西垣先生御著書の紹介文

 2000年に西垣二一先生が上梓された「牧会カウンセリングをめぐる諸問題」について、樋口が書いた紹介文です。西垣先生よりコピーをいただきました。2人の関係がにじみ出るように感じられる文章です。

「本のひろば」2000年7月号  本・批評と紹介

 

人は生きた牧者を待ち望む  西垣二一著 

「牧会カウンセリングをめぐる諸問題」

 

紹介者:樋口和彦

 

 この本は著者が長年にわたって牧会カウンセリングの領域で、こつこつと四十年以上にもわたって思索してきた道を、丁度聖和大学の学長職を定年で退職するにあたり、最終講義を中心にして纏めて出版したものである。改めて、西垣二一先生が学問の人生をこの牧会カウンセリング一筋に集中して生きてきたかを知って敬意を表したい。また、そのキリスト者としての真摯な実直な態度に今さらながら心をうたれる。数少ない同じ道の学者である私からすると、古い言葉で恐縮だが、彼は私の長い間の戦友のように思えてくる。

ちょうど同じころ、彼は入信し、渡米し、時も折もボストンで、当時まだ誰も知らなかった牧会心理学を苦心して専攻し、帰国して牧会にもつき、そしてやがて神学部やキリスト教主義の学校で教え、学長としてもアドミニストレーションの重責を担った。広い意味でのキリストの牧会にずーっと献身してきた訳である。この書物の中にも、その苦心の体験の詳細が出てくるが、とりわけ読者に読んでもらいたいのは、ボストンで受けた著者の牧会訓練である。それが、彼の一生と学究生活をずっと支えていたのではないだろうか。そしてこれで、最後だと思ったらこの四月から広島女学院大学の学長の重責を担うときいている。大体人生とはそんなものである。

 かく言う私も事もあろうに仏教主義の大学の学長として、(これはある人のターミナルケアから偶然出たことであるのだが)、臨床心理士養成のための本格的な大学院づくりのために今汗をかいている。私は本気で取り組んでいるのである。何時かやがて日本の仏教の最大宗派、浄土宗がわれわれの教会を助けてくれる日が来ないかと。その為には自分がまず微力を尽くしてみようと思い立ったわけである。しかし、どうも私は彼に比べると、ユング派の精神分析家になったり、いつも回り道していて、彼の方が信仰者としてあくまでも忠実で一途な道を選んで、同様に日本の牧会という重荷を負っているように思う。私は彼より一歳若いが、先年手術を受けて奇跡的にも全快されたことでもあり、心からこの機会に大兄の健康と健闘を祈りたい。

 ところで、本書であるが、やはり私には如何に彼が牧会カウンセリングに捕らわれてきたか、「私の牧会カウンセリングとの出会い」の第一章が一番面白い。勿論、彼のもっとも専門とするヒルトナーの牧会カウンセリングに関する理論とその理解には、なるほどと思い、今日の教会が神学的な視点から聞かねばならない点を多く含んでいるが、それにもまして本書で読者に興味があるのは、アメリカでの牧会カウンセリングの実際を如何にして修得したか、また著者はその後のアメリカの牧会カウンセリング運動に深くコミットメントし、それを苦心して紹介しているかがよく分かる。そして、わが国の神学界の中にあって、その理論をなんとかしてキリスト教会に定着させようと、その苦心の跡を見ることができる。この書物の中にポール・ジョンソン博士やウィリアム・ダグラス博士など懐かしいお名前が出てきて、どうしても個人的な思い入れで読んでしまうことになり申し訳ない。彼と日本バプテスト病院での第一回牧会臨床訓練などを一緒にやった経験など、今更ながら懐かしく思い出す。

これから、神学校を卒業して、牧会に出る方々や信徒の方々に広く読まれることを期待している。私はある人に、「貴方はいま学長をしていて、先生や、職員に、学生に、結局あなたはどこへ行っても、牧会をやっているんですね。」と言われてぎょっとしたが、これは図星である。いまこそ、この日本の戦後教育の閉塞期で、国際社会での教育への転換期に必要なのはパストラル・カウンセリングである。それは実はケア・オブ・ソールス・つまり魂の養生というか、世話である。長いこと、我々が「牧会」というと、よく「牧界」と間違われたり、「それ何ですか?」と訊かれたものであるが、人々の永遠の魂を得るためのそのお世話をいまこれほど人が必要としている時があろうか。家庭でも、学校でも、人は生きた牧者を待ち望んでいる。本書にはその手だてが述べている。

(ひぐちかずひこ=京都文教大学長)