1999年9月26日 松山古町教会にて
愛と傷:傷ついた癒し人のイメージ
旧約創世記1:26~31 新約フィリピ2:1~11
いろいろなことで親しい関係を持つ方々と、一緒に礼拝をして、礼拝の説教の奉仕にあたることができますことは嬉しいことです。このように赦されていることは本当に感謝です。
前回、この教会に寄せていただいた時は、新築園舎のコンクリートを打っている時であり、仮の礼拝堂でご一緒に礼拝を守りました。今度来る時は、新しい礼拝堂で、という約束を果たすことができるだろうかと思っていましたが、その約束を実現できたことを嬉しく思います。
今日の説教は「愛と傷:傷ついた癒し人のイメージ」という題でお話をします。愛と傷がどういう関係にあるのかということをお話ししようと思います。
「愛」という言葉を教会の中で聞きますと当たり前の言葉として聞きます。もう何度聞いても反応しないというような、食傷ぎみの言葉として聞いておられる方もおいででしょう。
しかし、このことは教会の中だけのことであって、日本の在来の宗教、例えば仏教---私は現在、仏教系の大学の学長をしていますが――では、慈悲は言いますが、愛は説きません。
ですから、一般の日本人にとっては、「愛する」ことはどういうことか、本当は分かっていないのではないかと思います。
暮れの「紅白歌合戦」を見ていますと、どの歌手が歌う歌も「愛」についてです。これらの歌手は本当に愛が分かって歌っているのでしょうか。
実はキリスト教も唯一の愛の宗教ではないのです。愛というのが最も発展して、最も進化したのが、キリスト教においてであると私は思っています。
キリスト教が成立するまでの間には、沢山の「愛の宗教」というものがありました。ギリシャとかローマに旅をしますと、それらの宗教の遺跡を見ることができます。
それらの宗教の神さまは「農耕神」です。
我々が春になってウキウキする、生命を感じる、動物たちが子供を産む、花が咲く、そういう時に生命というものが躍動してくる、それはなぜかというと愛の神さまが地上にやってきたからだと考えました。「ウキウキする、生き生きする」そういう感情を愛の神さまが支配していたと考えていました。
反対に愛の神さまがいなくなってしまうとどうなるか。
――草や木は全部枯れてしまうのです。春に咲いた草や木は秋になると全部枯れてしまう。そうするとこころが萎えて、生きているという感覚がなくなってしまう。―-
これは愛の神さまがどこかへ行ってしまったと考えたのでした。
こういう自然の生き生きとした生命の神さまというのが、今度はローマに入ってゆきました。
ローマの愛の神さまは、皆さんよくご存知のキューピットです。キューピットは森永キャラメルの箱に描かれていますが、「童子神」と言って、裸で羽根を持って飛び回っていて、不思議なことに弓と矢を持っています。弓と矢で人を射るのです。男の子と女の子を射るのです。
間違って自分を射止めてしまうと、自分に恋してしまいます。
「ナルシスの神話」というのは、水面に映る自らの姿を見てうっとりとして、いつも水辺に来ては、そこから離れられない。そこに住んでしまう。そして水辺に咲いた水仙をナルシストと言います。その水仙の根から麻薬が取れるのです。自己愛とうのは一種の中毒です。死を意味します。
反対に人と人とを結び付ける場合は、矢を射るのです。この神さまはまだ子どもですから、人として十分に発達しておらず、合理的ではありません。
私は結婚式に出るたびによく思わされることですが、なぜこの女性はこの男性を選んだんだろうかと、そのカップルのアンバランスを不思議に思うことがあります。口ではあからさまにそのことを言いませんが、こころでは思っています。これはキューピットの仕業であると思うと納得します。
たとえば、この男性とこの女性は、長い間、いい関係で付き合ってきたのに、なぜ結婚しないのか、なぜ二人は「一生、いい友だちでいる」ということで納得しているのか。
あるいは、一旦結びついたカップルが、なぜ結びついた途端に愛がなくなってしまうのでしょうか。
