「キリスト教と文化」公開講演
イメージと癒し:傷ついた癒し人の像をめぐって
1999年3月20日発行 金城学院大学キリスト教文化研究所紀要 第3号 抜刷
はじめに
ただ今ご紹介にあずかりました樋口でございます。思い出してみると,ここには以前一度お招きを頂いたことがございます。その時は確か牧会臨床心理学の主題の一つである死の臨床ということについてお話をさせて頂いたと思います。今回は死でなく,生に主題をとってイメージと癒しの関係について話させていただきます。
最初にお断りしておきますけれども,この講演は学術講演会という厳めしい名前が付けられておりますが,こうして壇上からお見受けしたところ聴衆にはお若い学生さんがたも大勢みえられておられますので,出来るだけ話し言葉で,この主題のエッセンスを分かりやすくお話したいと思います。だからといって,この主題の持つ意味の内容は割引せず,出来るだけ心に届くようにお話したいと思います。しかし,まあ出来ますか,どうですか。
私は36年間同志社大学神学部で教鞭をとり,一昨年定年退職で新しい職務につきました。その間の教育研究生活を振り返って見ると,要約して二つの主題がありました。それは,死と夢であります。死については先般お話をいたしたので,残るのは夢であります。そこで今回は特に夢やイメージを中心に癒しの問題を考えてみたいのです。
1.古代の「愛の神」の諸相
キリスト教は古来愛の宗教と呼ばれて参りました。しかしながら,では,愛とは一体何であろうか,と問うてみると答えはそう簡単ではありません。今日の状況では,町には愛の歌が氾濫し,若者はすべて愛の宗教の信者になったかの観があります。じつは,キリスト教の出現以前にもギリシャをはじめとして,西欧からみて古代東方諸国には多くの愛の宗教は存在していました。しかし,その多くは内容が現在では不明であります。ただ,その当時からの残り物は,今の我々の考え方やそれぞれの宗教の中に存在して現在に伝えられています。キリスト教は,私見では,愛の宗教として,その中でももっとも発達深化したものの一つで,それ故に俗に愛の宗教と呼ばれるようになったと思います。
例えば,愛の神として今日も人口にもっとも膾炙しているのは,ギリシャ・ローマの童子神で,エロス・キューッピット神でしょう。心理学は今日人間関係について論じますが,考えてみると,なぜ一人の人間がもう一人の人間に魅せられて,惹かれてしまうのか,本当のところは不明であります。我々に分かることは人が人に惹かれたり,排斥されたりするその現象を知るのみであります。なぜ,この女がこともあろうに,この男と親密になるのか,我々臨床心理学者を日夜悩ませるところであります。どう考えても合点がいかない現象にいつもぶつかっています。どうも合理的な説明が付かない場合が率直にいって多いのです。これが男女の仲,いや男女ばかりではなく人間の仲でありましょう。
これは言わずと知れた悪戯好きのキューピット(クピド)の仕業であります。少なくとも当時はそう考えられていました。つまり,この神様は子どもであるから,大人のような全く合理的な行動が出来ないし,その上,矢と羽根をもっていて,それで飛び回ってやたらと人を射るのです。誤って自分を射れば自分を愛することになる。これがギリシャのナルシスの神話が語る悲劇であります。そのほか,愛の大女神像としてアプロデイテのような強烈な支配的な愛の神も存在していましたが,一時は大層崇拝され,どのようにその後発展していったか,その詳細な具体的な内容は残念ながら今日では十分には判明していないのです。
しかし,ここで私はまずこのエロス神の矢でつくる傷に注目してみましよう。つまり,愛と傷の近親性であります。人が人を愛すると心が痛むし,傷が残ります。愛のないところには痛みもないし,反対に人を愛することは人の予想に反して痛むことなのです。直接には幸福とは関係はなく,むしろ,痛く苦しいものであることは,誰しも日常で経験するところであります。
2.傷の方向性と人格性
このように傷と愛とは切っても切れない関係の中にあることは人間の日常経験から推察のつくところですが,注目すべきはキューピットの矢のように愛には方向性があることです。その傷が特定の一人の人に向けられたり,他ならぬ自分に向けられているということです。その方向性を意識したときに,愛は人格性を帯びます。相手の苦しみは,じつは今まで意識しなかったけれども,この私に向けられたのもであった。今まで,それに全く気づかなかったけれども,それを意識した瞬間,愛は決定的に急に私に迫ってくるのです。そして,この矢は時間と場所を超越します。
