愛の帯

1980年 京都市内地区婦人会新年会 礼拝)

 

コロサイ人への手紙/ 3章14~25

これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。

キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。いつも感謝していなさい。

キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。

そして、あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい。

妻たる者よ、夫に仕えなさい。それが、主にある者にふさわしいことである。

夫たる者よ、妻を愛しなさい。つらくあたってはいけない。

子たる者よ。何事についても両親に従いなさい。これが主に喜ばれることである。

父たる者よ、子供をいらだたせてはいけない。心がいじけるかも知れないから。

僕たる者よ、何事についても、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、目先だけの勤めをするのではなく、真心をこめて主を恐れつつ、従いなさい。

何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から働きなさい。

あなたがたが知っているとおり、あなたがたは御国をつぐことを、報いとして主から受けるであろう。あなたがたは、主キリストに仕えているのである。

不正を行う者は、自分の行った不正に対して報いを受けるであろう。それには差別扱いはない。

 

 

はじめに

 このお正月に新聞の論説などを読み感じたことですが、1970年代は、混乱の時代でした。例えばオイルショックなど、予想がつかない出来事が多発しました。しかし1980年代は、「もっと予想がつかない問題がおこるのではないか」というのが、評論家たちの共通の意見です。

 楽しい新年会の前ではありますが、こういう時にこそご一緒に聖書をひもといて、聖書がいったい我々にどのような変わらないことばを教えているかを考えてみたいと思います。

 

愛は帯なのか?

「愛の帯」というのは、先ほど読んでいただきました コロサイの信徒への手紙 3章14節の言葉です。すべてを完全に結ぶ帯であると書いてあります。この「帯」という言葉によって、私はまず最初に、女性が結婚式で結ぶような金襴緞子の帯をイメージしました。

 ところが、調べてみると、源語はそんなロマンティックな意味ではなかったのです。ギリシャ語でスンデスモス。その少し前、2章19節の終わりに「このかしらから出て、からだ全体は、節と節、筋と筋とによって強められ結び合わされ。」とありますが、その「結び合わされる」も同じ単語が使われています。すなわち、「結合」「靭帯」という意味です。骨を結びつける靭帯。それが帯。装飾的な帯というイメージとはずいぶん違い、むしろ医学的な言葉です。これがなければ、ばらばらになってしまうものです。事実、帯は飾りではなく、無ければ落っこちてしまうわけです。英語の訳をみてみますと、バンドです。なければずって落ちてしまうわけですね。

 つまり靭帯というのは、非常に本質的なかけがえのない、それがなければばらばらになってしまうというものです。それが「愛」であると言っているのです。愛はすべてをむすぶ帯である、と。本当にそうでしょうか。愛があれば、すべては結び合わされ、ばらばらにならないでしょうか。今日の話のポイントはそこにあります。

 

束縛する愛

 私の日常、カウンセリングの指導を行っています。カウンセリングというのは、人様の悩み事をお聞きします。例えば、子どものことや、お舅さん、お嫁さんの問題。カウンセリングは牧師の仕事の一つですから、その方法を教えたり、また私自身がカウンセリングをすることもあります。そのような中で人間のドロドロしたものに出会うと、時には愛というものは、すべてを結び合わせるどころか、すべてを破壊してしまうのだと思うことがあります。また、束縛する帯となり、締めつけて相手を窒息させてしまうこともあります。そのような「愛の性格」について、聖書からよく考えなければならないと思います。

 

病院臨床牧会訓練にて

 4年ほど前から、同志社神学部の大学院のコースを、北白川にある日本バプテスト病院へ持っていきました。そこで臨床的なセミナーをしています。今日はそのことの詳しいご説明はしませんが、そこでの一人の学生の経験を通して、愛はいかに人を圧迫したり傷つけたりするかという体験をお話しします。

 そのクラスの学生は皆、担当になった病室に行かねばなりません。病院には、苦しみをもった人、失望した人、心ならずも病院に来られる人がたくさんおられます。教会ならば、誰でも神さまの言葉を聞きに来られるということで心構えがありますが、病院は当然、神様を讃美するところでもなければ、信仰の勉強をするところでもありません。むしろ、「心ならずもここ来たのだから一日も早く治りたい。なんでこんなところにきてしまったのか」という人ばかりです。

