錬金術と心理療法

1997年5月 第2回 日本トランスパーソナル学会議講演より

 

密かに火を焚く部屋

 私がなぜ錬金術に興味をもったのかというと、いくつかの理由があります。一つは悲劇の業、作業だということです。古来より人類は、錬金術に巨大なエネルギーをそそいてきました。それはエジプトの時代からアラビアの時代を経て中世ヨーロッパ時代に入って今日まで続いています。中国では錬金術を、不老不死の薬という形で探そうとしています。そして未だに金は見つかりません。自然が作ったものをどこかで発見したり、精錬したり、取り出したりすることはできますが、金そのものを作ることはやはりできないのです。現代人である我々も、時々体によいと言われている食品を試してみてはお腹の調子を崩したり、色々と絶えず試行錯誤しています。中世の王侯でも錬金術は盛んで、そのためにどこかに密かに火を焚く部屋がありました。このような作業は、だいたい密かに隠れてやらなくてはいけないのです。そしてもし金を発見したといううわさでもたてば、大抵はそこから黒い色の煙が流れ出ます。あるいは煙ではなくペースト状のものが流れ出てきて、それはくっついたらぺったりとしてとれないのです。うわさというのはこのようにやっかいなもので、そこに恐ろしいことが起きます。王は、「金をつくったらしい」といううわさを聞けば、その者をすぐに捕えて、そして泥を吐かせ、軍資金や国のためにどんどん金を製造しようとします。現在も、IMFは今一生懸命になってお金を作っています。米国の連邦政府も、さかんにグリーンバックといわれる裏がグリーンの変な紙をどんどん印刷してお金をもうけているのです。いったい金・お金というのはなんなのでしょうか。何故人はお金をもうけようとするのでしょうか。

 

錬金術師たちの求めていた金

 心理療法をしていると面白いのですが、お金のイメージというのは人によって全く違います。ある人にとってそれは富であり権力であり安定であり力であります。しかしある人にとってはやっかいもので恐ろしいもので不浄なものであり、早く取り去らなければならないと思っている人もいます。親から莫大な財産を受け継いだらどんなに幸福だろう、と普通の人は思いますが、しかし本当に受け継いだらどうしますか。早く親の汚れを取ろうとあるいは考えるかもしれません。魂とお金というのは非常に結びついています。この錬金術という言葉は、今日では悪い意味で使われています。しかしセラピストにとっての捕え方は少し違います。それはユングが「錬金術と心理学」という本の中で、錬金術師たちの求めていたのは必ずしも金属のいわゆる金ではなく、金としてイメージする何か、つまりは魂の救済を究極の目標にしていた、と書かれていることで分かります。錬金術は失敗を繰返し、未だに成功していません。しかしバイプロダクトとして、モダンケミストリーのようなものができましたし、ダイナマイトができまし、自然科学の色々なものが中世の錬金術から生まれました。このように、心理療法の世界では、金と魂を結びつけて考えています。金とは、必ずしも、現在のマイナスイメージばかりのものではないということです。

 

これぞ先生?

錬金術の“術”という言葉が、私はとても好きです。忍術とか運転術、理容術などです。本当にお金を支払っても習いに行きたいと思えるものこそが、“術”であると思います。話が多少それますが、今一番先生らしい顔をしているのは、自動車教習所の先生じゃあないかという話があります。大学の先生の方がよっぽど、皆どこか後ろめたいようなすまないような自信のない様子をしています。自動車学校の先生だけは、これぞ先生、という態度で、生徒があれだけお金をだしていても、隣に座って生徒にぼろくそを言います。行ってさんざん言われると人生暗くなり、生きていかれない、という人もいます。でもよく考えてみてください、彼は命をかけているのです。仮免許の人のとなりに座り、ブレーキしか与えられていないのですから。仕事に命をかけているからこそ、威厳を持っていられるのであって、これこそ“術”の世界かもしれません。

 