この同時性はいわゆるコリントの人への手紙に示されているような十字架の愛に示されています。全くそれまで他人事であったようなイエスの十字架の傷,痛み,死が他ならぬ私のためのものであったと意識した時に,その愛は歴史の時間を越え,空間を飛び越していきなり私に及んでくるのです。
ギリシャのデルホイという所に神殿がありますが,その古い神託に「傷ついたものがまた癒す。」というのがあります。幸福と幸福では人は必ずしも結びつきません,むしろ,人の傷が他の人の傷とを結びつけるのです。私は,その究極のイメージを表現したのが,イエスの十字架の教えではないかと思っています。
3.「傷ついた癒し人」(Wounded healer)のイメージ
キリスト教の愛の神の発展史を遡ってみてみると,アモスやホセアというような預言者の痛みの体験をとおして,次第に愛が深化されてやがて第二イザヤの思想に示されているような贖いの僕というイメージに到達したと考えられます。今ここでその思想の発展史をたどる余裕はありませんが,これはご承知のようにイスラエル人の国家が滅亡し,俘囚の体験を経た後に到達した境地であります。つまり,愛するもの自身が人の罪を負うこと。それによって贖うということです。これを通して愛の思想は一段とその深さを増したのであります。
ここで立ち止まって,臨床心理学や近代医学の中で,現在癒しの考え方がどのように展開しているかを見てみましょう。原理的に反省を込めて検討してみる必要があると思います。端的に言うと,例えば近代医学のように治療する側と治療を受ける側とに截然と二分されている分け方は問題です。癒す側と癒される側に明確に区別されていると,癒す側は健康で,絶対に病気はしないし,癒される側のみが,病気をもっていることになるのです。一方が主体者であって,他方はもののような客体であるといういわゆる近代科学主義の明確な二元論の立場になるのです。
この第二イザヤの立場は明確にこれと対立します。つまり,他者の罪や病を自らが引き受けて,他者のために自らが苦しむという思想であります。この贖いの受苦性にわたしは注目します。
カウンセリングをはじめあらゆる癒しは治療者自身が痛むことによって成就するのです。早い話が治療者自身が痛みを全く理解できず,感ずることも,相手の訴えを自らの心の内に引き受ける受苦性なしに人の治療はできないのです。時に肉体自身も同じ症状を出し,治療者自身も悩むという現象もしばしば起こり,これが転移を基本とした逆転移であることは臨床心理学では知られていることであります。これが治療の基礎であり,愛の宗教からいえば,贖いの思想の現れとしてみることができます。
ここで更に,カウンセリングの最も重要な概念として「傷ついた癒し人」の概念が浮かびあがってきます。ここにこそ神のみ子イエスの基本的な姿が現われております。つまり,十字架の死という傷を通して自らの死に至るまで人を愛したもう神のイメージがそこに存在するのです。そこで,このイメージそのものの性格についてなお少し述べてみたいと思います。そもそもイメージというものは一見人間が勝手に作り出せるように見えても実は人間の自由に作り出せるものではありません。勿論巷には広告のイメージのように多くのイメージは至るところに氾濫しているように見えますが,じつはこれらは皆いつか他人が作り出したイメージなのです。私はこれらのイメージを本来のイメージと区別しております。このようなものは誰かのイメージであってこれを私はアフター イメージ(after image)と称して本来のイメージと区別しているのです。イメージというのは,人のイメージの借り物ではなく,夢のように自分の中から湧き起こり,いわば与えられるものであります。このイメージを私は真正のものとして重要視し,これが人にしばしば生きるカをあたえるものであると考えるのです。
創世記1章27節には「神は自分のかたちに人を創造された」と記されております。ここで言われている「かたち」とはラテン語のイマゴ(Imago)で,英語のイメージ(Image)をさします。現代人が自らの内に神のイメージを今も持ち続けているか,大部分はすでに破壊されてしまっているか,これは神学者の論争の的ですが,ここでは私はいずれにしても,人間の内に働くイメージの作用について私は注目するのであります。
