心の世話
(1993年1月24日 京都丸太町教会説教)
私たちは、新しい靴下がタンスの中にあるのをすっかり忘れていて、あるときひょこりと、それが出てくるととても豊かな気持ちになります。今日は佐藤先生の留守を預かり、私は“タンスの靴下”でありたいと思っています。
今日の題は、「心の世話」です。「魂の世話」と言っても良いとおもいます。世話という言葉は、「大きなお世話」とか、あまり言い様に使われませんが、実は世話をすることはとても大切です。こまごましたどうでもよいようなことを、丹念にすること、体の世話の大切ですし、自分の心の世話もとても大切です。そのことについて述べたいと思います。
魂を殺すこと
「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ魂も体も、地獄で滅ぼすことの出来る方を恐れなさい。」とあります。現代人というのは、この聖書とは反対に、体は殺すことはできないけれど、平気で魂を殺してしまうことが多いのです。物騒な話です。心などというものが存在していること自体が邪魔なことで、余計なことを考えるから仕事ができないのだ、というふうにとらえるのが現代人ではないでしょうか。例えば世界中で日々様々な事件がおこり、報道されています。そこには政治家、企業化、商人、軍人とあらゆる人々が関わっています。そういう人々を見ていると、多くの人は自分の魂、心はどうにでも言いくるめられるし、どうでもできる、繁栄のためならば、何をしてもかまわないと考えているのではないかと思われることがよくあります。
傷の記憶
まず考えなくてはならないのは、自分の肉体というものに対する気付きであります。普通、肉体というものは神から一番離れたところにあって、罪の宮であると思われます。と同時に、神様は天の彼方に住んでいるというふうに思われています。自分自身のことを考えると、自分達現代人がいかに疲れているかを感じます。毎日毎日働いて、自分の身を粉にして体を疲れさせています。私が若かった頃、人生40年~50年と言われていました。女の人ならば、自分の子が結婚して子供を産むころ、この世ならさようならをいたします。歯一本とっても、一生使えるものだと思っていました。しかし80年、やがて90年生きるようになったとき、自分の歯をもっと大切にしておけばよかった、肉体を粗末に扱わなければよかった、と思うのではないでしょうか。
しかし、もしかしたら神様から与えられている肉体というのは、実は、“神様がお住みになることができる宮”なのかもしれません。皆さんだれでも体に傷があるでしょう。私の体もあちこち傷だらけです。一つ一つの傷について、私には記憶があります。その記憶は、戦争にいって受けた傷であったり、ある都市にいるときに受けた傷であるとか、人々によって様々です。そして、その傷を見るとき、我々は何かを思い起こします。その傷をみるとき、自分の歩んできた歴史を思い起こします。そういうときに、ただ肉体が物質なのではなくて、実は心を含んでいて、その中に心があって、染み出てきて、圧倒的な気分や感情を呼び起こしてくるのだ、ということに気付きます。自分が過去に悪い人間であったこと、罪を犯したこと、様々な傷が、私達に人間としての記憶を呼び起こさせてれるのです。ところが、普段はめったにそのようなことを考えることはありません。多くの現代人は、このような傷のことは忘れて、ずーっと天に上昇していって、そして地上のことは全部忘れて楽しく遊び、生活することばかり考えています。
神様は私達の傷の中に入った
私は、時々飛行機に乗って上に行くと、非常に軽快な気持ちになります。どれだけ飛行場に来るまでに苦しんだかということなど忘れて、すべてはちっぽけなことのような気がします。京都を離れただけでも気持ちがよくなります。なんのわずらいも悩みもなく機内食を楽しみます。同じような思いは誰でもあると思います。つまり、我々現代人は、心と体を遠く離してしまい、完全に分離したときに、一番幸福だと感じるのです。魂が舞い上がれば舞い上がるほど軽快で幸福だと思うのです。だから現代人は上昇が上手だけれども、一方下降は下手だとはいえないでしょうか。
ここで思い出していただきたいのです。イエスキリストは、神でありながら、地上に肉体を持って下り、我々の世界にいらしたのです。この「下降した」というのはキリスト教の重要なところです。これを“受肉”と言います。もっとはっきり言うならば、神様は私達の傷の中に入った、といえるのです。
先日クリントン大統領の演説をきき、非常に感激しました。46歳の若さで人々に変化と再生を訴えました。一番感銘を受けたのは、彼が人々に犠牲を要求した、ということです。演説の主旨は、「私が持つ責任とは決して軽いものではない。一人一人が犠牲をはらってくれたときに、ようやく完成するだろう。だから私と伴に、新生アメリカを築いていってもらいたい。」というものでした。 国民として政府に対して求めるのでのではなく、犠牲をはらうことが必要であると言った、その思いは多くの国民の心の訴えたと思います。彼は舞い上がろうとしていますが、同時にアメリカという巨大な国家、傷の中に下降していこうと努力しているわけです。
魂も体も滅ぼすことのできる人を恐れよ
