「メモリアル・キルト・ジャパン」
1992年3月6日 京都新聞 現代のことば

 昔ボストンに留学していた時、バーモントやニューハンプシャー州の田舎の古い家に泊めてもらう機会が数多くあった。そんな時よく素朴な刺しゅうをした布切れが何枚も繋(つな)ぎ合わされてベッドにかけてあったのを憶(おぼ)えている。どの家のも古いものらしく、たずねると、おばあさんが作ったとか、お母さんが赤ん坊の時使ったのを嫁に来た時もってきたとかいう話をよく聞いた。多分これは赤ちゃんの縫いぐるみや病人の掛け布団としてアメリカでは古くから人々に親しまれていたものだろう。
 そのキルト(約九〇㌢×一八〇㌢)に亡くなった人の名前をいれて繋ぎ合わせ、裏うちして、エイズで亡くなった人を偲(しの)びながら、人間だれもが未来に向かって生きていく勇気を学ばうというザ・ネイムズ・プロジェクトという運動が一九八七年にサンフランシスコで始まった。当時、アメリカでもこの病気で亡くなった人は、名前を名のれず、人知れず死んでいった。なにしろ、このウイルスが世界で初めて発見されたのが一九八三年のことだから、ただ恐れられていたからである。しかし、同様の事態はこの日本でも起こっている。特に輸入血液製剤の輸皿でこのウイルスに知らない間に感染してしまった人々は、いつ発症するか、もし自分が感染者と分かったらどんなに家族が迷惑するだろうという恐怖と闘っているのである。そして、そっとその生涯を閉じるのである。
 昨年、わが国でもこのメモリアル・キルト展が全国を巡回し、テレビでも紹介されたので、ご存じの方も多いと思うが、京都の染色家斎藤洋さんが中心となってすでに三百枚以上のキルトが日本でも集まっている。先日見せていただく機会があったが、最初に東京で作られたものは、ホワイト・キルトといって、その布の地は真っ白で何も描かれていないものだった。やがてそこにその人のイニシアルがはいり、次弟に亡くなった方たちの生前使っていた帽子やズボンが縫い付けられたりして華やかになり、さらにアメリカのは生前の写真や似顔絵まで縫い付けられるようになった。それはそれは見ていると本当に素晴らしい。
 アメリカでは一九八七年十一月十一日に首都ワシントンでニ千枚もの展示があって、それを見る人、語る人、名前を呼ぶ人の声が夜どうし響いたそうである。
 わが国のも素晴らしく、中でも今治市の書道家赤瀬範保さんの昨年六月亡くなる前に自分の皿液に赤の顔料で書いた寒山詩に愛と大善したマンダラ模様のキルトは圧巻であった。私は仏教の素養がないので、マンダラの意味を十分には理解しないが、ただキリスト教でも東方教会にはイコンといういわゆるキリスト教のマンダラがあるのでこの象徴がいかに人間の危機に臨んで人を癒(いや)す力をもっているかを知っている.まさにメモリアル・キルトの何百畳に纏い合わされた布切れは現代のマンダラである。そこには一人一人のかけがえのない人生があり、一つ一つの絵は全く異なっているが、アメリカのキルトも日本のキルトも全く同じで広げると大マンダラとなる。
近ごろの日本とアメリカはお互いにその優秀さで競っても、一向に人々の心は近づかない。しかし、苦しんでいる社会の傷と傷が出合う時、きっと心が触れ合うに違いない。やがて今年、日本のキルトは、海をわたって縫い合わされるという。 
(同志社大学教授・宗教心理学)