老後の支えと教会生活

(これは、2010年2月7日 京都丸太町教会研修会 における講演の記録です。研修会の第一部に、この講演によって問題提起がなされ、そのあとの第二部では、参加者がディスカッションが行われました。)

 

 

はじめに

今日は、素晴らしく完璧で、もう話合いする必要もない様な講演をするのではなく、研修会のメインである、この後の皆さんの討議の時間をより豊かで、なるべく偏らないものになるようお話しします。そのために、先に全般的な知識をご提供できるよう、私に時間が与えられたと考えています。そうでないと、察するにみなさんはかなり老齢化されていますので、話し合うと頑固になったり、いこじになったりして混乱するでしょう?(笑)

最も望ましいのは、私が一度死んでみて、「老後っていうのは、こういうものです」と分かってからお話することです。しかし私も私の老後がまだ終わっていないので、「こうですよ」と言うことができません。やっぱりみなさんと同じように、私も1年に1つずつ歳をとっていき、来月で83歳を迎える、これから死んでいく人間です。私も真剣に老後というものについて、特に教会の中でではどう老後の支えあいをすればいいか、ということを今丁度考えていたところで、この度は真によいテーマを選ばれたと思います。では、皆さんの貴重な時間を有意義に使えるようにしましょう。

 

結論はズバリ「絆」

今回お受けするに当り、先駆けて、皆さんの書かれたアンケート結果を見せていただきました。そこに、実によく問題が表れていると思いました。皆さんが大切だと思われていることを、私がざっと分類してみると、3つありました。まず1つ目は、神様との関係。老後を生きていく上で、み言葉をどう受けとめるかということ。2つ目は、人との交わり。教会での兄弟姉妹との交わりは、どう変化していくのか、急速な変化に対応できるのかなど。そして3つ目は、健康の問題。昔は美貌であったのに、美貌でなくなる(笑)とか、力仕事ができなくなったとか、そういう体の健康の衰えに対する心配。この3つは、私の話の骨組みにぴったりだと思いました。ただ私はそれにもう一つだけ、付け加えようとは思っています。

忙しい方のために先に結論を言うと、それはずばり「絆」です。これが大切です。3つの分野・神様、人、体。この絆をどう確保するか。これが大きなポイントなのです。

 

迷惑なおじいさん?

いよいよ本題に入ります。実は現代の人間というのは、人間の歴史始まって以来、気づきませんが、全く初めての経験をしています。というのも、昔は自分の子どもが丁度育った頃、人は死にました。今でも世界の中には、東南アジアなど、40年か50年くらいの平均寿命の地域がありますが、それが普通でした。ところが、19世紀、20世紀に入り、技術が発達し科学的な学問の恩恵によって、人間は長く生きられるようになりました。寿命が、80歳、90歳・・・つまり、2倍になったわけです。

そうなると、今まで考えるまでもなかった「子育て後の時間」について、考える必要が出てきたわけです。さあ、どうするか。孫をかまって 嫁とケンカするか。昔はもう死んでいるから口出しできなかったのに、余計なことにまで口を出し、元気だし、お金はあるし...と。こういう爺さん婆さんがいると、若い人は迷惑ですね(笑)。早く片付いてくれたらいいのに、そうはいかない。教会だけでは収まらず、あちこちでいろんな悪さをするわけです。これは、人類にとって全く新しい経験だということを、まずはよく頭に入れて下さい。今の時代、老後を送るというのは、じつは容易ならぬことなんですよ!と、佐藤博先生もそうおっしゃっていました。つまり「容易ならぬ時代」に生きて、「容易ならぬ問題」に直面し、「容易ならぬ形」で死のうとしているわけです。

 

ある時必ず老人になる

さて次に、この「老後」という言葉のことです。どうも、カチンと来ますね。まだ死んでないのですよ。だから「老後」じゃなくて「老中」が正しいと思うのです。徳川時代からあった言葉です。当時は40歳くらいから老中になっていました。この定義は曖昧で、いつから自分たちが老後なのか、分からないのです。社会学的、医学的には、後期高齢者などという言葉で規程することもありますが、実際のところ、非常に無理があります。例えばバスに乗っていると、高校生が前に立っている女性に席を譲ろうとしているとします。でもその女性、お見受けするところ相当な婆さんなのに(失礼!)、「私、結構です」と断っていらっしゃるのです。かわいそうに、高校生は気まずくなって座るに座れずもじもじと困っている..そんな光景がありますね。その時、席を譲られた女性自身、自分はどう思っていようが、他の人は、「老人」だと思ったわけです。少なくとも1人の高校生はそう思った...違いますか?それを素直に受け入れるべきです。つまり、人によって、いつから老人になるのか、意識が全く違うので簡単には言えないと言いたいわけです。いつからかは分からないけれど、ある時、必ずはじまるのです。

 

若々しい青年の顔が見える!

