「人を動かす神の力」
京都丸太町教会 2011.2.10 樋口和彦
聖書 旧約聖書 ヨブ記 8:1−7
新約聖書 コリント信徒への手紙 二 13:1−4
(賛美歌 300 十字架のもとに 390 主は教会のもといとなり)
はじめに
佐藤先生のお説教は、いわば主食で、消化のよいお米のようなもので、食することで信仰を養います。一方私のお説教は、たまのご馳走と言いましょうか。神の言葉の不純物も入っていますから、気をつけないとお腹を壊すかもしれません。どうぞ注意して、み言葉を聞き分けて下さい。
今日は、「人を動かす神の力」と題しました。現代社会において「パワー」という言葉はキーワードです。まずは、戦争、貿易、学校など、身近な「パワー」とは何かということを考えてから、「神の言葉のパワー」について掘り下げて行きたいと思います。
見えない世界を意識し始めた今
さて、今の時代は、「変わり目」だと言われています。日々、それを実証するような、「予想もつかない」ことが多く起こっています。
例えば、新燃岳の突然の爆発。誰も予想しておらず、何時終るのかも分からず、周囲の人たちは大変不安な日々を送っておられます。
また、エジプトの政変もそうでした。1週間でムバラク政権が崩壊するなど、だれが想像したでしょうか。それ以降も、湾岸諸国で大きな動きが広がっています。
そして、巨大中国の台頭。それに影響されて日本の政治が弱体化し、私たちにとっては、老後や税金の問題など、非常に不安な状況になっています。失業者は増大し、学校を卒業しても、引きとってくれるはずの社会が相手にせず、職がないという状況。孤独、無縁社会の問題。プライドから生活保護を受けず、セーフティーネットから漏れて、死ぬ人が急増しています。
このように見て参りますと、私たちの住む社会は、一見すべてが予想できるようですが、実はそうではないということが分かります。実は見えているものはごく限られていて、見えない世界もあることを、意識し始めたのではないでしょうか。
古代人が知る、見えない世界
古代ギリシャや古代中国から、人は人間の世界を「見えるもの」と「見えないもの」に分類していました。人に理解できるのは、ごく限られた世界。理解できないことが起ったときは、見えない世界で何かが起っている、つまり神さまの世界があると考えてきました。
例えば、火山爆発や、嵐や雷があると、それはゼウスの仕業であると考えました。また突然自分の妻に愛人ができると、それはエロス、ヴィーナスの仕業だとか、山で倒れて死んだら、野山を支配している神様の仕業であるというように。
見えるはずだという錯覚から
このような考え方を、現代人は笑います。が、必ずしも笑えないという現実を意識しなくてはなりません。近代社会になって神様を否定し、人間世界にその全ての原因を求めてその中で解決しようとした結果、我々は全てが見えていると錯覚したのです。特に、望遠鏡と顕微鏡の発明と発達により、ますますその錯覚は広がりました。実際、微小なウイルスの姿も可視化しました。しかしまだ発見されていないウイルス、消えていくウイルスもあるのです。事実、鳥ウイルスはまだ姿が見えず、防止策に躍起になっています。極大宇宙の誕生も見える様になりましたが、しかし、最後の果ては、収縮しているのか、それとも膨張しているのか分からず、そこはブラックホールかも知れないのです。それが実情です。
優れた栄養によって子どもの平均身長が伸びたように、人間社会の外見は成長しました。しかし心は成長しているでしょうか?
