羊飼いとその羊たち

1996年12月8日 京都丸太町教会 説教

 

旧約聖書:詩篇23編 

新約聖書:ヨハネによる福音書10章7-18節

 

新しい教会堂で迎えるクリスマス

アドベントの第二週目になり、ここに千葉先生が火をつけてくれまして、二つ灯っています。あと二週間してこれが四つになったら、クリスマスです。千葉先生にどっちから点けますかって聞かれたのですが、千葉先生の好きなようにって答えました。(ろうそくの灯が四つ点いて)向こうまでいったらクリスマスです。これからクリスマスに向かって、我々の心を次第に準備していきたいと思っています。

私はまずクリスマスというのは、一人ひとりの心の中に訪れると思っています。かつてこの教会堂が建った時、昨年のクリスマスの時は、まだここに引っ越してきて、何がどこにあるのやら、暖房がきくのかきかないのやら、クリスマスツリーがどこにあるのやらわからない状態で、とにかくお祝いをした、というところでした。それから一年経って、今回は本当にクリスマスをお迎えしようと思って準備して待っているところです。そういう意味では新しい教会堂での本当のクリスマスがやがて来るということになると思います。

そういう教会堂、テメノスとしての教会堂がどういう意味をもっているか。そしてまた我々の中央にある、子どもさんたちの母子の部屋。これが我々にとってどういう意味を持つかということをお話しいたしました。今日は、われわれが受けている牧会、牧師によって牧されているということがどういう意味を持っているかということ...これが我々の教会の一つの大きい特徴であり、決して外には見えませんが、日本の宗教にあって非常に特徴的な、その意味を考えてみたいと思います。

 

暗闇の中で起こったこと

 私たちはこの1年間、この教会のためにお互いに助け合って、何もかもが新しい中で仕事をしなければなりませんでした。入門講座もバザーも、様々なことがありました。その途中では、大部分の人は知らなかったと思うのですが、教会が水浸しになりましたし、必ずしもすべてのことが幸福にいったということではありません。しかしお互いに助け合って、一年間を過ごしえたということは、実に感謝すべきことだと思っています。

新しい家を建てたり、引っ越ししたり、建て替えたりするというと、だいたいその家では何か大きな事件がおこるものです。興奮しているからなんでもないように思うのですけれど、やはり期待が多かっただけ、新しいところに住んだときいかに幸福だろうと思っていても、実際そこで生活をしてみると様々な困難が出てくるわけです。楽しいこと、お祝い事の背後には、それを支えているところの困難があるわけです。

クリスマスも、イエスさまをお迎えして一人一人は楽しいこと、すばらしいことだけれど、その前に準備して考えておかねばならないことがたくさんあると思います。クリスマスは夜にはじまります。馬小屋の外は真っ暗な夜であります。夜が支配しているその中で起こった出来事であります。それは非常に小さく、ローマ帝国からみれば、辺境の地にある小さな宿屋の出来事でした。その事実そのものが、その当時の言い伝え、伝説であり、本当に起こったかどうかわからないほどの暗闇の中に消えるようなこと。しかし我々はそのことが起ったのだと、その事実があってそれが今の私たちに意味を持っているのだと、我々は信じて教会を建てて礼拝を守ってきています。その守ってきている教会を作り出している基礎の中に、牧師という職分があります。これは非常に大切なもの。牧師抜きに教会は存在しないのです。

 

牧師は祈祷師ではない

日本の宗教を見ますと、確かに神社にもお寺にも宗教家という方がいらっしゃいます。そういう人たちと牧師を比べますと、いくつかの特徴があります。ここにいらっしゃる佐藤先生のことを言っているわけではないですよ。牧師たるもののことです。だからあまり先生の顔をみないでほしいのですが。 牧師は必ずしも管理者ではありません。境内の管理、文化財の管理 ということではありません。あるいは祈祷師でもないし、儀式の執行者でもありません。もちろん結婚式、葬儀はされますが、他の宗教のように、それだけのために居るわけではありません。ましてや、宗教産業の社長とか、資本家ということではありません。佐藤先生はこれでお金を儲けているわけではありませんし、宗教産業を作ろうとしているわけではありません。また、私のようにカウンセラーとか心理療法家でもありません。人の悩みをきいたり相談にのったりしますけれど、それは専らとする人ではありません。ましてや、宗教家、宗教学者でもありません。何よりも牧師です。

