考えられていますし、祭司たちの神学の最高峰に立つ考え方であると思います。

 

他人の損害に対する祭り

もうひとつ面白いのは、「咎(とが)の祭(まつり)」です。罪と咎とはちょっと違いまして、「他人に及ぼした損害に対して購うための犠牲」が、咎です。日本人には、あまり「咎」という考え方はないのかもしれません。すべて水に流してしまう、とか、あるいは、外側に現れているものだけ、自分に関することの罪だけについて考えるということであって、他人に及ぼした損害を賠償する 償う、という考え方であります。こういう祭りがございました。

 

共に食べる祭り

 ところがですね 面白いのは、こういういくつもの「祭り」がだんだん発達する過程において、最初は燔祭のように、捧げたものが焼かれてすべて煙になり、神に返すということでよいことなのですけれど、いつまでたっても人間側には残されません。後に一番よいもの、初穂を神様に捧げて、残りを人間が食するというスタイルになっていきます。神様のお下がりをいただき、それを祀り祝って供食する、一緒に食べるということです。聖餐式などは、そういう感謝の一緒の食事という側面もあったわけであります。

 

血塗られた祭壇

ところが私はずーっと考えてきまして、今でもイスラム教や、ある牧畜の民族では、実際に生きた動物が捧げられています。恐らくこれを見ると、日本人の体質にはあわないだろうと思います。次々に動物がよばれて、次々に首をきられて、次々に血を流して行く。血が無駄に流されていると思われてしまうのです。しかしながら、彼らはどこまでも神に対する忠実な印として。そしてこれなしには生きられないというような切実な願いから、次から次に競うようにそのような動物が捧げられるわけであります。従いまして、今発掘される祭壇というのは、非常に血塗られた陰惨な場所です。

 

子羊になったキリスト

 ヨハネの福音書によるますと、イエスは神の子羊であると書かれています。つまり、イエスは「犠牲として捧げられる子羊」にイエスキリストがおなりになった、ということです。あるいはヘブル書によりますと、イエスは「贖罪の完成者である」とあります。この意味ですが、ヘブル民族にも、「どこまでいっても罪は許されない」という考えが残っており、つまり「誠実であればあるほど、どうしても完成されない」ところの「犠牲」というものが残っていったわけです。その時「イエスが 贖罪の究極の完成者になった」という考え方が、ヘブル書の中心的な概念であります。

したがいまして第三に、この犠牲とは、外側の血ではない、ということです。外側にいくら血が流されていても、人間の内面的な苦悩というのは、取り去られません。本当の犠牲というのは、外側の見えるような犠牲ではなくて、内面化された、人々の心の中に焼きついた、進化された告白であり、罪を知ることであり、死の苦しみにある ということなのです。

 

犠牲と共にあるもの

そしてもう一つの意義は、「上昇に対して、下降するということ」ここにあります。煙は上の方に昇れば昇るほど、反対に我々の私たちの犯した罪の感情は、次第に抑うつ的になり、次第に下へ下へと下降していくわけであります。ですから、このような季節になると、先祖を思い出したり家族を思い出したり近しい友人たちを思いだしながら私たちは静かな心になり、青い心になり、私たちの心の火というのはだんだん下に下がっていくのです。

 一見、果てしない道をたどるように思われます。しかしながら、この下降の道を救って下さるのはいったい誰なのでしょうか。何が救ってくれるのでしょうか。結論から先にいいますと。それは愛なのであります。そのようなものを救い出すものは、愛なのです。なぜそうなるのか。

まず第一に。愛と犠牲というものは、いつでも一緒であります。愛はある意味で犠牲であります。犠牲がないところには、愛はありません。一見したところ、外見は同じであって、どんなにその人のために尽くしているように見えても、外面的だけの好意であったならば、すなわち愛がなかったならば、犠牲はありません。いつしかその人はするりと無傷のままに抜けるでしょう。外見は同じような行為であっても、愛がなければ犠牲はありません。しかし愛があるからこそ、我々は犠牲をいとわないし、そこに犠牲というものが出てくるのでございます。

 

愛を発展させた宗教

 このエロスの神様、愛の神様というのは不思議な神様でありまして。元々がどんな神様であったかということは、今日でもよくわかっていません。分かっているのは、小さな神様であるということ。それは地中海の沿岸地方に 非常に広く信仰された神様です。それがキリスト教の中に入って、キリスト教だけがこれを受け継いで、最高にまで発展させたところの宗教であるといえるのではないかと思います。ですから多くの人たちがキリスト教のことを愛の宗教と言っているのです。愛がないところには、犠牲がないということです。例えば、税金というのは、本当に痛いですけれども、必ずしも本当の苦しみというわけではない。国家さえ愛さなければ、ごまかしても心はさほど痛まないでしょう。苦しまないでしょう。しかしながら、本当に愛したときに心は痛むわけであります。愛はそういう意味で苦しく、犠牲を強いるものであります。

 

