西垣二一先生 訪問記
このHPを管理している古橋悦子です。神戸市在住の私の友人(同志社大学神学部での父の教え子でもある)から、「樋口先生のことを『ベストフレンドです』とおっしゃる人にお会いしました」と、メールがきました。その方が、西垣二一(つぎかず)先生です。
さっそくお手紙を出したところ、すぐにお返事をいただき、樋口とのかかわりがよくわかる資料も入れてくださっていました。それが、こちらです。西垣先生が上梓された御本について、樋口が紹介している文章です。
それから何度かお手紙を交換したのち、厚かましくもお願いして、2024年10月、西垣先生のご自宅に訪問させていただきました。
とても96歳には見えない若々しいお姿の西垣先生。同い年だという奥様も、やはり大変若々しく、お二人で暖かく迎え入れてくださり、美味しいお茶をいただきながら、たくさんお話をさせていただきました。樋口との関わりについて、そしてご自身やご家族のこと、奥様のことも教えていただきました。
西垣二一(つぎかず)先生:1928年生。神学博士。神戸丸山教会、東神戸教会、福岡女学院、聖和大学に勤務。元・聖和大学学長、元・広島女学院大学学長。
西垣光代 様:1928年生。頌栄短期大学に勤務。元・頌栄幼稚園園長。
お二人のご了解を得て、その一部をご紹介させていただきます。
西垣二一先生のお話し 樋口和彦とのかかわりを中心に
私は昭和3年、1928年生まれだから、樋口先生の方が一つ年上です。中学校在学中に(当時の中学校は4年制でした)肺浸潤をして3年を2回したので、結局5年通ったんです。その最後の年は、予科練に行きました。終戦の年、1945年5月頃だったかな。それで8月には敗戦ですから、ほんの3ヶ月ほどでしたけど。学校が9月から再開し、1946年の3月に中学を卒業しました。
そのあと神戸栄光教会へ行き、パルモア学院で英語を学びながら、進駐軍で働きました。洗礼を受けて、アメリカから来日していた宣教師のフィーリー先生の伝道活動のお手伝いを4年ほどしました。神戸栄光教会の齋藤牧師がフィーリー先生の拠点を教会に作り、お世話をされていたのです。フィーリー先生が兵庫県の但馬など北の方にジープで訪問されるのに同行し、通訳などをサポートしました。パルモア学院を卒業した後、1952年から関西学院大学の神学部で学び、1957年大学院の時に妻と結婚しました。
卒業後は、神戸で二つの教会の牧会をした後、1961年にアメリカ、ボストン大学の大学院に留学しました。帰国して最初の6年間は東神戸教会での牧師だけだったので比較的気楽に動けたのですが、福岡女学院で教えるようになり、その後聖和大学で教えました。
聖和大学の時に一年間研究のための時間をもらって、アメリカのバンダービルド大学へ行きドクターを取得しました。だから留学は二度しています。
樋口先生はアンドーバーニュートン神学校でしょう。ボストンのすぐ近くで、学校は違いますが、パストラルカウンセルでは同じような流派でした。
第一回目の日本牧会カウンセリング研究会は、1964年3月に、樋口先生や東神大の三永恭平先生たちにより、来日していたポール・ジョンソン氏を招いて開催されました。ポール・ジョンソン氏は、私が学んでいたボストン大学の教授です。1963年に定年となり、1964年に日本に来て、同志社大学の神学部や東京神学大学で教えていたのです。私はちょうどアメリカから帰国したところだったので最初の研究会に加わることはできませんでした。
ここに、樋口先生と一緒に写った写真があります。(前列左から三人目が西垣先生。その右が樋口。)これだけです。これは、1976年に海星病院で行った日本牧会カウンセリング協会の第二回研究会です。その時、私は福岡女学院に勤めていたので、福岡から手伝いに来ました。
そのあと、牧会カウンセリング協会研究会は、5回ほどやった記憶はあります。京都ではバプテスト病院で、樋口先生が同志社大学神学部の臨床牧会訓練をされていましたね。牧会カウンセリング協会は、関東と関西に分かれていましたが、関西の方がさかんで、樋口先生が中心でした。樋口先生とは、牧会カウンセリングの会以外では、ほとんど会ったことはないですけれど、研究会の準備などでは連絡を取り合って一緒に進めていました。にこやかで、「いつでもいらっしゃい」という暖かいものがありました。とてもいい先生でしたよ。
アメリカの牧会カウンセリングは非常に盛んで、当時7000~8000人ぐらい会員がいました。世界大会でアフリカまで行ったことがあります。アフリカに行ったのは、あの時一度だけですね。女性の神学者が発表して、南半球で牧会カウンセリングの研究大会が開かれたのは初めてだと言っていましたよ。
いろいろなご質問
Q:樋口は、ボストンは船で行きましたが、やはり船で?
