降誕前第6主日 礼拝説教
「誰が君に信ずることを教えたか」
2011年11月14日(日)
旧約聖書ホセア書 11章1-4節
まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。わたしが彼らを呼び出したのに/彼らはわたしから去って行き/バアルに犠牲をささげ/偶像に香をたいた。エフライムの腕を支えて/歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らをいやしたことを/彼らは知らなかった。わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き/彼らの顎から軛を取り去り/身をかがめて食べさせた。
ローマ信徒への手紙10章8-13節
では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。
はじめに――最後かもしれない今、語ること
今日の説教題は、古い言葉で言えば「誰が汝に信ずることを教えしか」となります。この「君」というのは、私自身のことです。「私に、神を信ずることを教えたのは誰なのか」ということ、自問自答したいと思っています。
また同時に、説教とは、コミュニケーションだと思っています。語る方と聞く方の、相互通行だということです。恐らくこれから、私の言葉が、皆さんの心に、波紋を投げかけることでしょう。私が生まれて初めて、教会に行ったときはどうだったでしょうか。今日も、初めての方がおられるかもしれません。その方々は、「この異様な光景はなにか」と、自問自答されているかもしれません。その問いに対して、それぞれの方々が、心の中で答え、そうやって行き来しながら、話が進んでいく。それが説教だと思います。
ですから牧師は、あくまでも神の言葉を語るわけですが、でも実際には、人間の言葉をしゃべっています。その中から、神の言葉を感じ取ることが出来たら、それが神様の言葉なのです。それをとりつぐのが牧師の役目だと思っています。
私は、自分の一生をできるだけ話さないようにしてきました。自分は人間ですから、人間のことではなく、聖書のことに焦点を絞って話すべきだと思っていたからです。ですが、私は84歳です。もうやがて死にます。今はしっかりしていますが、まもなく認知症になり、言いたいことは通じなくなってしまうでしょう。ですから、これが最後かもしれない今、一度は、話をしておかなくてはと思いました。でも、時間は限られていて、生涯をすべて話すことは不可能です。できるだけ、系統立てて要点をお話する中で、神様が私に、どう働きをなさったか、御言葉がわたしに近付き、自分の中に入り、生かされているか、ということを、お伝えしたいと思っています。
核心は3つ――友人・世界・断絶
まとめながら、三つのことを考えました。一つ目は、いかに親しい友人、特にクリスチャンの友情が大きく、導き、証に支えられたということ。
二つ目に、その広がりは、日本だけでなく、国際的な広がりをもたらしたということです。敵だと思っていた人が実は味方であり、助けてくれたこともありました。
三つ目は、幾多の断絶があったということ。人生の裂け目は、悲しい出来事です。人との別れ、故郷との別れ。家族との別れ。それは、悲しみであり傷です。しかしその悲惨な出来事の背後に、思いがけない飛躍がありました。
受洗へ――頭を下げなかった私
私がどうやって信仰を得たかという話をします。私は、戦争中に現在の青山学院大学に入りました。今でこそ、クリスチャンは心配なく信仰を守れますが、戦時下の神学校は、そうではありませんでした。最初にチャペルに出たのは、日曜日だったと思います。今日初めてここにこられた方々のように、私も座って、人々が、お祈りを捧げ、讃美歌を歌うのを見ていました。中で最も苦痛だったのは、頭を下げるということで、私は決して頭を下げませんでした。人間以外のものに、頭など下げられるものかと思ったのです。その時のことは、今も鮮明に覚えています。しかしいつしか、生涯において、頭を下げるべきところがあると気づき、決心するわけです。
友人たちとの信仰生活――ふーぽん信者の仲間たちと
青山学院時代、私にとって幸運なことに、素晴らしい同級生の友人ができました。彼は大森めぐみ教会の岩村清四郎先生という牧師さんの息子さんだったのです。彼はユーモアに富んだ青年で、その関係で私は、大森めぐみ教会に行くようになり、牧師さんに可愛がっていただき、家よりも長い時間、ほとんど寝泊りするほど、先生のお宅に入り浸るようになりました。礼拝にも出て、日曜学校も担当し、教会内の様々な活動をしました。そこで洗礼を受けたわけですが、その時一緒に受洗した人々との交わりのなかで、自分の信仰生活が守られてきたと思います。
「ちちみこ信者」「ふーぽん信者」というのを、ご存知でしょうか。教会の活動に忙しくて礼拝に出られず、慌てて最後に駆け込んで、「父御子御霊♪」と歌う信者のことが「ちちみこ信者」です、また、聖書を開かず、日曜日に埃のかぶった聖書をふーっとふき、ぽん とやって持って行く。それが、「ふーぽん信者」。ある意味、いいかげんな信仰生活でありましたが、しかし豊かな交わりの中で、いつしか神様に頭を下げること、一生をささげる決心が徐々に芽生えていたのです。