 特に、痛みのある人は、切実です。痛みは人間の視野を狭くします。健康な時は、過去を振り返って喜んだり、反省したり、勇気づけられることもあり、思いは、過去にも未来にも広がります。しかし痛みは、人を現在にしばりつけてしまうのです。

 だからお医者さんは大変です。「今すぐに治して下さい」「もしかしたら、あなたの治療が悪いのではないですか?」などと責められるのに、痛みから解放されたとたん、患者さんは治療してもらったことなど、すぐに忘れてしまうのですから。

 

学生たちのショック

 このように、痛みの最中にある人を訪問すれば、学生さんは「うるさいから向うへいって」「何しに来たのですか」と冷たくされるわけです。牧師が自宅を訪ねるのであれば、歓迎されない場合でも、せめて挨拶くらいはしてもらえるものです。でも病院ではそれすらありません。

 無残に取り扱われた学生たちは、ショックを受けます。しかし、私はこのショックは非常に大切だと思います。なぜでしょうか。

 イエス様はこの地上を歩まれ、様々な人々に出会いました。すべての人が、イエス様に会いたいと思ったわけではありません。拒否した人も多く居たのです。そしてそれは時に、愛が必要な人ほど激しく拒否をするものなのです。なぜなら罪の中や病の中で打ちひしがれている人を支配しているのは、神様ではなく、罪であり死であり病であるからです。それにとらわれて自由になれない。だからこそ、拒否をするのです。

 

ある戸惑う学生

 ところが一人の学生が訪問にいくと、ある女性が大変親切に迎えてくれました。その学生はうれしくなって一生懸命会話しました。最後に女性は「また来てください。私はあなたに本を差し上げます。私の好きなこの本を読んでいただきたいのです。」といいました。

 彼は非常に戸惑いました。皆さんならどうされますか。指導員である私に、その学生は「困っているのです。もらっていいのでしょうか。あるいは貸してあげますという意味でしょうか。」と言いました。

 それは、高価な本ではなさそうでした。ですから私は「もらうことに問題はないと思うが、あなたはどうしたいのか?」と尋ねました。すると「もらいたくはないけれど、もらわなかったら彼女が傷つくかもしれないから、もらいます。でもその本は、分厚くて面白くなさそうなのです」と答えました。

 さらに私が「その本を読むのですか?あなたは次に彼女に会いに行った時には、『360ページにいいことが書いてありましたが読みましたか』と言われますよ」というと、学生は「学校の試験より大変ですね」と、ため息をつきました。

 私はこの女性を責めるつもりはありません。彼女は本当によいと思って本をくれたのでしょう。しかし、愛というものは重荷になりかねないものです。こちらが愛すれば、愛によって反応してくれて、よい方向に働く場合もあるが、働かない場合もあるということを、この学生は知ったわけです。

 

「愛」を考えない日本

 日本では、「愛」についてあまり話をしたり、考えたりする習慣がないように思います。「国家や君主のための義」などが優先され、「人の愛」などは一つ低いものとして軽んぜられてしまい、時に無視されていると思うのです。ただ自然に「人間は愛があればうまくいく」と考えられており、実際うまくいっていたのです。しかしながら次第に、それでは通じなくなる現実、もう一段深い現実が出現しているといってよいと私は思うのです。

 例えば親と子。友と友。本当に愛しさえすればすべてが万事都合よくなるという錯覚にとらわれているのですが、一度裏切られると、たちまち愛につまづいてしまうのです。

 私たちが住む国では、愛を絶対化しすぎ、愛があれば何でも解決できると思ってしまっているのではないでしょうか。そして失敗すればすべて愛がないと思ってしまうのです。 これは「神なき民の悲劇」だと、私は思います。

 そのような世の中において、唯一キリスト教会だけが「愛」を語っています。

 