超近代的な悲劇

 そういう術の中に、天文学と占星術というものがあります。私はこの両者の関係が非常に面白いと思います。つまり占星術から天文学がでてきたわけです。天文学というのは、だれが観測しても星と星との関係は同じですし、その関係を確実にする学問です。ところが占星術というのは、星と星との関係だけではないのです。占星術というのは観測する人の心がその中にはいります。ということは、物と人間との関係をそこで考えようとしていて、物と物の関係ではないのです。同様に、錬金術師は実験をします。実験するところは、ラボラトリー実験室です。実験室というのはもともとはオラトリウムと言って、オラターというのは祈るということであり、中世の僧院にはみな祈りの場所がありました。そこには読め、はげめ、祈れというモットーがありました。すなわち、錬金術には占星術のように、祈る人の心がその中にはいりこむのです。

近代の物理学というのは非常に正確に測ることができるようになったし、物と物の関係では精密な技術を発達させることができました。しかし、物と人との関係、あるいは人と人との関係をそんなに正確に測れるでしょうか。自然科学というのは、一回だけ起こったものについては、口をつぐまねばなりません。2回以上起こったもの、すなわち追実験によって起こったものについてだけ、物を言うことができるのです。しかし、人生には、二度と起こらない、1回しか起こらないこともたくさんあります。結婚や友情など、もう一度と思っていてももう二度と起こらないかもしれないものもがあります。私は、心理療法というのは、心理療法術だと考えています。この悲劇の技術である錬金術がこよなく中世的であるとすれば、心理療法術は超近代的な悲劇の技術であると思っています。消してマスプロダクションすることはできない、一人と一人が一つの部屋の中にこもって人生を共にして、イメージを共にし、そこに釜があって金を発見することになるのです。

 

巨大な失敗こそ魅力的

錬金術が決して成功せず、言い換えれば巨大な失敗である、という点も心惹かれます。だいたい失敗というのは巨大であればあるほど、なぜこんな馬鹿なことをしたのかと思い返しながらもよくよく考えてみると、実は成功したことよりも、失敗したことの方が印象深い出来事であった、ということがよくあります。失敗には苦難がありますし、そして思わぬ知恵をそこに開きます。ユングはいままで省みらず、失敗だと思われていた錬金術を改めて見直そうとした、最初の人であると私は思います。失敗である、ということにこそ価値を見出したといえるでしょう。

 

小さな部屋にふたりで隠れて

私が東山の山麓に、自分の分析室を作ったのは、そのような錬金術師が密かに実験室で作業をしたように、密かに隠れたい、という意味があります。 だいたい自分の身を隠すということは、インコグニート、セラピーをする上で一番大切なことです。力がなくなると、浮き上がってしまいます。ついつい浮き上がってマスコミに名を売ってしまうと、それが運のつきで、そこに現代の怪獣であるジャーナリズムというものが、草のように人間の知識や情報を食い荒らしにやってきます。そのような怪獣はやがて増えすぎて最後には恐竜のように絶滅してしまうのかもしれません。今インターネットでは巨大な情報が氾濫していて、危機を感じさせます。そのような時代にありながら、浮き上がることなく、小さな部屋にひとりとひとりが隠れてこつこつと何かをやっていく、ということに大きな意味があるのです。隠れるということは、本当に全てを隠してしまうことではなく、表面的には世をしのぶ仮の姿を持ちつつ、しかしその蓑の中で隠れてちゃんと自分のやりたいことをやっていく、ということ、これが本当に秘密を持つ術だと私は思っています。

 

うさん瞑い(くさい)こと

 もう一つ錬金術と心理療法が似ているのは、どちらも瞑さ(くらさ)を持っているという点です。この瞑いというのは、明暗の暗いと言う字ではなく、瞑界の瞑、うさん瞑い(くさい)、という字です。このうさん瞑さ、というものは誰にでも嬉しいものではありません。なるべくそのようなイメージは取り去り、何の秘密もない、公明盛大、清潔そのもの、というイメージが最も安全です。しかし錬金術師というのはいつも瞑いのです。どこかうさん瞑いのです。心理療法の場に来る人も、この世に華々しく栄えている人ではなく、だいたいは瞑い人です。心理療法家もクライアントも、双方が瞑いのです。

 

自分の中に知らない自分がいる!