献信の頃――廃材で暖をとりながら
青山学院での、キリスト教青年会での体験も、私にとって非常に重要です。当時、YMCAの中で、「シティーY」や大学での「学Y」が結成され、活動が活発だったのですが、その中の主な人たちが集まる徹夜の祈祷会が青山学院で行われ、それに私も参加しました。その中でそれぞれが、「自分の一生を何に捧げるか」ということを証するのです。当時、青山学院は焼け跡の状態でしたから、ゴミや渡り廊下をこっそり燃やしたりしてその火に当たりながら、徹夜で語り合いました。その中から数人が献信をして、牧師の息子である私の親友は、「痔の医者になって、人が一番汚いと思うところに奉仕したい」と証しました。私も、神に一生を捧げることを証し、それが私の献信であったと思います。
社会人になって――我が一生が見通せた瞬間に
やがて、青山学院の英文科に編入し、卒業しましたが、戦後、壊滅状態だった日本には就職がありませんでした。英文科の先生の紹介で、最初はほとんどパートタイムでしたが、愛育社という、戦後初めて英語の本を出した出版社に入りました。今考えるとおかしいのですが、いきなり編集長になり、雑誌の編集を3年くらいしました。戦後の混乱期、雨後の筍のごとく次々と生まれた会社はどんどん淘汰され、この会社もやはりつぶれてしまいました。
幸運なことに、その直前に、開拓社という出版社に引き抜かれていた私は、「まずは、うちの関係している日本語学校で、先生になるように」と言われ、東京日本語学校に勤めることになりました。宣教師とか外交官とか軍人とか日本語が話せない人の教師となったのです。たまたまその学校の教頭が、青山学院出身でかわいがってもらったこともあり、のびのびと働く中で、日本語教師としての実力やノウハウを身につけました。私は今でも、日本語を教えることはうまいと自負しております。
しかし、自分に合う職業に出会い、これで一生続けられると思った瞬間、はっとしたのです。人間とは面白いもので、一生が見えた時に、うろたえるのです。「これでいいのだろうか」と。その時たまたま生徒の中で、1人のアメリカ人の宣教師がいました。彼はコンシアンシェス オブジェクター (※ conscientious objector 良心的兵役拒否者。宗教的信条・政治的信念から兵役拒否を申請する者。アメリカなどでは法制化されており、審査のうえ兵役拒否が認められると代替業務が義務づけられる。)と言って、戦争中、日本との戦争に反対して、シカゴの刑務所にいた人です。戦後も残っていた半年の刑期を終えてすぐに日本に渡り、私のクラスに入りました。その彼の姿を見て、「彼は、はるばる祖国を捨てて来日し、日本で苦闘している。私もクリスチャンとして、日本の祖国のために働かなくてはならない。」と強く思ったのです。
最初の断絶――上野駅からの出発
私は、その宣教師が日本語学校を卒業して新潟に行くときに、助手としてついていこうと決心しました。新潟の、同志社にも関わりのあるアメリカンボードで、半年間、その人と一緒に働きました。このとき、断絶がありました。私は故郷を捨てたのです。歯科医の長男としての家は弟に譲り、献信した決心に従ったのです。上野駅から、家族に見送られて新潟へ発つ時が、人生における180度の転換でした。その延長で、半年すぎてから、同志社の神学部に三年編入したわけです。
最初、派遣神学生として派遣されたところが、勝山安太郎先生という牧師さんがおられた、上鳥羽教会でした。その先生の下で伝道をしました。
そして同志社の学部、大学院を卒業して、私を導いてくれた懐かしい大森めぐみ教会へ、伝道師として再び参りました。牧会をして二年半ほどした頃に、同志社のウッズ先生が、東京まで私に会いたいと訪ねて来られました。先生は、「あなたはアメリカで勉強したいか」とお尋ねになったので「はい」と返事をしますと、「それならば、ボストンの、アンドバニュートン神学校に推薦する」とおっしゃったのです。それで、新島襄と同じ学校に行くことになったのです。
二度目の断絶――遣唐使の覚悟で
渡米は、もちろん船です。当時はアメリカの船しかなくて、クリーブランド号という船でした。五色の紙テープが投げられて、ドラが鳴り、出港すると、テープが切れて行きます。私の女房も、向こう側にいたはずです。
小さい頃、横浜育ちの私は、第四岸壁によく行き、外国の船が入ってくるのを見て、海の向こうの様々な国のことを思いめぐらしていました。その海外へ、とうとう行くことになったのです。 「学ならずんば 帰るべからず」のごとく、学位をとれなければ、帰ることはできないという覚悟と共に、まるで遣唐使のような「異国で死ぬかもしれない」という不安をも抱きつつ、次第に遠くなる房総半島を見つめていました。これも一つの断絶です。何度思い出しても、その悲しさ、不安は鮮明によみがえります。でもどんな断絶も不幸も悲しみも、乗り越えなければ、未来はないということです。
牧会心理学へ――あるアフリカ系アメリカ黒人のご老人の最期