牧師にはいろんな特徴がありますが、一番の特徴、特に日本における特徴というのは、ヒューマンタッチがあるということです。人格的な交わりがあるということです。ヒューマンタッチというと、頭に浮かぶのは、天使が人間に指先で触れることです。だれかに触る。按手礼のときに手をおく。受胎告知のときに天使がきて、唇に手を触れる。確かに人間と人間が触れあう、肉体的に触れ合うということは、これは非常に大きな力が行き交うわけです。キリスト教の牧会で一番大切なことは、牧師先生とお話をする、手紙をいただいたり、誕生日のときにハガキをいただいたり、様々なヒューマンタッチがある、ということです。あなたの赤ちゃんはどうですか? あなたは入院していたけれどどうでしたか?・・・世間話のように見えますが、牧師先生がするときは、そうではない。あなたの魂に向かって人格的なヒューマンタッチをするということです。だから、ただ単にお祈りをしてくれる、儀式を執行するということではないわけです。これは佐藤先生が発明したわけでも、好みでやっているわけでもありません。これはイエスキリスト、神様そのものがわれわれに対して人格神である、人格的な交わりをする神様であるという性格から、それに仕える牧師は、その神様のとおりにしているわけです。

その人格的な交わり、ヒューマンタッチをもう一歩中に入っていきますと、ただ接触するだけではなく、接触したとたんに、人格神、人間に迫る、答えてくれるほど迫る...これが人格的な交わりです。ただ結合点があり、ただふれあいがある、ということではないのです。神様が語ったら、それに答える。佐藤先生に「いかがですか?」といわれたら、大丈夫じゃないのに「大丈夫です」と言ったり、めんどくさいから 最小限の答えでごまかすというのは、人間いつでもやることです。でもどんなにごまかしても、尋ねられたら答えなければいけない。そこに人格的な交わりがあるわけです。

 

神さまに問われ、答えること

だから我々が祈るということは、神様に対して話をすることです。すると人格神としての神様は、あなたの安否をとりなす、あなたがどう生きているか。非常に親切にたずねてくださるときもあるし、聴かれたくないことを問われることもある。それでいいのか、と。その時私は神様に対して隠すこともできますし、ごまかすこともできますし、小さな答えでその場を過ごすこともできるわけです。そういう自由は与えられているわけですが、何か答えること。無応答でも無応答という答えを要求される。私たちが信じている神様は、絶えずそうした人格的な交わりの中で信仰生活を送っているのです。

私は日本の神様を悪くいうつもりはありませんが、キリスト教と比較することによって際立たせることができます。日本の他の神様は、応答をせまる宗教ではない。お布施というのは、出しっぱなしでいいし、税金も出しっぱなしでいい。国にお金を払えばあとはどうなってもいい。もらう方もそうだと思ってごまかしている。出しっぱなし。しっぱなし。お参りしっぱなし。どんなやりかたをしたとか、いくらだしたか、日本の神様は追及しません。日本の神様でも協調することもありますが、それはたたりとか、人間の弱み、恐怖感をあおることであり、そういう意味の応答はありますが、普通の場合は人間の心とは関係がない。絶対神でない風土には、責任の所在がない。

ディスポンシビリティー(ドイツ語で アンティベルト)というのは、自分がそれに対して答える こと。 ディスポンスは、応答すること。法律があるのではなくて。責任をもつということは、この人に対してどうするか。この神様に対してどうするか。人間に責任がなくても。神様に対して責任がある。そういう責任感ができてくるわけです。従いまして、我々はそのような牧会、牧師先生がしてくださる、そのような人格的な交わりの中に絶えず入って信仰生活を送っているわけです。もちろん、牧師先生も生身の人間ですから、結婚生活もしますし、様々な人間生活をするわけですから、先生といえども、必ず過ちを犯さないということではありません。しかしそのことと牧師の職分は関係ない。いつもその職分は、主なるキリストのなされた業のうえに立てられているからであります。