力の源は、奴隷だった
このように科学の発達した今、我々の「見える世界」は「見えない力」に襲われる結果となっています。それは、この人間は自分たちの力で、神を否定し、神に対抗できると錯覚したからです。
では、何時から人類は神に対抗出来る力を持っていると思い始めたのでしょうか。
人類の最初は村落、農村であり、その力の基本は人力でした。肥沃な土地に村落ができ、やがて都市へと発展すると、問題が生じました。人間の力を結集して神に対抗し始めたのです。(バベルの塔)。ばらばらに住む人が、コンデンスされ、それが集中化されて権力が出現し、王、国家ができる。上下関係が作られ、奴隷が生まれました。その最たるものが、キリストが誕生した時代の、ローマ帝国でしょう。すべての道はローマに続く、世界史上最大の帝国です。そこでは奴隷の力を結集して、巨大なものを作り上げました。つまり、初期の資本主義の力は、奴隷だったのです。
奴隷が形を変えたものが機械で、その力の源は、「石油」です。これが使われるようになったのは、ごく最近で、現在世界は、経済も政治も教育も産業も家庭も、その根底にあるのは石油、不思議な「燃える水」による巨大な力なのです。
巨大化し、迷走する力
人間は毎日忙しく、発熱したように、コンピューターでヴァーチャル世界に踊らされて、現実の産業世界の間を、目もくらむ早さで飛び回っています。金貨だったものが、プラスチックマネーとなり、矢のような速さで移動し、人々は不安に襲われます。確かに飛行機は、石油の力で、何万馬力で飛びます。巨大な会社は効率化の極限に挑戦し、安価なものを大量に作っています。では、大きくなった会社は安泰かというと、そうではありません。巨大な会社ほど、脆弱であるというこの矛盾に、私たちは置かれているのです。
その結果、イタリアのスローライフはなくなり、世界のエコロジーは脅かされています。石油に代わる力に変化させようとしていますが、まだその兆しは見えていません。本当にそれでいいのかという不安を持ちつつ、そこまでついていけていません。そして、人々は魂が抜けたように無気力になり、生徒も、役人も、働くことをやめ、たくさんの人たちが、魂が抜けた状態になっています。
それは、真の力ではない?
なぜこうなったのでしょうか。これらは皆誤った現代の「力」の使い方、つまり、みな他に向けられた力の使い方からの結果なのです。
権力は強力ですが、必ずそれは反作用を生み、その頂点に達すると破局が来て、暴発する。また一方で、必ずその裏返しは、無気力やプログラムのマニュアル化として表れます。
これらは、全て力が外に働く時の、間違いなのです。労働も、権威も、暴力も、戦争も、知力も、生産もすべて他人を働かすこと、これを人間力と考え、それを強力に推進してきたからなのです。
本当の力は内側に
では、忘れられた真の力とは何なのでしょう?それは内に秘められた力、つまり内在化されている力なのです。 人から滲み出される力、影響力であり、内から自然に働く力なのです。
物理学では、位置エネルギーという力があります。地球の重力という自然が元になっていて、ある人がただ存在するだけで、エネルギーになっていると考えます。一見弱そうに見える、人間の本来の力は、あちこちで作用しています。家庭の中で知らずに働いたり、何気ない教え、趣味や芸術の絶え間ない研鑽、時間を忘れての夢中の働きなど。
つまり、言わなくても、相手に分かる伝進作用、金銭には換算出来ない友情、飽きない・悔いない・疲れを知らない、我を忘れての働き、などの力が働いています。それらは、元々自分の内にあって、眠っていたのです。それが、神によって、見えないところから引き出されたのです。この力が魂の奥で作用しているときこそ、あなたの人生。この力こそが、未来を導くのです。
必ずしも偉大に見えるものではなく、常識とは関係なく、希少価値のある力なのです。決して慌てず、自然で落ち着いていて、そこから発するのは価値ある自然の光なのです。
聖書における力は「風」?