ボストン郊外の神学校に留学をして、さまざまな体験をしました。一つだけ、とても重要な体験をお話します。市立病院での実習中に、一人のアフリカ系の老人が、亡くなりました。私の担当だったので、いよいよターミナルだと知らせがあり、病床に赴き、私が看取りました。その老人は、たった一人の全く異国の人間に看取られて亡くなったのです。その体験は大きく、ここに、クリスチャンとしての牧会の意義を見出しました。当時すでに、アメリカでは、主要な病院には、チャプレンが置かれていたのです。人を物質として扱うのではなく、最後まで一人の人間として、牧会していくことの意味を強く学びました。
その後、さらに精神病院で様々な体験をして帰国し、同志社は私を、牧会心理学の教授として受け入れてくれました。アメリカでの経験を元に、日本バプテスト病院にお願いして、二十二年間、臨床牧会訓練をしました。日本ではじめての牧師が最後を看取ること、大切な時間を、一人の人間として魂を看取る仕事を、どうしても日本で普及させなければならないという信念を感じたわけです。
ユング心理学の世界へ――ジョン ビリンスキー先生との出会いから
牧会心理学という科目をつくり、担当教授になりました。「死の臨床」は、神学校ばかりでなく、医者や看護婦なども共に考える「死の臨床研究会」、またお医者さんたちとの「サイコオンコロジー学会」へ発展し、今も両方ともすばらしい学会に育っています。
また当時はまだカウンセリングが普及していませんでしたが、日本にエイズが入ってきた頃に、厚生省に呼ばれて、横浜で世界大会を開いたこともありました。
これらの学問の基礎は、アンドバニュートン神学校の、ジョン ビリンスキーという教授から授かりました。彼からの影響力はとても大きく、私の人生で出会うことが出来たのは、奇跡だと思います。彼は私が渡米する直前までスイスのチューリッヒで学んでおられて、アメリカに帰国されたところでした。彼の推薦によって、私は家族をつれて、チューリヒに参りました。そして第一号であった河合隼雄さんに続き、ユング派の分析家の資格を得ました。
日本に必要なこととは――すべては神のご計画
その時、私が当時の日本に必要だと思ったのは、見えない世界に目を向けることです。日本人は目に見える科学や産業が急成長し、物質的にすばらしく発達した時代にいました。でも私が教えられたのは、「人間は、目に見える世界ではなく、見えない世界を基本にしている」ということでした。彼らが、「無意識」呼んでいる、魂、心の働きのように、目に見えないものに気付くことが大切だと思ったのです。
こうやって我が一生をたどってみると、どれも、私が考え出し、計画してやったことはないのです。気付いた時はもうすでに居て、人々の親切、計らい、温かさに導かれて、今日まで来ました。偉いことはしていないし、奢ることはありません。私のような人間が、拾われ、用いられ、助けられて、よくここまで来たものだと、つくづく感じます。
あなたは孤独に耐えられるか――魂を売らない猫のように
人生とは、「自分が何かを作り出す」ということではなく、「すでに、目に見えない形で、存在しているものを、どうやって発見し、気付き、生かされていくか」ということだと思います。そのために最も大切なのは「ひとりである」「孤独になる」ということだと思います。
この力は、誰が教えたのでしょう。それは神様です。一人ひとり、神の前に出ることは、一人で存在することであり、一人で神とのコミュニケーションをとることです。たしかに、助け合いは大切です。しかし本当に人間としてなしていくには、自分自身が孤独に徹し、自己をつかみ、生きる覚悟が必要なのです。孤独を避けて、人に助けを求めて絆を強めようとするならば、お互いに自滅するだけです。エゴが二つになるだけで、救いにはなりません。孤独に徹したものこそが、孤独に徹しているものに絆を持つことができるのです。そういう部分が、様々な学問や教育の中で弱いのではないかと思っています。
私は今日まで、クリスチャンとしていろんな間違いもしましたが、最も力を注ぐのは、「神の前に出ること。神とコミュニケーションを持つこと」なのです。「徹底的に、あなたはあなた自身の人生に、責任を持つこと。」それに耐えられたとき、はじめて神のために奉仕ができるのです。
猫を想像してみて下さい。猫は、神様に次いで神聖な動物だと思います。猫はいつも、そばによってきますが、それはあなたが暖かいから来るのです。でもどんなにそばに寄ってきても、決して魂は売り渡しません。死ぬときは1人で死にます。
私たちは限りなく人に近づき、親切にし、奉仕します。でもその中で、本当に孤独地獄に耐えられるという人間だけが、もう一つの悲しみをもった人に対して、連帯を持つことができるのではないでしょうか。
キリストこそ、孤独に打ち勝った方
その悲しみにどうやって耐えたらよいのでしょうか。まだ信仰を持っていない人には、ぜひとも、十字架の信仰を持っていただきたい。イエスキリストは、死に至るまで、その傷を負って、孤独を耐え、一人で十字架の道を歩んで行かれました。彼自身のためではありません。そのいさおしによって、はじめて、我々は人を愛し、人と手をつなぎ、人に優しくする人間になれるのです。私自身に力があるのではなくて、十字架のその力によって一人ひとりの力が与えられるのです。
「誰があなたに信ずることを教えたのか」。皆さんは今、私の拙い話をお聞きになる中で、「そういえば、私はこう導かれた。私にはこれが残っている。」というようなことを、感じられたと思います。それでよいのです。その時神の言葉が、あなたの心の中に入ったことでしょう。