先ほど、司会をして下さっている山本愛二郎さんの横顔をこちらから拝見していて、彼がまだ京都大学の学生さんだった頃に、私の家の引越しに手伝いに来てくれた時の顔が、ぱっと浮かびました(笑)。われわれは長年教会に通いながら、いつの間にか時間が経ちました。今ではお互いが老人だと思っているけれど、でもふと、若い頃の顔が思い出される。同一人物なんですよ。高校生の会におられた頃の高谷泰市さんと、今の高谷泰市さんは、同一人物なんですよ(笑)。ある時突然変化したのではなく、ずーっと知らず知らずのうちに変わっていったわけです。そして、一人ひとり、幼かった時代、若かった時代のことを背負いつつ、この今があるわけです。

 

生まれる人がいて、死ぬ人がいる

私は、教会のコミュニティーほど、老若男女が混じった場所はないと思います。もしこの場が生き生きとしているのであれば、これこそ社会だと思うのです。外の社会は、整っているように見えますが、実は、会社なら会社、学校なら学校と、ある目的を持った、ある世代の人たちが中心の、かなり偏った世代のコミュニティーであることが多いのです。ところが教会というコミュニティーは、誰でも入れますし、赤ちゃんが生まれますし、天国に召される人もいる。そういうリサイクルの場こそ、ある意味で模範的な本当の人間コミュニティーだと思うのです。

人間、歳をとるにつれ、よいことがある一方で、変化による不都合も起きるでしょう。だからこそ、このようなコミュニティーで、このような難問について、お互いの支えあいをどうするか、自分のイメージは今どうで、この先どうなっていくのか、どう絆を確保するか...ということを考えるのはとても必要だと思うのです。

 

家からの脱出の時代

我々が育った時代、終戦後すぐの時代は、家族が中心でした。近代文学を読めば分かるように、島崎藤村の言う「夜明け前」の世界です。その家族中心の世界の中では、どうやって家から脱出し、自我を確立し、自立するかが主題でした。特にクリスチャンの場合は、信仰を得てどう伝統的な「家」から「個」として自立できるのかは、大問題でした。私も自分で決心し、東京から京都に来て神学部の寮に入り、修道院のような場所でもう親から面倒を見てもらえない状況の中で、信仰生活を得て、牧師になっていくという世界を体験しました。当時の神学部は今のように「自分の教養のために神学の勉強をする」など考えられないことでした。佐藤博先生も、ある意味では「家」を捨ててこの道を選ばれた方です。私は、最近になって自分の兄弟と家族の問題を話すとき、愕然としました。クリスチャンではない家庭の長男であった私は、家からまさに脱出したことで大きく成長し、自分はそれで良かったわけです。しかし、兄貴に脱出されてしまった家に残った妹弟達が、当時どれだけ幼くて、どれだけ兄貴を恨みに思い嘆いていたことか、またそれを言えずにいたことかを、今になって知りました。おそらく私だけじゃないでしょう。信仰を確立するためには、裏側にあるものが犠牲になり、そこには嘆きがあったのです。

 

砂漠が広がる現代

しかし今の時代は、全く違う問題が起こっています。日本のコミュニティーは、自我の砂漠です。家族の絆がどんどん失われてゆき、町内会もなくなり、コミュニティーは貧弱化し、誰かが孤独にアパートで死んでいても気付かない・・・自我の成れの果てという現実です。京都はまだ町内会や地蔵盆など、つながりが残っている方ですが、それでもひどくなっていて、多くのフリーターの人たちが路頭に迷い、年末年始には行き場のない人のためにシェルターを作って収容しなくてはならない。今後こういう動きはさらに激しくなるだろうと思います。

今の社会は、自分が失業し、家がなくて困っていることを、自らが宣言し届け出ることにより、手当てが支給されるという制度になっています。「一人ひとりが自分に責任を持って行動しているのだから、自分がこんな状態になってしまったのは、自分が怠け者だからだ。自分が悪いからだ。だからもう社会の一員にはなれない」と自分自身を責め、家族にも友だちにも言わず、自分の尊厳性を守るため、人から与えられることを拒み、死の道を選ぶという、自殺志願者も増えています。それをどうするか。そのために、「いのちの電話」が、誰からの相談もそっと電話で受けられるように、その活動を日本全国張り巡らせています。しかし、そういう網の目からも、どんどん漏れてしまうような状況。この根底には、「自分ひとりが、自分ひとりの責任において生きている」という社会の論理があるのです。つまり、絆がなくなっているわけです。しかもそれは急速に進んでいるのです。

 

濡れ落ち葉にならないために

そのような社会の中で、私たちは、健康を与えられ、長く余生を生きられるようになりました。しかしその存在は、社会の濡れ落ち葉であり、人間という形の社会のごみ、無価値なもの、人間でなくなってしまうという恐ろしさがそこにあるのです。これが現代社会なのです。そんな中で、いかに老後の支えを持つかを今考えています。