それから、さらにもう一つ、錬金術と心理療法の似ている点は、どちらもミクロコスモスを扱う、ということです。コスモスにはミクロコスモスとマクロコスモスというものがあります。近代といわれる400年間、我々は外側に広がる無限の広さ、と思われるような外界を探検することを追求してきました。ポルトガルの港に立ってみると、確かに東洋は、向こうの果てに無限に広がっているように見えます。そしてその後ろの丘には、壮大な建築物がそこから奪った富で出来上がっています。たしかに外側に展開する世界は大きくて素晴らしく見えます。コロンブスが発見した新大陸もそうでした。無限の富がそこにはあるように思われました。しかしカリフォルニアに到達したとき、ベトナム戦争が起こったとき、いったいアメリカの若者達は何をしたでしょうか。外側に広がる壮大な素晴らしいアメリカではなく、内側に汚れたアメリカ、そこでは薬の力、また東洋の知恵が求められていき、外界ではなく、自分の内界を探ろうと努力していったのです。そして自分の中を見たとき、外側と同じ比重をもった世界がそこに開けている、ということを発見したのです。

 私は1950年代の終りにアメリカに滞在し、そこで精神病院で訓練を受けたりしていましたから、アメリカの黄金時代をしっています。そのころのアメリカ人というのはちょっと人間離れをして立派な人たちがたくさんいました。しかし私はどうしてもそういういう人たちと親しくなれませんでした。むしろ私の親しくなったのは、精神病院の中の心やさしい患者さんたちでした。ある人は優れたピアニストで、毎日私にピアノを教えてくれたし、またある人は優れたビリヤードの名人で、毎日私に玉突きを教えてくれました。やがてアメリカの社会は大きく変ったわけです。その後私は日本に帰り、それからスイスに行き、ユング心理学をもう一度やり直しました。自分の分析をやり、自分の心の中を深くたずねていく中で、自分の中に、自分の知らない自分がいる、ということをようやく知りました。このように、心理療法で重要なのは、錬金術と同じ、ミクロコスモスの世界なのです。

 

岩の裂け目からの声

もう一つ、心理療法家として心惹かれる錬金術の原理というものがあります。それは、彼ら錬金術師が指す金というのは、「あらゆる物の中に、少しは金を含有していている」という考え方です。そしてさらに、その「含有されている金は、いつも救出されるのを待っている」というのです。私は大学での入学式の時、退屈でやることがないのでいつも壇上からぼーっと新入生を見ているのですが、「今年入ってくるこの人たちの金の含有率はどのくらいかなあ」と思うわけです。入学試験で、金の含有率の高い人だけ選ぶことができれば、これほど能率いいことはないでしょう。しかし錬金術というのは基本的には金属の変成・変容です。つまり下の位の金属が、もっと上の位の金属に変成されていく、ということですから、はじめから価値の高い金属ならば、変容する意味がないことになります。同じく心理療法でも、初めの状態のまま、療法を受けても変化がない、というのであれば、術の意味がないことになります。そうではなくて、含有量が非常に少ないものこそが錬金術によって価値の高いものに変容する、というところにこそ意味があるのであり、錬金術で最初に扱う原料である石というのはプリママテリアルといって第一物質、道端に落ちている石なのです。道端で、だれにも省みられずある石、本当の錬金術師ならば最初に扱う石を選ばず、金はどの石からでも救出されることを願っているはずなのです。ディズニーの白雪姫の中に小人がでてきて、鉱山で何かを掘っていますね。あれはなぜあんなことをやっているかというと、地中に閉じ込められた金属を掘り起こしているのです。昔は鉱山師というのは山師であり、岩の裂け目を聞いたり、たたいたりして、救出してほしいと呼んでいる声を探し当てていたのです。

ですから、大学の新入生の顔を見ながら、私はこの人たちが、4年たっていったいどんな人間に変容していくだろうか、と考えているというわけです。

 

魔法の料理

錬金術は、料理とも非常によく似ています。錬金術については、古来から様々なテキストがありますが、元々秘密ですから人に分からせようと思って書いた本ではなく、むしろ分からせないために難解に書かれた書物です。それはちょうどウインドウズの解説書のように、ちょうど人を混乱させるように書いてあり、読めば読むほど混乱してくる、というものなのです。これが彼らの思う壺であり、新しいバージョンを買わせようとする策略かもしれませんが。この秘密、というところが料理によく似ています。お料理の上手な女の人というのは、必ずしもいい材料でなくても、ありあわせのもので、世にも不思議なおいしいものを魔法のように出してくれます。しかし下手な人の料理は、缶詰をあけてかき混ぜて、原料がただ入り混じっただけのものであり、そこにはなんら変容というものがないのです。オーブンというものも、料理の魔法に一役かっています。そこで一種の熱を加えることにより、入る前と出た後では違っています。入った時はありあわせのものだったはすなのに、出てきたときには、こんな見事なとりあわせがあったか、いままでまだ食べたことのないおいしい食べ物だ、ということになるのです。私は心理療法も変成の術ではないかと思うのです。しかもそこに愛情という心をかけるのです。火を焚く、ということが大切なのです。

