「全人的医療と宗教の接点:病院チャプレイン」

(1979年 医学書院 medecina


 はじめに

 

 今日まで、とくにわが国においては病院やその他の医療機関の中には直接的には宗教をもちこまないことが常識となってきた。呪術的な医療行為など近代科学以前の宗教が近代病院の中にもちこまれれば、医療行為がいたずらに混乱して、大変迷惑な話である。したがって、これらの擬似科学的な被害から、患者を保護するということは、むしろ人間にとって幸福な医学の恩恵であったろう。したがって、それぞれの医療機関の長は、そのような災害が及ばないように入院患者を保護し、できるだけ早く回復させ、退院させるように努力してきた。この原則は当分変わりそうもない。筆者も原則として賛成で何も異論をさしはさもうと思ってはいない。むしろ管理という面で病院は常に原則としてかくあるべきだと思っている。 しかしながら、以下の事情から、原則は原則としながらも、医学と宗教の幸福な一致のためもう一歩踏み込んで考える必要があるのではないだろうか。第1に患者は病気の治療だけでなく、病人という状態からの脱出を願っている。身体上の病気は回復しても、心気症のように病人の状態から脱け出せないものの増大など、心身症的症候群がある。第2にターミナル・ケアなど、医学的には回復の手段がない場合でも、宗教的に行うべき看護の分野が考えられる。第3に医療器械の発達によって起こってきた生命に関係する倫理的問題。そして、病院全体がヒーリング・チームとしてますます有機的に協力し合い、患者に仝人的に働きかけなければならない、などの問題がある。 これらの問題は排除してしまった宗教の問題を患者という人間の新しい問題として取りなおすことを要求してきている。このように外面に現れてきている問題ばかりでなくて、患者の内面、すなわち無意識の領域に起こっている問題も同様に無視することはできない。

 たとえば、新たに入院してくる患者を想定してみると、いずれの人も病気そのもの以外に自分の将来に対する見通しや、家族・会社などに対して抱く自分が病気になったことの罪悪感、本当に治るかという不安、なぜ自分が病気にならねばならぬかという懐疑などさまざまな想念にとりつかれている。これはしばしば合理的なものばかりではなく、個人の深い感情的“信念”というべきものに根拠をおくことさえある。現代人といえども心の深層にはこの神話的世界を温存しているのである。それどころか、ある種の宗教家などを秘かに病院によびよせる例すらある。この“信念”がその後の療養生活、とくに積極的に病気を治そうとする患者の態度の上にどれはど大きな影響を与えるかは論を待たないであろう。 しかし、病院の中に直接的に宗教をもち込むことはできないであろう。いきなり、牧師や僧侶が病室を訪問すれば、大方の人々は「あなたのくるのはまだ早い。私はまだ生きている」といいそうである。これは従来の普通の宗教に対する儀式執行者としてのイメージからきている。 したがって、宗教が医学ともう一度出会うためには、とくに宗教の側からの自己革新が必要である。自省を含めてこれを行い、医学との信頼関係を回復したときにはじめて可能である。その一つの具体的な形として、病院チャプレイン(普通教会や寺院などの宗教機関でなく、病院に派遣されたり、雇われて病院のスタッフとして、主に精神的・宗教的機能を果たすもの)を考えてみたい。 西欧では現在、普通の病院ではたいていこの病院チャプレインをおいている。そして、おいていないところはむしろ患者を魂のある人間として認めていないような感じを与えるはどである。もっとも、西欧では教派も多くあり、出生や死亡にまつわる儀式や入院中の聖餐などチャプレインなしには考えられない側面もあるが、とくに、アメリカでは一般にどの病院にもおかれていて、わが国でこの制度がないのが不思議なくらいである。

 

    病院と宗教の関係の歴史

 