何故かというと,カウンセリングの場面においては,このイメージが治癒や癒しの重要な要素になってくるからです。決して問題の解決のみがカウンセリングの目的で,その終結ではないからです。多くの人の場合,まだその問題の渦中にあって,解決が見えてこない場合でも,自分の進むべき道のイメージが湧き起こってきた時,つまり,その問題のイメージが出現し,見えた時が自立への第一歩となるのです。本当の絶望は真っ白けで何のイメージもショックで持たない時でしょう。たとえ,絶望的なイメージでもイメージそのものが与えられているときは,実は希望がそこにあるのです。これをイメージの愛と呼んでもいいと思います。十字架の愛はこのような境地でおこるのです。言い換えると,自らのために贖いの僕となって「傷つける癒し人」たるイエスの愛が時空をこえて,この私に迫るのです。この私に向けられているイメージを知ることは大変なことなのです。これは治療する側と受ける側とに同時に働くのです。
おわりに
以上述べてきた愛のイメージの性格を私は十字架の愛と癒しに収斂させることができると思っているが,この稿を終わるにあたって,一言魂の世話(Care of Souls)についても述べておきたいと思います。これは永らくキリスト教教会の牧会で重要視されてきたことで,どちらかというと,近代の牧会ではあまり省みられていないことです。これはイエスの今も働くミニストリーの業として大切なものであります。また,これが牧会カウンセリングの神髄ともいうべきものだと思っています。
この詳細についてはまた稿をあらためて述べなければなりませんが,ただここで指摘したいのは,世話ということに関してです。カンセリングというとすぐに心理治療とか,問題解決,社会適応というように目標をきめて,解決を図ることが終局の目的であるかのように考えられますが,元来愛の業である牧会は人の魂を世話することでありました。誕生から死までその人の魂をお世話することであります。それが真の愛の業という訳で,そこに牧会の基礎があります。
そもそも世話というのは,現代ではあまりその価値がみとめられておりません。「大きなお世話」とか,「お世話様」とかいって,あまり肯定的にには考えられてきませんでした。つまり,些末なこと,繰り返しや目に見える効果というのと正反対の事柄です。しかし,よく考えると,人が成長するときに食事を三度三度食べさせ,体を清潔にし,世話をすることがどれだけ役にたつことでしょうか。とかく,目を見張るような大問題を魔術的に解決する方法のみを追う傾向が現代ではありますが,じつは持続的な些末ともみえる,愛の忍耐深い行為が人間と特に魂の成長にとって必要なことなのです。
「傷ついた癒し人」イエスの愛の業は彼の日常の細々とした悩みの中にあっての配慮であることを忘れないようにしたいと思います。この配慮(care)は地味ではあるが,じつは治療(Cure)にまさる働きであることを最後に指摘して終わります。(おわり)
参考文献
Hillman,James,Tbe Souls Code,NewYork:Random House,1996(ヒルマン,ジェイムス著 魂のコード 鏡リュージ訳 河出書房新社1998) Hillman,James,Re-Visioning Psychology,NewYork:Harper&Row,1975.(ヒルマン,ジェイムス著 魂の心理学 入江良平訳 青土社1997)
Hillmarn, James, Archetypal Psychology, Dallas, Texas: Spring Publications, Inc., 1983(ヒルマン,ジェイムス著 元型的心理学 河合俊雄訳 青土社 1993)
Moor, Thomas, Care of Souls, New York: Harper Collins, 1992.
樋口和彦講師の紹介
日 時:1998年11月17日(火)13時30分~15時00分(質疑応答を含む)
場 所:金城学院大学エラ・ヒューストンホール礼拝堂
演 題:「イメージと癒し:傷ついた癒し人の像をめぐって」
講 師:京都文教大学長 同志社大学名誉教授 樋 口 和 彦
【講師略歴】
1927年 横浜に生まれる
1957年 同志社大学神学部大学院修了(神学修士)
1960年 アンドヴァー・ニュートン神学校修了S.T.M.(神学修士)
1963年 日本キリスト教団 京都丸太町教会担任教師(現在に至る)
1970年以降 同志社大学神学部教授
同 神学部長
Doctor of Ministry の学位取得(1974)
日本いのちの電話連盟理事長
日本YMCA同盟評議員
国際箱庭療法学会副会長を歴任
現在 京都文教大学長 同志社大学名誉教授
【主要な著書,共著】
『ユング心理学の世界』(1978年)
『永遠の少年・女神の元型』(1986年)
『からだ・こころ』(1988年)
『生と死の教育』(1989年)
『ユング派の心理療法』(1998年)他多数
【最近の主要論文】
『老いと死一臨床心理学の立場から』
『ユング精神分析の現代父親観』
『こころを養う教育』
『ユング心理学の 〈宗教〉 イメージ』
以 上