では、聖書はどう言っているのでしょうか。実は、この内なる力も、完全に神に寄って打ちのめされているのです。神の本当の力とは何でしょうか。それは外からの力でもなければ、内的な力だけでもありません。
旧約聖書において、「神の力」は霊(ruach)と考えられていました。その霊は、元来は風のことで、神の存在、気配は、非常に弱いそよ風だったのです。
何も動きがないところには、神はいません。神は動的な、ダイナミックな神です。最初は風として、神の存在を意識していました。微かなそよ風によって、神の気配を知るのです。風と一緒に動いていたら、存在に気がつかないでしょう。でも、反対に進もうとしたとき、向かい風になって押しとどめらる時、その存在を自覚します。それは非常に動的、ダイナミズムを持ったエネルギーなのです。旧約聖書の中では、さまざまな姿で、災いや嵐の中に、波風のたつ神へと変貌するのです。
神は、激しい風
ヨブ8:2 「あなたの口の言葉は激しい風のようだ。」
お父さんが何を考えどんな父であったか、なかなか思い出せません。でも父が顔を真っ赤にして怒った時、それが正しいかどうかは別にして、その炎のごとく口からでる風と共に、父の信念を知るのです。
イザヤ33:11「火のような霊がお前たちを焼き尽くす。」
ヨブ15:30「神の口の息が吹き払う」
旧約聖書の神さまは、イエス様のような姿ではありません。髪の毛まで逆立てて、激しい風となります。「風」と「息」は「霊(魂 nephesh)」と同義語です。鼻ではあ、はあ、と息をする時、普通の時でなく、感情の高まったその時に、神はあるのです。それは、Ruach adonaiといって、主の息、主の怒り、主の力、全能の力強さを現しています。
さらに神の力は「霊」
旧約聖書には、こう書かれています。
エゼキエル書 36:26.27「私はお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。また、私の霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、私の裁きを守り行わせる」
エゼキエル書37:14「また私が、お前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。」
イザヤ書32:15「ついに、我々の上に、霊が高い点から注がれる」
イザヤ書59:21「あなたの上にある私の霊。」
神が個人に霊感を与え、神の意志を行なわせ、人間自分の力では出来ないことを、行なわせる特別な力を与えたと、書かれています。つまり、神が個人(預言者)に霊感を与え、神の意志を行なわせたのです。
キリストの「引き受ける力」が向かう先は
非常に不思議なことに、旧約聖書の神さまは、人間に向かって、神の外にある人間を対象として働いています。やがて第二イザヤに入り、さらにそれを超えて、イエスの生涯に到達します。
その力のある神さまは、人間の外側だけに働いているのでしょうか。そうではありません。その傷、十字架の傷は、人間の罪に代わって、十字架に架かれた印です。その罪を、内面に極限まで引き受けたのです。それを、贖罪の主、いけにえの主といいます。自らには罪はありません。人の罪に代わって、引き受けたのです。
引き受ける力。これほど大きな内側の力がありましょうか。われわれの知っている東洋的な力は、ある意味でそれに非常に似ています。
しかしその傷は、罪あるもののために、向けられているのです。ただ内側に留まらずに、その力は傷と共に、一人ひとりの人間に向かって動き出しているのです。神様が創造された、この世界の原理に従い、今も働いておられるのです。
私たちに働き続ける神の力
私たちは、「天地創造」とは、神さまが順番に大きなものを作り、そしてリタイヤされたと考えています。作られたものは、もうわれわれとは関係がなく、科学者だけが調べていると思っています。しかし、実はそうではありません。創造は、まだ終っていないのです。
神さまは、ずーっと生きておられます。今日の世界を守り、人間に対する関係を構築され続けておられます。自分の作った人間だからこそ、責任を持ち、対話して、傷ついた人の反応を見ようとされています。つまり神さまは、人格的に動いておられるのです。ここが、東洋の宗教との大きな違いです。自然宗教と、人格宗教との違い、ただ無数にあるよろずの神とは違い、その大きさは一点に絞られ、ほかならぬあなたの人生に、十字架に、向かっているのです。
そして十字架の愛の力に応える
ではあなたは、その十字架の愛に対して、どのようにお答えになりますか。神さまは、決してして集団的な問答を要求なさっていません。そうではなく、あなたの人生の中で、あなたの能力の中で、本当に喜んでそれを受け入れ、そしてあなたの人生すべてを捧げるために、どうするのか。神さまは、われわれ一人ひとりに問いかけているのではないでしょうか。
この神は決して外側だけではなく、といって内側だけでもなく、一人ひとり、十字架の死に至るまで愛して下さいます。それがイエスキリストの信仰ではないか思います。