 

背負い、曳かれていく羊のイメージ

先ほどお読みいただいた、有名な詩篇23篇。そこにははっきりと描かれております。『主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。』たとえ死の影の谷を歩んでも、魂を生き返らせてくれる。それは羊飼いだと。佐藤先生がいつもお説教で言われる本当の羊飼いは、先生自身ではなく、先生が指し示すところのイエスキリスト自身のことです。その方が私のよき羊飼いだと考えられるわけです。

もともとイスラエルの人たちがこんなに羊をなぜ珍重するのかといいますと、私たちがお米を食べるように、イスラエルの人たちにとっては羊が非常に身近で、羊を食べて生きていくという存在からかもしれません。が、ご存じの通り、元々は エジプトにイスラエルの人たちがいた時の故事からきています。見殺しにされるという時に、神様は恵みをくださって、羊の血が角に塗りつけられている家だけは見逃されたという故事にならった過ぎ越しの祭りです。羊の血は彼らイスラエル人にとって、自分たちが災いから逃れられた恵みのしるしなのです。だからイザヤ書53章にあるように、羊というのは、イエス様のお姿・イメージを非常にはっきりしたかたちで見せてくれるものだと考えられたのです。

イザヤ書53章を読むと、屠り場に曳かれていく羊のように死刑になって殺されてしまう...皆の罪を贖うため代表して黙々ととさつ場に曳かれていく羊のイメージが出てきて私は感激します。地上に降られ、クリスマスから十字架の時まで、それが彼の一生でありました。その一生の姿というのが、父なる神に従順であった羊のように...また人々の罪を背負って文句もいわずひたすら歩んでいく羊...そういうイメージと重なるわけです。そういう意味で言いますと、羊飼いと羊の関係というのは、キリスト教の中で大事にされるイメージです。

 

頑固な羊は誰?

われわれは飼われる羊です。私は説教の題に、「羊たち」としました。群れる羊というのは、一人では居ないものです。もちろんかわった羊も中にはいるでしょう。ヨーロッパなんかで羊をみていると。世の中に変わり者がいるように、一人だけ向こうを向いて食べてるやつもいるんですが、これは例外で、根性が悪い羊でしょう。でもだいたいの羊は、みんな群れをなしている。従順です。そういう意味では、一年間みなさんと新しい会堂に移って信仰生活を送っておりますけれど、みなさんと一緒に生活しているとき、丸太町の教会員の人たちは、教会員として、羊のように大人しく従順で、群れとして信仰生活を送っていると思います。お互いの信頼関係は、非常に大切なものだと思います。特に日本のクリスチャンはある意味で非常に従順な群れであります。社会的にも、クリスチャンは悪いことをせず、ボランティア運動など群れの中心になって、働いてくれていることを、実感として感じます。

しかし、実は、羊というのは、もう一つの側面があるのです。よく見ると従順だけではない。この丸太町教会の皆様もそうでしょう。一見従順です。しかし頑固です。ものすごい頑固です。どうでもいいところはどうでもいい。しかし、どうでもよくないところについては、絶対に頑固で固執する。羊は都会に住むものではない。イエスさまの働きになった時代をみてください。福音書によれば、イエス様は都会の人間ではありません。特に羊飼いが居たのは荒れ野です。砂漠の中の荒れ野です。荒れ野の神様です。荒れ野を生き、死の谷を歩むというのです。事実サマリア人が通ったところには、暗い影があり、谷がありました。ぎらぎら太陽が当たるが、陰には何がいるかわからない。そこには盗賊がいたし、日本のような豊かなところではない。死が支配するのです。

 