 

連鎖の先にある私

まずは、神様と自分との絆、見えない絆が最も大切になります。現代社会には、「見えるものだけに価値があり、見えないものは価値がない」という法則があります。そのような中で、私たちクリスチャンは、「なぜ見えないものを信用できるのか」と多くの人に問われます。しかしその時反対に問いたいのです。「それでは見えないものは信じないのですか? あなたが信じているのは、実は見えないものではないか?」と。物質世界の中で、最もはっきりと、見えないものが形になっているのは「命」です。その命を「命は自分のもの。だから私が自分で処分してもよい」という現代人の思想に対して、私は「あなたの命は本当にあなたが作ったの? そうではなく、お父さんやお母さんから受け継いだのでしょう。そしてその命は、その前の祖先から受け継いだ、命の永い連鎖なのです。連鎖の行き着く先に、あなたがいるのですよ」と言いたいのです。だから、勝手に処分してよいものでは、断じてないのです。

 

命を寿ぐことができるか

幼い子を見て下さい。とてもかわいいです。生まれてきた命は、実に生き生きと、命を寿いでいます。寿命という言葉があり、普通「寿命がきた」など、悪い意味に使われがちですが、実は「命を寿ぐ」という意味なのです。ところが、命を寿ぐことなく、迷惑なものだと受け取ってしまう人がいます。自殺をする人の会話を聞くと、多くの場合、「私が死んでも、誰も泣かないだろうし、関心を持たないだろう。だからどうなってもかまわない」と言います。それは本当でしょうか。命を寿ぐことができなくなったら人間はもう生きていけない。そういうことじゃないかと思うのです。

 

「死を貫いて 死の中を生きる」

ここで、死の問題が出てきます。死というものは、意識がなくなった先にあるように思えます。病気になり、意識がなくなり、その向こう側の無意識の中にあるのだと。それでは考えてみて下さい。反対に、生まれる前はどうだったのでしょう。それは死でしょうか。現代人は、片方しか見ていないのです。でも実は、どちらも死なのです。つまり、死に挟まれて生きている。死の中を生きているわけです。そしてまた、死は生の向こう側にあるのではなく、生の中に死があるとも言えます。例えば私たちは、人生において大きな試練に遭うと、死を決心します。自殺というのは、必ずしも弱い人が負けて死ぬわけではありません。成長しようとする人が、大きく挑戦するときに、死の体験をすることがあるのです。そこで死を突破して成長し、突破できなかった人が死んでいく..という死もあるのです。だから、私が好きな言葉は、「死を貫いて、死の中を生きる」です。私たちはみんなそうなのですよ。死の中を生きてきたのです。生を離れての死はないのです。大きな飛躍、大きな変貌、大きな可能性、その時にはいつも死の試練があるのです。

 

老人の大きな役割

その死の試練に1人で立ち向かう時、見つめてくれている人が必要です。死の試練の場。それは「儀式(イニシエーション)」ですから、見ている人は「イニシエーター」です。その役目を老人がするわけです。「見ているからね」と言い、成功したら「うまくいったね」と喜んでくれる。そうやって子どもは突破していく。老人にはそういう役目もあるわけです。

 

寄り添って下さる方がいる

死の問題は、考えないほうがよいという意見もあるでしょう。けれども、教会というのは、こういう死の問題を真正面から見据えることが出来る場だと思います。その中にあえて入り、突破しようという力を、教会は持っているからです。

それはつまり、私がキリスト教信仰の中で一番感激する、「イエス様の十字架における死」があるからです。イエス様は、この地上を人間として歩まれ、自分の責任において、十字架に架かられました。罪びとのため、すべての死を克服されたのです。

私は若い頃、友人を一人亡くしました。私たち親しい仲間の間では、「本当に天国があるのか。だれか先に死ぬ人は、必ず報告しよう」という約束がありました。喉頭結核で、とうとう水も飲めなくなった彼の臨終の場に呼ばれた私は、一生懸命「彼は何を言うだろうか。天国はあると言うか。ないと言うか・・・」と思って見ていました。彼は教会から持ってきた十字架を抱えていました。最期の時、ほとんど声は出なかったのですが、でも私にはすぐ分かったのです。彼が1人で死んでいくのではないことが。死を勝利した、神の子であるイエス様が一緒におられたのです。イエス様は、あらゆる苦しみを十字架で味わい、そして死に勝利された方です。人間の苦しみをすべてお分かりになるのです。死に勝った復活の主、その復活信仰は、クリスチャンだけに与えられたものです。私たちはそれにすがって行かなくてはならないのです。

 