絶望の果ての「愛」

 聖書の解く愛は、大きく二つのカテゴリーに分かれると考えられます。一つは旧約聖書に出てくる愛。旧約聖書の中でも、愛が真剣に解かれているのは、後半、後期ユダヤ教の部分です。上から下へ働く愛。絶望の果てに働き始める愛です。

 我々は教会の中で神を知っています。我々が絶対視するのは神だけであり、その他のすべてが相対的なものであると知っています。ですから人間の愛は、一面すばらしいもので、ある一面においてすばらしくないと知っても、絶望することはないのです。どんなに愛していてもどうしようもない現実が存在することを、旧約聖書は私たちに教えてくれるわけです。

 

神に打たれた義人 ヨブ

 例えば、旧約聖書にヨブ記にこう記されています。

『ヨブ記16章6節

たといわたしは語っても、/わたしの苦しみは和らげられない。たといわたしは忍んでも、/どれほどそれがわたしを去るであろうか。まことに神は今わたしを疲れさせた。』

 ここに、愛に疲れてしまった状態が表れています。ヨブという人は、愛そうと努めた人です。そのヨブが、愛そうとして皮肉にもそれに疲れてしまった状態を表しているのです。

 

 ヨブの世界について一言解説しますと、紀元前5世紀から3世紀、キリストが生まれる前の状態を最もよく表している書物であると言えます。すなわちエルサレムが陥落して、人々は流浪の旅を続けていました。その混乱が体の中まで入り込んでいたのではないでしょうか。ヨブ記に登場する様々な友人たちは皆 外国人です。ヨブは神の前に全く正しく、信仰を守る人でした。しかしヨブは、財産と子ども、健康、すべてをとりあげられてしまうのです。ヨブはう恨むことなく言いました。

 

『ヨブ記 1章 20節

このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、そして言った、/「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。』

 

 ヨブは罪を犯さず、また神に向かって愚かなことを言いませんでした。ヨブは完全な義の人です。しかし神さまは、この義人を打たれました。なぜでしょうか。なぜ、神に仕え、正しい行いをした私たちを打たれるのでしょうか。

 

つむじ風の中の声

 病院の中で多くの人たちは、同じような気持ちを持っています。「立派な信仰を持ち、そして家族を愛し、友だちを愛してきたのに、なぜ神さま、我々を打たれるのですか」と。そして愛の不合に苦しみ、疲れ切るのです。

 ここは大変面白いところです。最初イスラエルの人々はモーセから神の言葉をききました。神の言葉は上から下へ伝わってきました。律法において、お互いに精神を着くし思いをつくして愛し合ったのです。ところが歴史が長引くにつれ、彼らの作り上げた神の王国であったイスラエル国家は、北も南もすべて滅ぼされてしまいました。その時恐らく、愛なき状態の中でたくさんの人が横たわり、自分すらケアできないのに、ましてや他人などにかまっていられないという状態だったのでしょう。それがヨブ記の時代です。互いに愛し合うべきであるということを律法はいいますが、ヨブ記の言葉によると、「神は何も答えず私を疲れさせた」と。これがイエス様が生れる前の神の国なのです。

 

 ヨブ記には、最後に不思議な場面が付け加わっています。

『ヨブ記40章6節(~24節)

主はまたつむじ風の中からヨブに答えられた、「あなたは腰に帯して、男らしくせよ。わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ。あなたはなお、わたしに責任を負わそうとするのか。あなたはわたしを非とし、/自分を是としようとするのか。あなたは神のような腕を持っているのか、/神のような声でとどろきわたることができるか。あなたは威光と尊厳とをもってその身を飾り、/栄光と華麗とをもってその身を装ってみよ。あなたのあふるる怒りを漏らし、/すべての高ぶる者を見て、これを低くせよ。すべての高ぶる者を見て、これをかがませ、/また悪人をその所で踏みつけ、彼らをともにちりの中にうずめ、/その顔を隠れた所に閉じこめよ。そうすれば、わたしもまた、あなたをほめて、/あなたの右の手は/あなたを救うことができるとしよう。河馬を見よ、/これはあなたと同様にわたしが造ったもので、/牛のように草を食う。見よ、その力は腰にあり、/その勢いは腹の筋にある。これはその尾を香柏のように動かし、/そのももの筋は互にからみ合う。その骨は青銅の管のようで、/その肋骨は鉄の棒のようだ。これは神のわざの第一のものであって、/これを造った者がこれにつるぎを授けた。山もこれがために食物をいだし、/もろもろの野の獣もそこに遊ぶ。これは酸棗の木の下に伏し、/葦の茂み、または沼に隠れている。酸棗の木はその陰でこれをおおい、/川の柳はこれをめぐり囲む。見よ、たとい川が荒れても、これは驚かない。ヨルダンがその口に注ぎかかっても、/これはあわてない。だれが、かぎでこれを捕えることができるか。だれが、わなでその鼻を貫くことができるか。」