愛のイメージ

第二に愛と犠牲を考えてみますと、愛は自由であります。犠牲は、強制されたものではなく、内面化されたところの犠牲というものは、自由な選択なのであります。この小さい神エロスは、森永のキャラメルのわきに、羽のついた小さな子どものキューピットのマークがついていますね。ギリシャに入りますと、エロスはキューピットになります。背中に小さな羽を持っています。羽を持っているということは、自由にどこでも動き回れるということです。子どもですから、相手は女だったり、若い青年であったりすることが多いわけですけれど、非常に純粋で、そして非合理的で、どこにでも非常に素早く飛んでいく、そういう神様であります。このエロスは現代では非常に誤解されており、愛欲の神であるというふうに言われていますけれど、必ずしもそうではありません。愛欲の神様というのは、もう一つ別におります。必ずしもそうではなかったようです。エロスはただ、幼稚であって。どこへいくかわからない、子どものいたずらのように何をするかわからない、という考え方があったようであります。ですから愛というのは、いつでも荒々しく若く純粋で、そのような神の働きの一面をこのようなイメージを通して現したのかもしれません。だから常に人間にとっては、愛は問題なのであります。

 

反転して現れるもの

 第三に、不思議なこととして、愛によって、この下降した苦しみや死というものが、喜びに変わるのであります。エロスはよく見ると、手に小さなトーチ(松明)を持っています。ですから暗い中でも降っていくことができます。光を掲げて闇の中を降りていくことができます。ただし、行き先は不明です。どこへいくか、わかりません。そのトーチで見たものは、実はこの世では最も恐ろしいもの、予想外のものかもしれません。我々が何かを愛して、そこで見たものというのは、実はまわりの人からみると、それは予想外のものであるし、それはこの世でもっとも恐ろしいものかもしれません。あるいはそこで見るものは、死の姿かもしれません。誰かが決心をして何かをする。誰かが決心して誰かを愛する。誰かが決心して旅に出る..。なんでもそうです。そこで見たものは。自分の愚かさや 自分の若さや 自分の未熟さに関わらずそこ来て見てしまったもの。導かれて見たものは、この世のものでもないかもしれない。しかしながら、愛の話というのは、いつでもその先があるわけです。それが「死が正義に」「暗闇が光に」全く変化する、ということです。そのこと自体がすばらしいことであったということへ反転するのであります。

 

神は犠牲を喜ばない

イエスの十字架の復活というものは、その局面において、すべて、愛の性格というものが凝集されているのであります。ホセア書 6章6節に「私はいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。」とあります。私は犠牲を喜ぶ神様ではありません、と。燔祭よりも、むしろ神を知ることを喜ぶと言っています。当時の人たちが宗教心を燃やして、こんなにも一生懸命に捧げたところのその燔祭、その犠牲を喜ばない神が、本当の愛の神だと、ホセアは言っているのです。そして燔祭よりも慈しみを喜ぶのが神様であると宣言しています。

この箇所は、のちに新約聖書の中で、イエスによって引用されております。先ほどお読みねがいました、マルコ 12章33節に、「神を愛し、人を愛するということ。すべては燔祭や犠牲よりもはるかに大事なことです」と述べられています。今、一人の人の犠牲によって、すべての人が救われたということをそこに宣言し、そしてそれが本当の愛であるということを言っているのであります。これは必ずしも個人的な男と女の関係を言っているわけではありません。そういう意味の個人的ではありませんけれども、そういう意味ではむしろ普遍的に、誰にでも起こりうるところの事柄として愛というものをいいながら、同時に一人一人に、特別に、具体的に、起こりうるものだということを、ここに言っているのであります。個人を離れたような普遍的な共通の神の力というものを、そこに宣言しているのであります。それは、人間の予想をはるかに超えたよろこびというものが誰にでも与えられているということ。犠牲の背後に、愛というものがあって、愛が犠牲を完成させたということ。これによってはじめて人間は生きられるその地盤というものを得たのであります。

 

自信を持って喜ぶ

従って神を知るということは、このような神の愛の働きを知るということでありますし、これによって我々は神を愛するということでありますし、隣人を愛するというこの二つの戒めというものが我々にとって大切になってくる、そのことが最も神の国に近いことだと、そう聖書は記しているのであります。そこで、ホセア書の6章1節2節は、こういっております。「さあ、私たちは神に帰ろう。この愛の神に帰ろう。主は私たちを無残に掻き裂いたけれども、今は癒しなおしてくれている。私たちを打たれたが(電光のように、あるいは日射病のように。砂漠ですから。)また包んで下さる」という宣言をしています。

私たちは今、予想を超えた喜びの中に生かされているということを信じたいと思いますし、それを喜びたいと思います。したがいまして、祭りを本当に喜べるということは、本当にその神髄から喜べるところのもの、それは、本当の意味の犠牲を知っているということです。それは神にあずかるものであるということです。

ですから反対に、私の持っている信仰が、自信をもって喜べないような信仰であるならば...新約聖書が別の箇所で言っているように喜ぶものと共に喜び、泣くものと共に素直に泣けないような信仰であるならば...それは神様がお許しにならないのではないかと思います。

この夏の暑い時、また敗戦の日を覚えながら、様々の哀しみを胸に抱きながら。今朝はこの神を知るべきであるという聖書の言葉を胸に刻みたいと思います。

 

 

 

お祈りをいたします。

天の父なる神様。私たちは日々表面的な楽しみの中に毎日を過ごしておりまして、深く思いやることをいたしません。しかしながら、あなたは十字架と復活のそのいさおしによって、私たち一人一人を愛し、私たちの罪や咎や、そして私たちの人生をあがなっていただいていることを心から感謝しています。一人一人がもう一度これを心にかみしめ、あなたの愛に頼りながら。喜びつつ、また人を愛することができる一人一人にあなたが私どもをなさせたまわんことを。その力と信仰を与えたまわんことを切に祈ります。

これらの祈り、愛しまつる主イエスキリストの御名を通して御前に捧げ奉ります。

アーメン。