出来損ないの子ほどかわいさが増す

絆には4つあります。まず1つ目は、上に向かう絆。神との関係です。人間は苦しくなると、自分から関係を切るのですね。「神も仏もあるものか」となるわけです。人間の病は、孤立の問題でもあります。自分から断ち切り、1人になってしまうのです。これが一番救いの無い状態です。しかし、幸いなことに、私の方は切っても、神さまからはいつも、愛して下さいます。クリスチャンになる前からもそうだったし、こちらから関係を切ろうが、何をしようが、とにかく絶対的に愛して下さっているのです。それどころか、聖書にもある通り、罪人ほど強く愛して下さるのです。お母さんもそうですね。出来損ないの子ほど、かわいいものなのです。捨てるわけがないのです。

 

病によって絆が切れる?!

次に、社会との絆。孤立する人間は、すべての絆を切ってしまいます。病というのは、だいたい、絆の切れた状態なのです。入院して離れることで、社会との関係が切れてしまいます。社会というのは、悪魔性を持っていますから、そう簡単に受け入れてくれませんし、逆に利用されたり、利用することで人間の罪は深くなるという恐れもあります。しかし、クリスチャンであれば、神様との絆を強く持ち、一人ひとりが神様から与えられた能力を生かせば、何かしら社会に貢献できるはずです。そうやって社会との絆を作るのです。「小さなこと(瑣末)に神が宿る」といいますが、小さなボランティアの働きでも、教会の交わりでもよいのです。

もう一つは自然との絆です。木や草は動物などの自然との交わりです。神様が作られた美しい世界を愛でて、それを讃美することです。

 

ダイエットは見破られている?

そして最後が、この私( I )ではなく、自分(Me)との絆です。このMe とは多くの場合、身体を意味しています。自分の身体を、自分が受け入れているかどうかということです。年をとると、もうろくしてきます。私は学長をしていた頃、決断しなくてはならない場面が多くありました。二者択一、場合によってはどちらに転んでも良くない場合に直面しますが、それでも選ばなくちゃならない。そんなときは、「自分は人より判断力があるのだ」と自ら言い聞かせないと出来ないこともあるのです。そこで私は強くなります。ところが今、退職して家にいるでしょう。奥さんと一緒に暮らすって、大変なことですね!(笑) 常に人より判断力があると思いこんで来た私ですが、家庭において、正しいと思ったことが、ことごとく間違っていたと気付かされる!(笑) 「今はタクシーに乗りなさい」「今はこれを食べなさい」など、私が「こっちの方がいいのでは?」と思っても、結局は家内がいつも正しい。素直になってよくよく考えてみると、自分の間違いが分かるのです。同じように、自分の体のことも、よくよく体の声を聞いてみることが大切です。私は今、痩せようと涙ぐましい努力していますが、ご覧のように、そうは容易くいきません。いろいろやってみても、体の方が私より利口なんです。多少カロリーを抑えてみたところで、すっかり見破られていたり、逆に体が蓄えてしまったり...。ということは、体に正直になって、聞かなくてはいけない、ということなのです。

 

老人の中の「子ども」

人間は、生まれてから少年、青年、成人へと、だんだん上昇する時期、生理的な成長期は、だいたい誰も大きな差はないものです。本に書かれている通りに段階を追って変化していきます。ところが問題は成人から老人に下降する時期です。これは、最初にも申しましたとおり、人間の有史以来、初めての出来事で、最近は「グラデュアル デス(ゆるやかな死)」ということばもありますが、だんだんと緩やかに死に向かいます。そのあたりのためには、老年心理学などが出来つつありますが、まだまだ十分ではありません。とにかく成長期に比べ、下降期は個人差がとても大きいのです。同じ70歳でも、千差万別です。そこに加え、それぞれの人の中には、老人だけが存在しているわけではなく、過去をずーっと引きずっているのです。老人の中にも、子どもがいるのです。

私はいつも、目を見ます。「この人の中の子どもは生き生きしているだろうか」と。人は年をとるほどに、自分の懐かしい少年時代を思い出すことが多くなります。老人だから過去を捨てるのではなく、むしろ老人の中にこそ「幼児性」「子ども性」が生きているのです。時に、老人が「子どもっぽく」「せっかち」になるのはそのためです。自分との絆を考えるとき、あなたの中の「子ども」が生き生きとしているか..ということを考えることも重要なのです。

 

大切なのは人間の「メンテナンス」

最後になりました。今お話しした、4つの絆。神様との絆、社会との絆、自然との絆、自分との絆。そのそれぞれの絆を保つためには、メンテナンスが必要です。メンテナンスというと、建物のようですが、あなたは、神様の建築物なのです。どうやって責任を持ってこの建築物をお預かりするか、それにはどういうメンテナンスが必要なのか、よく考えて下さい。

これでお話を終わります。どうぞ、楽しいお話し合いを。