私達が持っている傷というのは必ずしも自分の傷だけではありません。戦争の責任のように、私が人を傷つけた傷もあるでしょう。その時、我々は自らその傷の中に下降していくことができるでしょうか。肉体的なイメージをもってこの傷の中に入っていくことができるでしょうか。それができなくて、具体的な肉体と、心を離してしまったとき、どういうことがおこるでしょうか。肉体の中に心がないので、叫び声を出して爆発します。あちこちが病気を起こし、下へ行きたいと、もだえ、うめきを出すことでしょう。聖書にはこのように書いてあります。「むしろ、魂も体も滅ぼすことのできる人を恐れよ」と。神様とは、ただ肉体を滅ぼすのではなく、我々の心までも滅ぼしてしまうことができるほどの力をもっています。すべての人は、その徹底した裁きのもとにあります。彼は魂も肉体も、両方ともほろぼすことができるのです。その滅びは永遠のものであって、決して回復することはできません。事実私達はどの人も年をとっていきます。そして年をとれば、病んでいきます。そしてやがて死に至ります。肉体は必ず滅ぼされます。そして神様が望まれれば、同時に心までも滅ぼされてしまいます。これはぞっとするような話です。
屋根の上にひとりいる鳥のように
けれども幸いなことに、聖書はそれだけで終っているのではありません。「一羽のすずめさえ、あなたの父の許しなければ地に落ちることはできません。すずめよりあなたははるかにすぐれたものである。」と聖書にはあります。それほどの徹底した裁きの中にあるからこそ、特別に許してくれる神の愛というものは、いかに偉大であるか、と語っています。自ら地上を歩まれたイエス様は、その生涯を通して、彼と出会ったすべての人の肉体の傷のひだの中に入って行きました。イエス様は、ごく短い言葉を交わしただけで、あるいは言葉もなく衣のそでに触っただけでもたちまち分かるような、深さと繊細さをもって、人々と接していきました。そしてやがて自分自身が滅ぼされてしまったのです。これほどの徹底した裁きのであったからこそ、人々は救われたのです。
今、現代人は、体ばかりを動かしていて、心を休む場所がない、という生活をしています。今日という日、私がしなくてはならないことがあれば、本当にするべきことかどうかは考えず、とりあえず体を動かすのです。方向感覚もなく目的もなく、ただ歩いている、と思われる人が多くいます。さて、ここで私は先ほど聖書に出てきたすずめについて興味をもち、調べてみました。以前スイスから来た友人の観光案内のため、伏見稲荷を訪れた時、その門前ですずめを焼いて焼き鳥にしている店がありました。友人は「日本の人たちはすずめを食べるのか。スイスではすずめにえさをやって、食べさせている」といって驚いていました。その時初めて、すずめを食べるということは珍しいことであると気付きました。 すずめは、詩篇にも出てまいります。詩篇102編938ページ 4節、「私の生涯は煙となって消え去る。骨は炉のように消える。打ちひしがれた生涯は草のように消える。私はパンを食べることすら忘れた。私はうめき、骨は肉にすがりつき、荒れ野のみみずく、廃墟のふくろうのようになった。屋根の上にひとりいる鳥のように私は目覚めている。」この“ひとりいる鳥”というのは、原語ではすずめであるとされています。すずめというのはこのように孤独である代表として、聖書には載せられています。食べるものではありません。一人居るもの、という孤独性があります。一人残された人間、はぐれたすずめのように残されると、だれかの眼差しが必要になってきます。イエス様の眼差しも、孤独のすずめにそそがれたのではないかと思います。そしてその一羽のすずめがそこから落ちて、そこから死んでしまうということも、神様の御心がなければそうはなりません。ましてやあなたはすずめよりまさるものであるから、どのような罪の世界にあっても、愛の対象であるし、どんな苦難の中にいても、神はあなたを助けるのです。
魂はあこがれの場所に帰って行く
魂というものは下降した後、最終的には、鳥のように行くべき場所を探しながら、自分のねぐらに帰って行くものであると思います。詩篇の中では、魂は、自分であこがれの場所を持っていて、やがて自分の故郷をみつけて、あこがれの場所に帰って行くとされています。詩篇の時代は、バビロニアの遠い外国にいて、そしてやがて捕虜の状態が過ぎ去ったならば、エルサレムをあこがれ、いつか帰っていくという思いがありました。我々の心の中にも、いつも私の魂が休む場所というのがあるはずだと思います。アウグスチヌスは、「我々の人生では休む場所がない。やがて主の元で憩うことができる」と言いました。このようなあこがれというのは、下降して行った一番深い、悩みの最も極まったところへ行き着いてから、やがて上をあこがれるのです。ここまで堕落し、悲惨な状況になったとき、上にいくことをあこがれるのです。イエス様が十字架の死という神に見捨てられるところまで行ったとき、ようやく復活の主になりたもうたのです。神の憐れみというのは、そのような力を持っています。
すずめのように純粋に
私は肉体だけが離されてしまって病気などによって傷ついた時に、その傷自体が、先ほどいったような記憶とかイメージを伴って、魂の働きとして肉体から抜け出して、肉体を浄化、上昇させるのではないかと思います。絶望の淵から我々を助け出してくれるという力があるのではないかと考えるのです。十字架の死と復活ということは、我々に与えられている最も強力なイメージであります。この多様化の時代においては、我々が充分に頼れる強力なイメージがありません。手探りで、一人一人がそのイメージをもたなくてはなりません。このような中にあって、この十字架の死と復活のイメージに出会い、どれだけ謙遜で、どれだけ上昇していくことができるでしょうか。すずめのように純粋に、本当にイエスの十字架と復活の信仰を預かることができるのか、福音書はそう私達に問いかけているのではないでしょうか。