 

 主はつむじ風の中からヨブに答えられました。ヨブ記は答えの無い書物です。ヨブの傲慢を徹底的に打たれた神。ただ一つ救いがあるとすれば、つむじ風の中からかすかに神が答えること。なぜ、彼が打たれたか。義人でありながら、傲慢であり、誇りがあり、癒しがたい楽天主義がまだあったのです。それは、「人間は神なしに愛し合っていけばよい」という考えでした。嵐の中にある神の声に、回答らしきものがあるのです。

 

絶望がはじまり

 ここまでお話しすれば、あとは何が言いたいか、お分かりかと思います。イエスキリストの誕生なくして、愛の精神は完成しません。人間の愛の果てに十字架の神の愛がなければ我々の愛は成就しないのです。

 最初に戻ります。結び目、靭帯、スンデスモス。靭帯というのは、骨と骨が切断されているところをつなぎ合わせています。それがなければ、人間の愛は本当の愛として通じることはないのです。つまり、我々が人間の愛に絶望したときに、そこに新しい愛がはじまるのです。

 私が絶望しても、実は神は私に絶望しなかったのです。だから我々の世界に神の子イエスキリストをつかわし、そしてこの地上において、愛を示し、十字架の死に至るまで私たちを愛して下さったのです。

 

十字架における愛の帯

 私は「愛」とは、論理ばかりではないと思います。愛は感情があります。「愛されているという実感」なしには存在しないのです。人は、自分の家庭や職場が、それほどの苦しみもなく、本当に幸福であるならば――皆さんのご家庭もそういうはたくさんあると思いますが――苦しむ必要はないと思います。神さまも決して皆さんの苦しみを望んでいらっしゃらないでしょう。そういう人は、そのことを神さまに感謝すればよいと思います。感謝して感謝するのです。

 しかしながら、イエスキリストの十字架の存在は、そのような「自然的な愛」というのが、もはやそこで行き詰まって、反対に牙をむいて私たちに襲い掛かってくる時にこそ、なおその果てのむこう側に、十字架における愛があるということなのです。これが新約聖書からの私たちへのメッセージなのです。十字架の愛によって私たちは結び付けられているのです。

 恐らく教会の中には「あの人がクリスチャンなら、私はクリスチャンをやめたい」「あんな人がクリスチャンなんて、クリスチャンのイメージが堕落する」というようなトラブルもあることでしょう。

 しかしながら、そんな人間をも、キリスト者とさせて下さるのです。礼拝の場に出させて下さるのです。これはなんということでしょう。人を傷つけながらも、なお私が生きていてよいというのです。

 我々は時にぞっとする場面に遭遇します。自分の罪深さに気付く瞬間です。神はそのとき私たちに懺悔を要求します。そしてもしあなたが懺悔するならば、もう一度彼の愛によって許して下さる、そこにキリスト者、教会の秘密があるのです。すなわち、イエスキリストの愛が、すべてを結ぶ帯であるというのは、そういう意味です。

 

 もう一度最後に司会者の方に読んでいただいた前半の部分を読みます。私がいった言葉を思い浮かべながら聞いて下さい。

 

コロサイ人への手紙3章12節~17節

だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。いつも感謝していなさい。キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい。

 

以上