古来から、このことは非常に不思議なこととして思われてきました。自然の現象ではなくて、もしかするとこれは人間的な現象であって、愛というものが人間と人間の関係を成り立たせているのではないか、そういうように考えたのでした。 歌によく歌われているように、幸福の時に人と人は結びつくと思っています。 ところが、人間は幸福の時、実際に自分にとって有用な人、自分にとって快い人、自分にとっていい人、そのような人と友だちになるとは限りません。
むしろ、自分が傷ついた時、病んだ時、自分が失意の時、もうひとりの傷をもった人が出てきた時、ひょんなことから、傷と傷が結びつくのです。
ですから、傷と愛というのは非常に強い関係を持っています。
傷には、肉体の傷、こころの傷もあります。
肉体の傷と言えば、刺青があります。あるいはユダヤ人が受ける割礼もそうです。体に傷をつけるのです。
肉体に傷をつけるという本来の意味は何なのか、そのことは十分に判っていないのですが、お化粧をする、自分を着飾るという意味ではなかったろうと思います。むしろ、自らの肉体に傷をつけて、神さまの前で自分を醜くするということではなかったかと思います。神さまに対する傷であったと思います。
傷を負っている人間と傷を負っている人間が、つまり傷と傷が結びつくとは、一体どういうことでしょうか。
私は聖書の語る愛というのは特別な性格を持っていると思っています。旧約聖書から新約聖書にわたって、正義と愛というものを結びつけています。
これがキリスト教の特徴です。
愛は、実は本来、正義とは結びつきません。誰かが誰かを愛するというのは「正義」では結びつきません。母親が二人の子ども平等に愛する、そんなことはあり得ません。不正義です。愛ほど偏っているものはありません。愛ほど正義がないものはありません。
愛というものは、自分の全部をかけて溺愛して、その中に落ち込んでいくような力です。
ところが、旧約聖書では「愛」と「正義」を結びつけました。それは神と人との関係です。まず神さまは人間を愛してくださった。これが愛の最初の始まりです。人間が神さまを愛したから神さまが人間を愛してくれたのではなくて、神さまが人間の側の状態の如何を問わず、まず最初に人間を愛してくださったというところから物語は出発します。
これは人間の愛についても言えます。本当の愛というのは、自分が決断して、相手を愛するのです。「お前と一緒に人生を共にしたい」、「お前と一緒に人生を歩みたい」というそのひと言で、自分のすべてをそこへ投げ出すのです。
神さまが人間を愛してくれたという関係がまず生じます。これを契約と呼びます。約束です。
ところが、旧約聖書の歴史を見ますと、神さまが如何に人間を愛してくれていたかということを示したにもかかわらず、人間の側は神さまに背いて、反抗して、神さまの愛を忘れて、神さまの愛から離れていたという歴史が繰り返し繰り返し書かれています。
アモス書とかホセア書にはそのことが書かれています。
特にホセアという預言者ですが、彼の奥さんは聖書に出てくるのも恥ずかしいような不貞を働いた妻でした。この妻は「イスラエル」を指しているのでしょうが、他の男の所へ走ったのでした。そこで生まれた子どもは、呪われるべき名前をつけられたほどです。
これと同じようなことは、残念ながら私たち人間の側にも起こっていることです。だから現実性のあることです。
人間というのは不思議なものでして、そんなに神さまに愛されていながら、愛に迫られると、人間は逃げたくなるのです。そして遠くに離れたくなるのです。
愛というのは、お互いに引き合う力と、逆に反発しあう力というものがあります。
このことは、原子融合や原子分裂についても同じことがいえます。原子と原子をぶつけたり、引き離したりすると、そこには巨大なエネルギーが生まれます。
あるいは、離婚相談の夫婦の場合、そこまで言うのなら別れたらどうかと助言しますと、「先生は他人の夫婦だからと思って簡単にそんなことを言うが、私たち夫婦には何年もの歴史が積み重なっている。なんで先生はそんなに冷たいことが言えるのか」と、あたかもそこに大きなエネルギーが出てくるかのように迫ってくることがあります。
ですから、別れる力も強いし、あるいは二人が引き合って、そこにひとつのものを作ったときの力もものすごく大きいのです。