 西欧医学はヒポクラテスの医学を源流としている。これはギリシャの医神アスクレピオスの神殿を中心に発達したもので、病院も中世の修道院の看護から発達してきた。日本でも寺院の施療は古来からあり、学問と医学は分かれがたく一致していた。しかし、中世以後、とくに西欧では鬼神論など、医学の発達を阻害するような宗教の干渉があり、不幸な関係になった。ルネッサンス期以後、バラケルススの時代をへて、次第に分離の状態は回復することなく、現代に至っている。詳述できないが、表層は別として、現代に至るも医学のもつ宗教性については、とくに精神医学の歴史をみれば疑いもなくその関係は深いものがある。 ところで、この病院チャプレインの概念が最初にアメリカで現れたのは1924年で、リチヤード・カギット博士の主唱により翌年アントン・ボイセンがマサチュセツツ州立ウースター精神病院の初代チャプレインになったことをもって始まる。現在、これが発展して全米に広まり、ヨーロッパに影響を与えつつある。そして、チャプレインを訓練する教育機関も次第に整備され、現在はACPE(全米臨床牧会教育協会)という資格を認定し、教育の基準を設定する機関が活動している。

 

    チャプレインの任務と機能

 

 このチャプレインは大要次のごとき資質を要求されている。まず、それぞれの宗教において聖職者として必要なものは基礎資格とされる。その上で前述の臨床牧会訓練の教育(Clinical Postoral Training  Education)を受ける。普通、一般病院と精神病院の両方の経験が必要で、これを経たものがスーパーヴァイザーとなる資格を得る。訓練の内容は多様で、病院の患者の面接、逐語記録の作成、小グループの指導、スーパーヴァイザーとの面接、ケース研究、医師など他の専門家の講義・実習などがある。そして、将来病院チャプレインになったときのために、①病院長の指導の下に、他の専門家スタッフとしてチームの一員として全人的な治療に当たれる、②特定宗教の宣教や布教ではなく、病み、苦しむ人間に具体的に仕え、その患者のニードに応えられる、これを宗教そのものの行いとして教派や宗教の分けへだてなく、人間に奉仕できる聖職者としてのアイデンティティと成熟性をもつ、③そのため宗教以外の関連の臨床諸科学の基礎を身につける、などが教育される。 では、そのチャプレインの機能とはどんなものであろうか。日本においてはまだ病院チャプレインはキリスト教主義病院などごく-部の宗教的色彩の濃い病院だけにおかれているにすぎないが、筆者はこの教育さえ発達すれば、一般の病院でも十分に理解され、置かれるようなるだろうと考えている。むしろ宗教立病院がややもすると特定宗教の宣伝や布教につい走りがちであるので一般病院のほうがかたよらないで人々の宗教的ニードに答えられる利点をもっている。いずれにしてもそれはチャプレイン自身の資質に依る面が大きい。

 そこで、その主なものをあげると、①病院の中で患者が病気という人生の危槻を克服するために精神的、心理的、宗教的に成長するのをはかる、そのため病人を訪問し、慰め、苦しみを聞き、励まし、救い、希望を与える、②患者をして病気の意味を認識させ、積極的な療養態度をつくる、③とくに臨死の患者の場合、その宗教的成熟を助け、家族のグリーフの問題、また儀式の問題の相談にあずかる、④病院全体を癒しの共同体となるようにする、⑨外部の奉仕・宗教団体との連絡-たとえば献血、ボランティア活動など、⑥病院のスタッフおよび家族への配慮、⑦病院内放送や礼拝による慰めを与える、などさまざまである。

 要は、どうして宗教の務めを人々のニードに答えるかたちで行えるかという点にかかっている。筆者も日本バプテスト病院(京都)でこの訓練を実施し、これには仏教の方も牧師の方々も参加されているが、将来の医学と宗教の幸福な出会いに役立てばと思っている。           文 献

1)樋口和彦:Pastoral Clinical Training Education  について.基督教研究,33:3,1964.

2)樋口和彦:精神医学と宗教との関連について.精神医学,18(12):1976.

3)樋口和彦:精神療法における「死」の宗教的問題,  精神療法,金剛出版,5(1):1979.

4)Paul, E.,Johnson, E.Psychology of Pastoral CareAbingdon PressNasbville,1953.