結婚――この両刃の剣の意味するもの
(1982年10月 雑誌「あけぼの」掲載)
独身であることの自由をふまえつつ、人はなぜ結婚するのか
私の好きな小話に次のようなものがある。「人生には二度、幸福な時がある。一度は自分の好きな人と結婚した時であり、もう一度はその人が死んだ時である」と。妻がきいたら怒るだろうが、実際は男の平均寿命は女より少ないので、ただの希望に終わるだけである。考えてみると男のまことに勝手な願望であり、人間の結婚の中の幸福感のたよりなさをいかにも表現している。
だから、毎年多くの人が幸福を求めて結婚するが、また、毎年多くの人がその愛情の移ろいやすさによって結婚を解消してゆく。結婚式場ではまるで幸福と結婚とは同義語のように、祝辞が連発されるけど、実はそれほど、結婚と幸福は関係がないのかもしれない。それならばなぜ人間は結婚するのか。それは実は秘密であって、意外に深く、なかなか私にも答えられるものではないのだが、結婚カウンセラーとしての実際の経験の中から、日ごろ考えている点を若干述べて、その深層に今少し迫ってみたいと思っている。
結婚の本来の意味を問う時代
まず、言えることは、人間の長い歴史の中で、大げさに言うと、結婚の本来の意味を正確に問わねばならぬ時は、今日ほど切実なことはなかったのではないか、というのが私の中の実感である。こんな例がある。ある停年の御夫婦がいて、夫は今まで営々として働き停年を迎えた。翌日もう会社に行かず、家にいると、妻は食事をつくってくれないのである。「今まではあなたは会社で働き、私はそのため家庭で食事をつくりました。しかし、もう働いていないのだから私はつくりません」と言ったので、彼は愕然とした、と言うのである。
日本でもこのような男・女の伝統的な仕事の役割、そして運命的な結びつきが静かに問い直される日の近いこと、またきつつあることを暗示している。一生、あの男性とこの女性は結婚した日から二人は一生生活を共にしあう運命であって、(どうして分かったのだろうか?) この自然に従うという伝統的結婚観は次第に、意識して協力しあい、相補いあって結嬉生活を日々建設してゆくという協力しあう夫婦という方向に変わるのであろう。
もう一つの変化は、今までは結婚と生殖(育児を含めて)が密接に結びついているものが、経口避妊薬の普及などにより、一九七〇年代から妊娠の恐れなく、性を楽しむことができ、平均寿命の延長から、育児を終わると死亡していた親が、その自分の成長する二十年と育児の二十年を両方に使用してもなお、四十年という八十年の人生の半分以上が解放されて、自分の結婚生活を享受できるようになってきた。したがって、欧米では一生同一の異性と結婚生活をおくる終生一夫一婦制ではなくて、それぞれが自分の人生の成長に合わせて、複数の人々と一定期間結婚する継続的一夫一婦潮も考えられるようになってきている。こうなると、また、離婚はかならずしも、結婚の失敗ではなくて、心理的成長へのそれぞれの過程になるのである。私のカウンセリングの体験から言っても、ほんとうに悪い状態の時は、二人は離婚する力もない。むしろ、離婚できるようになるのは二人がカをつけてきた証拠である場合が多い。
このように生殖や育児から解放された人生が人間に送れるようになったのはごく最近のことなのである。そして、子が巣立ったあと、二人が結婚状態のまま残った。そこに新しい問題がある。 次に、多くの人は性(セックス)が結婚の基礎だと思っている。だれでも性欲のある人は結婚できるし、結婚はだれにとっても自然のことと思っている。これは誤っている。性は結婚にとって大切なものではあるが、第一の条件ではない。性関係のない御夫婦でも、立派な結婚生活をされている多くの例を私たちは知っているのである。
結婚の現実は魂の試練
さて、結婚とは何かを素直に答える時がきたようである。私が訳したグッゲンビュール・クレイグという人の『結婚の深層』(創元社)という本では彼は「結婚は魂の救いのため」であると結論づけているが、皆様は賛成なさるだろうか。そこで、私は結婚を考えるためには、まず独身の意味を考えてみる必要があると思う。現代では猫も杓子も結婚するし、結婚しないで独身生活を送る人間を異状とみるのは誤りである。その職業や宗教的信仰のために、あえて独身生活を送る人々は古今東西多数存在するし、それらの人口によって多くの人類の大切な仕事がなされてきた。
独身であることの人間的自由をふまえつつ、なぜ結婚するのか、そこでこそ結婚の意味が鮮明になってくるのである。 私は神は人間を創造したのではなく、男と女を創造したと聖書は述べていると考えている。つまり、抽象的な人間を造ったのではない。男と女を創造されたと書いてある。では「男」とは何かと定義するとなると大変難しいようであるが、(オリソピックでも性の判定では絶えずもめている)男でないものを女、女でないものを男と言ったに相違ない。結婚の多くの紛糾の原因は私のみるところ、この根本的差異の不承認からきているようである。 例えは、夫と妻がけんかしたとしよう。たいてい、夫は妻の悪いところを論理的に論難する。一つ、おまえは料理が下手で・・・・・・二つ、洗濯はだめで・・・・・・と。徹底的に論理で立ち向かう。妻は反対に夫に対する感情が胸に迫って何も言えなくなる。夫は「もし、おれが間違っていたら言ってみろ、言えないだろう。だからおれが正しい」となる。妻は「そんなこと言わす、あなたはきらい」ということになる。論理という自分の長所でけんかをするが、もし、夫は妻が今何を感じているかという妻の感情を感じることができれば、よいであろう。心理学老のユングは感情と論理はちょうど正反対に位置する心理機能であるとした。論理の発達した人は感情が幼稚で、感情の発達した人は論理が劣等である。だから、妻ほ自分の感情をもう少し論理的に説明することができれば二人は一つの完全になるだろう。 つまり、男と女は相互に相補う存在なのである。この意味で旧約聖書のホセアという預言老が不貞の妻ゴメルを愛せよという神の命令を受ける箇所は象教的である。結婚は彼にとって自然でなく神の命令であった。そして、できた彼の女の子供の名前を「燐まれぬ子」(ロルハマ)としたほどだったので、彼にとって結婚は人間的には受け入れられぬ神の仕事であったに相違ない。
結婚の現実は平和や幸福どころか、魂の試練になる場合が多い。新約聖書ではイエス・キリストと教会との問が結婚の関係を象致している。キリストがその体である教会を許し、これに仕え、愛している間柄として象徴的に表現されている。本来、不貞、節操なき、受け入れられぬ存在がイエス・キリストの十字架の愛によって、受け入れられるものとなっているのである。
国際結婚をなさって五十年も結婚生活を経験した方が、ある雑誌のインタビューであなたは日本の若い人々に国際結婚をお勧めになりますか、という質問に答えた記事が載っていた。その夫のこの高名な日本人はかたわらのフランス人の妻をみながら、そして、想像できる戦前、戦中、戦後の文化の相違による労苦を思い出しながら、「国際結婚をどちらかと言うと私は今の若い人々に勧めません。幸福そうだが、苦労や問題が多く、失敗するからです。しかし、私たちは幸福でした」と言ったのを憶えている。この幸福はたんなる幸せという意味ではなく、外ならぬ個と個が奇跡的にえたかけがえのない至福とも言うべきもので、試練をとおした結果であり、人間的には愛しえないものを神の恵みによって、愛せたという自信と感謝との感じであった。いわば結婚とはこのような魂の次元の奥義を指しているのだろうか。