旧約聖書に出てくる預言者のエレミヤは、神から引き離されたと思い込んで自らの命を絶つようなことをしたのです。それは引き裂かれた力が原因です。自分はもう神さまの愛を受け取るような器さえ、あるいはかけらさえも持っていない、自分にはまったく救いがないと、自分で自分を壊してしまうような絶望の淵まで行ったのです。
私は「いのちの電話」のお世話をしていますからよく分かるのですが、愛ほど危ないものはないのです。愛に傷ついたために絶望して自殺してしまう人は沢山います。
統計によりますと、人が殺されるときは、見知らぬ人に殺されるというのは、数としては少ないのです。
一番危ないのは、愛の関係の中にあって、その愛が破れるときです。
私たちは夫婦であれば、親子であれば、一緒に屋根の下で暮らし、一緒の部屋で寝ます。ですから、自らの身の安全を守という点からは、非常に危険な状態の中にあるのです。「愛する」ということは、非常に危険の中にいるということを表しています。
最初に申しました「愛」と「正義」は、旧約聖書の第2イザヤ書になってきますと、どうしても結びつかないのです。愛する者が苦しんで、正義を行おうとすればするほど苦しんでいくという姿が描かれてゆきます。
どうやったら正義と愛は結びつのか、誰が人間の側の不義と罪を背負ったら贖われるのか、そのことが明確に描かれているのがイザヤ書の42章や53章です。
そこでは、ひとりの人が全員の罪を背負って、贖いの羊となるという思想が描かれています。つまり、罪を贖うという思想です。
相手を糾弾して、相手と争って、相手を陥れている間は、愛というものは貫徹しません。
反対にどんな人間でも、神の正義の観点に立てば、罪を犯す存在です。どの人間も罪を犯しているし、その罪は贖いきれないほどの大きさの罪です。
若い人がよく言います。私はこの人を本当に愛している。私はこの人を愛すれば愛するほど、この人を傷つけている。私は生まれて来なければよかった。私が生まれてきたために、この家に生まれてきたために、あるいはこの家の兄弟として生まれてきたために、あるいはこの人の友だちとして自分が存在することが、この愛する相手にこれだけの苦しみを与えているなら、自分は存在しない方がいい、自分の存在自体が罪だ、申し訳ない、・・・そこまで言います。
夫婦の場合もそうです。評論家の江藤淳さんが自殺されました。長い間、愛する奥さんを献身的に看病して、その奥さん先に送りました。お二人がどこまで深く愛し合っていたのか、それはうかがい知ることはできませんが、人間の愛は、多くの場合、このような結末を迎えるのです。
しかし、神の子が、神の姿であってよかったのが、この地上の中に降りられて、イエス・キリストという姿をとって、そして人々を実際に愛したことをお示しになって、そして十字架にかかって死んで、三日目に甦って復活して、再び人間の中に現れるというこの贖いの姿、ボロボロに破れるこの贖いの姿、・・・ここに愛の深さが示されているのです。これを「十字架の愛」とひと言で呼んでいます。
このことは、先程読んでいただいたフィリピの信徒への手紙の2章6~8節にはこのように書いています。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
十字架というのは、非常に深い傷です。
西洋に行くと教会があって、そこにはキリスト像があります。ユダヤ人の青年が半分裸で、クギ付けられて、十字架から垂れ下がっている像です。
正直言って、その像は私の美的センスにはずれます。なんであんなにむごたらしい像なのかと。
ところがあるとき、ハッと思いました。キリストの血は今も出ているのではないか。二千年前に起こった出来事が、いまも現実に、あなたの傷とイエス・キリストにおける十字架の傷と一致しているのではないか。
愛というものは方向性というものを持っています。漠然と人を愛しているということではないのです。
キリスト教の愛というのは、人格性を持っていて、誰かを愛しているという方向性を持っています。
神学者であるキルケゴールは『瞬間』という書物の中で、キリストの十字架の愛というものが、他ならぬ自分に向けられているということを実存的に知ったときに、そのことを自分の存在で知ったときに、これは応答しなければならないと思ったのです。彼はイエス・キリストの血と自分の人生を重ね合わせて見たのです。