日本という荒れ野に必要な羊飼い

詳しくはいいませんが、イエス様の羊に代表されるような荒れ野の神様は、たくさんありました。一つはポリアポス、ヘルメス。ある意味では羊飼いイエスのイメージの下敷きになったと言われています。荒れ野の山羊や羊は、ただ従順なのではなく、かなり野生を持っている。だから当時の神様は、非常に生命力、繁殖力があり、荒れ野でも生きていくことができる。そんな神様、例えばポリアポスの体は山羊で顔はおじいさんという、醜い姿をしているのですが、それは美の神さまが子どもを産んだらあまりに醜くくて体の一部が肥大していたため、荒れ野に捨ててしまい、そこで野性的な神様と一緒になったという伝説があるのです。そういう意味で、日本のクリスチャンは荒れ野の民であると言えるのです。我々は一見ここに定住しているように見えます。しかし我々は必ずしも定住していない。我々は人生の旅人であります。この土地の中に完全に入っている人間ではない。たえず神の国を求めて、その理想を求めて、宿り人、旅人、荒れ野の中で生活をし、旅しているのです。だからある意味従順であるけれど、非常に頑固であったり、非常に生命力をもっていて群れをなして目的をもち、信仰をもち、生活している。その中心に我々は羊飼いを持っているのです。

 

結びつきも大切だが「離」も大切

この信仰を持つとき、必ずしも日本の土壌のような神性を持っていては我々の本当の意味の信仰を持ち続けることはできないと思います。日本人は共依存。お互いに依存しあっている。子どもはお母さんに依存、お母さんはそのお母さんに、友だちは友だちに、社員は社長に、社長は社員に...お互いに寄りかかっています。みんなで渡れば怖くないという考え方。お互いに支えあうということは大切なことです。しかしキリスト教の群れは、ばらばらの単独者であるものが群れをなしているのです。羊というのは一見優しそうに見えますけれど、実は頑固。そして信仰において一致し、単独者がお互いに結び付く。兄弟姉妹となって群れとなる。ただお互いに寄り添っているのではない。特に戦後の日本は、ヒューマニズムが入ってきて、お互いに仲良く、楽しく、その面だけを強調し、お互いが結び付くことがいかに大切かということを強調しすぎています。しかし実は離れること。「離」は大切だと思うのです。人々が離れるとき....私は三日前に、片腕に思っている人が突然亡くなったと知らせをうけました。私より若い人。非常に心が寂しい思いになっています。人々がくっつくことも大切だけれど。離れる時も大切なのです。

ここに家内がいるのにいったら悪いのですが...私たちは京都に親戚がありません。私がたまたま同志社に来たので京都に住んだわけですが。家内も私も親戚はみんな東京です。結婚生活して子供ができました。この間、何の時だったか、家内が言いました。「私がお正月に、子どもかかえて実家に帰れずに寂しかったか、知らなかったでしょう。理解しようとしない」って。その迫力に驚きました。「あなたは箱根駅伝ばっかりラジオで聞いて。どんなに寂しい思いをしたか」って。そう思います。人間というのは正月のようなみんなが楽しいときに一番寂しさが出るのです。意外にお正月に殺人事件があったりします。楽しいはずの時。着飾ったりするけれど、実際に中をみてみると、喧嘩がたくさんある。楽しい時っていうのは寂しいものなのです。

 

一人一人と対話される神様

キリスト教の信仰というのは、神の前に単独で立つ、一人で立つことです。神様は一人一人の人を尋ねもとめ、一人一人の名前を知り、一人一人に悩みを知り、悲しみを知るのです。ということは、我々は勇気をもって、一人で神様の前に立つということです。どんなに愛するもの、お互いに支えあって依存しあっても、それは大切なことであるかもしれないけれど、その人間もやがて滅びるし、別れる時が来る。その現実の中に立ち、その単独者の寂しさ、孤独の中で、本当に立ち現れてくるのが神の姿です。寂しくて単独である一人一人に、自分の命をなげだし、羊一人一人の名前を呼び、一人一人を知っているよき羊飼い。その像が浮かび上がってくるわけです。

我々一人一人がそういう神様の恵みの中におり、二週間の後に、その救い主が生まれたもうたということを祝そうとしているわけです。夜みんなが寝ている時、その外で羊飼いたちは羊の番をしている。その上に星が光っており、やがて遠い国から博士たちがそこをめがけて幼子を尋ねて出発をしている。そういう時。一人一人クリスマスに向かって。家庭で、教会で。本当の意味でイエスキリストを迎え入れるその準備をしたいと思います。