 

二人で泣いてはいけない

錬金術師はラボラトリウムという実験室をもち、そこで火を焚きます。実験室というのは、一旦火を焚き始めたらずーっと焚きつづけて持続させなければなりません。途中で火が消えてはいけないのです。ですから、どこに自分の釜をもっているか、それは必ずしも外界になくても、その人の心の中に、他人を入れる場所があればいいのです。その場所の中に入った時、その人はなんでも言えるし、秘密を打ち明けることができるし、セキュリティーがあるのです。安心して入っていることができるのです。それは愛情という火であります。その火の焚き方こそがセラピストにとって一番難しいのです。今資格をとったばかりだからと一生懸命燃やしてしまうと、焼け死んでしまいます。ですから開業したてのカウンセラーのところにいくのは危ないかもしれません。大切なのは、燃え盛らず、しかし絶やすことのない、持続的な火です。私の知っている立派で有名なセラピストは、私が一生懸命になった時、向こうは実に冷ややかです。私はすごいアイデアを発見したと思って彼に一生懸命語っても、鼻も引っ掛けないような態度でいるので、なぜこんなにすばらしいことを考えているのに感激してくれないのか、と悲しくなるほど、全く冷ややかなのです。今度私ががっかりして、完全に冷え切って、こんなセラピー受けても仕方がない、時間とお金の無駄だと思っていると、「おまえこの前いっていたことはどうなってるの?」などと、全く気にも止めず、忘れていたと思われていたことをもう一度思い起こさせるのです。このように、私が燃えるとむこうは冷め、私が冷えると、向こうは熱い火をこちらに向けるのです。熱に対して冷、乾に対しては湿なのです。例えば向こうが非常に湿って泣きながらラブストーリーを話すのであれば、こちらは非常に乾いた態度で対応するのです。二人ともおいおい泣いてしまえば涙の洪水になって、二人とも流されてしまうでしょう。この対応、これが錬金術の一つの法則になっています。これは心理療法ととても通じる法則です。

 

涙の数はいくつ?

また、火を考える時にもう一つ重要な品物に、錬金術に欠かせない、ガラスのフラスコがあります。実に様々な種類のフラスコがあり、このフラスコはモダンケミストリーが今でも使っています。フラスコの原料であるガラスの発明自身が、錬金術によって発見されたものの、最も優れたものとも言えます。私のような心理療法家が、他の人と違う点は、心の中にガラスのフラスコを持っている、という点です。心に重大な問題を持った人、重篤な症状を持った方というのは皆熱い火のようなもので、そばに寄っただけでこちらがこげてしまい、近づけません。会っただけでさよならしたくなるような、やけどを負わせる火のようなものです。ところがガラスを発明することによって、このような場合も対象物の近くで解けることなく観察することができるようになりました。セラピストというのは普通の人よりもより近くで話を聞くことができるのは、心にこのようなガラスを持っているからなのです。透明ですから、目で入り込み、観察することができるのです。といっても、ただ冷たく観察しているだけでは物質に変化はおこりません。心が参加しなければなりません。しかし参加すると観察できなくなるでしょう。つまりこれを二つの目でしなくてはならないのです。例えばクライアントが泣いたら、「ああ涙を流した」と涙の数を数えて観察し、記録をとったとしても、それが何の涙だったかということが分かりません。反対に同情して入り込んでしまうと、涙が何粒でるのかが観察できない。その両方が必要なのです。 

 