これはいかなる愛でもそうです。誰かが自分を愛してくれると言ったとき、その人が今は何をしているか、どういうふうに苦しんでいるか、どこにいるか、それを知っています。何故ならば、方向性を持っているからです。向こうもこちらを見ているし、こちらも心の目で向こうを見ているのです。それが結びついているということです。
そこでキリスト教の愛というものは、人格性を持っているということです。空間と時間を超えて、結び合っていくのです。
私はいろいろなケースの中で思わされることがあります。
例えば、ある人はすでに亡くなったご主人とか、亡くなった奥さんの生前のことをよく話されます。なぜこの人たちは亡くなった人をずっと忘れずにおもっているのかと、私は初め、不思議に思いました。
そして気づかされたことは、この人たちにとって、生きているとか生きていないとかいうのは、愛においてはほとんど関係がないということです。
死というのを通して、十字架の主というのは立ち現れて、そしてその人との関係を持つのだということです。
次に気づかされたことは、この傷というのは物語を持っているということです。こころの傷やからだの傷は、傷自身が物語を持っているのです。
傷というのは形でして、目に見えるものです。私の所に来られる方で、顔や膝に傷のある方がおられます。「その傷はどうされましたか」と尋ねると、「実はこの傷は・・・」と、その傷の物語を語られます。
傷というのはできるだけ包帯やバンドで見えないように塞ごうとします。傷というのは隠蔽性というのは片方で持っています。
しかし、傷というのはあまり隠してしまうと、隠蔽してしまうと、傷自身が語り出すのです。傷自身は物語を持っています。その傷に触れた途端に、その人は傷の物語を語り出します。
心の傷も同じです。亡くなった主人に対して自分は今でも負い目を持っている、今でも気にかかっている、実はこうなんです・・・、とめどもなく語り出します。その人が話しているというよりも、傷自身が話しているかのようです。
キリスト教というのは作ったのではないのです。イエスの十字架の傷が物語を作り、福音を作り、聖書を作り、教会をつくり、今もなお語り継がれているのです。そして、人と人との傷を結びつけて、その傷を癒そうとしている、これが教会の姿であると思います。これがイエス・キリストのからだなる教会ということです。
私たちが教会に持ってくるのは、人々に誇れるような立派なものではなく、傷ついたような、取るに足りないようなものなのです。そして一緒に礼拝を守り、一緒に告白をして懺悔して、罪を赦されるのです。これが私たちの礼拝です。
愛の深さというのは、本当のところは、その実際を知ることはできないのです。ところが、ある種の姿をとったとき、ある種のイメージの姿をとったとき、ある種の物語をとったとき、愛は私たちに力を与えるのです。
それらのイメージは、まず神さまが働かれて、ひとりひとりに違うイメージをお示しになるのです。
さらに不思議なことは、愛というのは常に応答を迫るのです。誰かが私を愛してくれている、誰かが私を見ていてくれているということは、そう簡単なことではないのです。それに対して、あなたはどういうような応答をしたのか、それが問われます。
私は自分自身の長い信仰生活を通じて思わされることは、圧倒的な十字架の愛に対して何を報いたのかということです。これが私に対する大きな問いです。
祈り:愛する天の神さま、愛する兄弟姉妹達と、あなたの前に頭を垂れて、ひとりひとりの人生を反省しながら、あなたがいかに私たちに臨んで大きい愛をくださり、働かれておられるか、また期待され祈られているか、私たちはそのすべてを知ることは出来ませんが、この迫り来る愛に対して、どうかひとりひとりが、たとえ小さいことであっても、私たちがあなたに応答することが出来るひとりひとりとなることができますように。どうか、その信仰のひとしずくを私たちにお与えくださいますように。また、何の幸いか、この教会がここに新しく会堂を与えられて、ここに礼拝を共に守っています。どうか神さま、あなたがこの教会を戦前・戦後を通してずっと愛されたように、これからもこの教会を見守ってくださいますように。アーメン