二一先生:はい。ボストンの学校を卒業したのが5月で、翌年の3月までアメリカの教会で働いて、船で日本へ帰ったんです。妻が、太平洋を船で渡ってみたいと言うもので...。教会はニュージャージー(東海岸)で、船が出るサンフランシスコまで、車まで行ったんですよ。
Q:え! アメリカ大陸縦断ですね! すごい!
二一先生:あちこち、知人の家に泊めてもらいながら縦断しました。1956年型シボレーだったんですが、アメリカの友人から「この車でいくのか?」って驚かれました。日本人にはピンとこなくて、ただ走っていけば行けると思っていたんですけれど。案の定、ロッキー山脈の途中で故障して、山の中で宿屋に二泊して修理してもらいました。幼い娘2人と、後ろには日本に持ち帰るたくさんの荷物を積んでいますから、無謀なことをしました。若かったんですね。無事に帰ってこられて、奇跡です!
Q:お二人とも、本当にお若く見えます。
光代さま :戦争中育ちですから、私たちはよく訓練されてるんですよね。今の子たちは、遠足に行くにもバスに乗っているけれど、私たちの時は、梅干しを一つ入れた日の丸弁当を持って、歩け歩け歩けでしたから。それで少しは丈夫になっているのかなって、思います。
Q:奥様も、教育のお仕事をされていたのですね。
光代さま:77歳くらいまでしていました。私は幼児教育の方なので、幼稚園の教諭や園長をしたり、専門学校とか短期大学とかで教えていました。
Q:戦争体験もおありなんですね。
光代さま :女学校に入った年に太平洋戦争が始まって、卒業した年に終わりました。だから女学校ではもう勉強どころではなく、学徒動員が始まると、日曜もなく工場に行かされていました。神戸大空襲では、私たちは実家が丸焼けになり、本当に九死に一生みたいな目に遭いました。はっと気がついたらもうどこも逃げ場がなくて、近くの運河にたくさん浮いていたイカダに逃げて命が助かったんです。あの時には、本当にたくさんの死体を見ました。空襲は何度もあったし、戦争だけでなく、阪神淡路大震災も経験していますし。そんな中を生き延びてこの年まで生きております。だから能登の災害のニュースを見ていると本当に辛くなりますし、世界ニュースを見ると、なぜいいことは一つもないのに、人間は戦争するのかしら、なぜやめないのかと、いつも思いますね。
あとがき
他にもたくさんのお話を伺いました。とてもお元気そうな西垣先生ですが、若い頃に脳腫瘍で、頭蓋骨を開く大手術をされたことがあるそうです。障害や麻痺が残るかもしれないと説明され、ご家族も大変心配されたそうですが、無事に元通り快復されたとのこと。また最近、転倒して入院された時にも、「このまま寝たきりになってしまうのでは?」と心配される中、1カ月後に元通りに快復して退院されてきたとのこと。「まあ、根が元気なのでしょうね」と笑っておっしゃいます。
西垣先生との接点である「牧会カウンセリング」について、私はあまりよく知らなかったのですが、この機会にその歴史に触れることができ、草分け期に西垣先生たちと樋口が一緒に考え、切り開いていたことを知って感無量です。そして、快く受け入れ、たくさん語っていただきました西垣先生ご夫妻に心から感謝しています。
(記:古橋悦子)