色が意味を持つ

フラスコ意外にもう一つ彼らの重要な小道具があります。心理療法ででてくる火とは、愛情というやわらかい火です。そこで必要なのはふいごです。鍛冶屋で使うものです。心理療法家というのはどこかにふいごをもっていて、風のないところに空気をおくり、火をあぶるのです。吹くことによって、プロセスを加速させるのです。加速させすぎてもいけません。でもある時その人がどんどんか細くなり、落ち込んできたとき、ふかさなくてはいけません。そのふいごの使い方が難しいのです。硫黄と塩と水銀の3つの要素をイメージしながら火を焚いていきます。そして色々な色の段階、黒の段階、白の段階、茶色、赤、最終的に金の段階へと移っていきます。その色のシンボリズムというのはとても大切で、錬金術師にとって色というのは非常に大切な目に見えるサインです。錬金術師の使った色は自然の色ですし、我々にとって絶えず意味を投げかけるものなのです。心理療法術においても同様に、夢の中の色、クライアントがイメージする色はとても重要です。

 

魂があこがれる場所

ガラスのフラスコをもち、ふいごを操作しつつ観察しながら、心を参加させる、と述べました。さらにここで、心理療法術の大切な点を続けて述べましょう。このようにして話をきいていくと、同じ話を何回もするクライアントがあります。これは、本当にすごい体験だと、いくら言っても言っても言い切れないために起こるのだと思います。しかし繰返しながら、だんだんに煮詰まってくるのです。ですから聞く側は耐えて何度も聞く、ということが必要になります。例えば、私の母親の話は、いつもすべて関東大震災から始まりました。おまえはその翌年に生まれたと言うのです。彼女にとって関東大震災は物事の始点なのです。一生語って語って語って、語り尽きないだけの体験がそこにあるのです。私は誰にでも心の中に、語っても語っても語りつくせないなにかを持っていると思います。そしてそこから、言葉よりもまず初めにイメージが現れます。ギリシャ語にポソスという言葉あって、その意味は、魂の故郷にあこがれる、ということです。魂というのは源泉をもっていて、所属するべき場所がある、という考え方です。例えばホームシックという言葉がありますが、18世紀頃のスイス人はお手伝いとして英国へ渡ったり、傭兵になってローマ法王庁にいったりしましたが、そこでスイス人がかかる精神的な病気がホームシックでした。それは生まれた土地を離れると患う病気で、どんな薬もききませんが、この患者を故郷にかえしてやると治るのです。ギリシャ人たちは魂には故郷があると考えました。所属すべき場所がある、帰るべき場所がある、ということなのです。だからアレキサンダーは、いけどもいけどもそこが行くべきところではないと思い、自分が所属すべき場所を次々求め、その途中で死ぬわけです。青年という時期も、ある意味ではそういうものです。自己をたずねて旅にでるのです。自分の魂がここに所属している、と見つけるため歩きつづけるのです。

 

ひそかに思うこと

 最後に、心理療法術というものは、このように魂の帰る場所を探しながら、最後どのようにして完成するのでしょうか。ユングは、“過程”である、と述べています。本当の故郷についたかと思うと、そこにはまた向こうに山があり、むしろそのプロセスの方が大切であると言っています。私は、ある人の魂が、ここだと思う自分のイメージが作った場所にようやく入った瞬間、必ず実感することがあると感じています。それは、このように旅をしている自分というのは、大きなイメージの中で生かされている、ということです。実際私のところに来た患者さんがすべて、問題が解決して私の元から去っていったわけではありません。けれども、自分が全く想像できなかった、予期し得なかった何かを感じ、自分がその中に生かされていたことを知って、その時私から去っているように思います。現代人は自分で自分を所有できる、と思っています。夢もそうです。自分で勝手に夢もみられると思っているのです。しかし実際には夢はだれの所有でもなく、より大きい魂の中に日々生かされているということが分かるわけです。人生というのは、生きなければならないなにかであるとするならば、それは重過ぎます。他人からみると、あなたほど幸福な人はいない、と思われるような人がいても、本人がそう感じているかといえば、そんなことは考えたことがありません、自信がありません、という返事が返ってくることがあります。自分がある、ということを、もっと大きなもののなかで許されている、ということを知ったとき、自分はどんな形であっても自然の中で、宇宙の中で支えられている、ということを知るわけです。これが現代の錬金術ではないか、と私はひそかに思っているわけです。

 短い時間の中で、そのエッセンスをお伝えするのは難しいことでしたが、でもなにかちょっと感じてくださって、自分の心を挑発され、これから興味をもって調べてみようという方がおられれば幸いです。