1992 神は死んだ、そして生きた

神は死んだ、そして生きた

1992年5月31日 京都丸太町教会 朝礼拝

 

 私も皆さんと同じように佐藤先生のお説教に養われて信仰生活を送っておりますけれども、今日は先生からのご要請でお話をいたしたいと思います。また新しくこの教会にいらっしゃった方もあると思います。そういう方々とご一緒に聖書を学んでみたいと思います。私は、お説教は子供さんのためとか、女性の方のためとか、ご老人のためとかいう、どこか焦点を合わせてお話をするつもりにしておりますが、今日は学生さんとか、あるいは少し哲学、あるいは社会というようなものにご関心のある方に対して、私の考えの中にある神の働きというものをお話してみたいと思います。

 

神がいない時代

 有名な哲学者でハイデガーという方が、「実存と存在」という本の中でこういうことを言っています。「現在は、過ぎ去る神々は もはやなく、来るべき神もまだいないという時代である」と。神様たちは、もう過ぎ去ってしまっていて、新しい神様がまだ来ていない、そういう時代だと。いわば「狭間の時代」であります。間の時代でありますし、過渡期の時代です。様々なところにこういう現象が見られます。これを「狭間現象」と呼んでいる方もおります。一人一人が孤独の中で自分の人生という旅をしているということになるわけであります。

 こういう神の不在現象というのは、いろいろな宗教の中に表されております。例えば皆さんご承知のように、日本の古来の宗教では神無月というのがあります。陰暦の十月ですね、神様がみんなあの出雲に集まりますから、神様がいない月と言われていました。本当はいないのではなく、出雲に行けばたくさんいるわけですけれども。

 キリスト教の思想史の中では、この現代の一つの特徴としては「神不在の時代」と言われています。その中に様々な現象が最近現れてきています。つまり神がいないから起こる現象です。様々な学者がいろんな説を立てておるのですけれども、私はこういう社会の行く末がどのように推移していくのかということに非常に関心がありました。

 

中心が崩壊している

 私の見ておりますところでは、現在は中心的な権威というものが崩壊していく、失墜していく時代ではないかと思います。例えば身近にいくつも例を挙げることができますけれども、皆様がテレビでご覧になったように、昨年一昨年とソビエトでは七十年も続いた中央集権的な権威というものが失墜してしまいました。ガラガラと音を立てて崩れてしまったのです。日本で言えば、東京の一極集中型、官僚によるところの国を統制する、そういう中央集権的な権威というものは、ソビエトほどではありませんけれども、対米交渉などの場面でも次第になくなってきて、昔のような統制が利かなくなってきています。東京へ行ってご覧になりますと、たくさんの人たちが右往左往し、ときには混乱としか見えないような現象というものが出てきております。私が勤めております大学でもそうです。昔のような中心的権威というものは次第になくなっていって、家庭でも父親の権威というものが、これはもう皆さんご実感なさっているように、私自身も実感しているように、父親の権威がだんだんなくなっていきます。

 地球環境というような中でも、我々の人間の権威というもの、人間が地球の資源を勝手に消費したり、動物に危害を与えたり、魚を無差別にとることができなくなってきております。今、ブラジルで地球の環境を考える会議というものが行われています。

 

混乱する人間の二つの反応

 こういう様々な現象の根底では、一元的な権威というものをもはや保っていることができずに、次第に崩れ始めています。一旦崩れていきますと、この崩れる度合いというものは非常に激しくなってまいります。

こういう混乱の時代に入りますと、人間は二つの反応をするというふうに言われております。一つは、どういうふうに自分の生活を立て直していいか、あるいはどう行動すればよいかわからなくなって、そこにとどまりうつ伏せになって、そして鬱状態になって動きを止めて、座り込んでしまうという反応です。そして沈んでいく人々です。これは普通の反応だろうと思います。

もう一つは、構造的ニヒリズムといいますか、混乱しているから、その混乱に合わせてやたらと動き回る、不安なのでできるだけ動く、混乱に混乱を重ねる、あるいは他人を非難する、攻撃する、排除するなど、その勢いというものが非常に強くなっていくという反応です。ところがですね、一見非常に激しく動いているように見えるのですけれども、その人の中心はニヒリズム、すなわち虚無主義ですから、中心には何にもないのです。中心が空であるからこそ、自転車操業のようにただ動き回っていれば、安心していられるということでございます。

 

早すぎてはいけない

 従ってこういう時代になりますと、何が真実なのか、価値と価値がぶつかり混乱が混乱を産んでいくという状態になります。このような中でまず考えなければならないのは「too quick too soon」つまり、早過ぎ、すぐすぎる、ということです。

 このような世界の中で、レディーメイドの答えというものは、もはやなくなってきます。ですから、まずゆっくりしなければならない。急ぎすぎてはいけない。「ゆっくり早く」っていいますか、そういう状態が一番大切なのではないか。すなわち、あらゆる特効薬、あらゆる即効薬、あらゆる一つの一元的な答えというものは、もうなくなったということなのであります。したがって今、私が話しているこの説教自身も、私から何か特効薬を、あるいは決定的な答えを得ようとお聞きになっているならば、それは失望するわけです。説教では、特効薬的な答えを出すということを神様から求められているのではありません。そうではなくて、この混乱の背後にどのような神様の力、意志というものが働いているかということを、聖書がどういうふうに私たちに語っているか、それをどう解き明かすか、ということが私の使命になってくるわけです。

 

罪の支払う報酬は死

 では、聖書というのはどういうふうに言っているか。実は先ほど皮肉なことに私の間違いで、聖書朗読の方に、一番最後の節だけお読みいただけなかったわけですが、実はそこを説教をしようと思ってたんです(笑)。ローマの信徒への手紙 6章23節です。逆に、非常に印象的ですね。

 『罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。』この二つの点について今日お話ししたいと思ってるのです。『罪の支払う報酬は死である』と。なんでこんな現象が今のこの世の中に現れているのでしょう。これはつまり、神不在の中にあって我々は罪を犯しているからなのです。

 多くの人たちは、現代というのは人間中心の時代だといいます。もちろん、ある面ではそれは当たっております。しかしもしも一人一人が中心であったならば、どうなるでしょうか? それはちょうど丸いボールのようなもので、球のようなものです。中心があって、そして円周があります。完全な球というのは、みな中心から円周は等距離にあるわけです。だから、ギリシャの昔から、球というのは完全を表しているということになるわけです。自分は球のように完全になること、これを目指していったわけです。聖書では、これを罪だと言っています。みんなが自分中心に、自分が球の中心だと言ったならば、中心と中心が衝突し、混乱が絶えず起こっていくわけです。これが人間のおごりであり、人間が自分だけで神なしに生きられると思う自信なのです。自信はすぐ他の自信と衝突します。そして血みどろの争いというものをするようになるわけです。ですから支払う報酬は死であるのです。どちらかが食いつくされるまで、お互いに力を使って、抗争するということになります。

 

神なしで生きると

 したがいまして、それを抗争しないように、より力の強い、一元的な権威というものが、それをコントロールしようとするわけです。しかし今言いましたように、コントロールできている間はいいのですけれども、神なしで生きていくうちに、次第に人間一人一人の中心にそれが移りつつあるわけです。関西は関東に、関東は関西に、山陰はまた関西に、そういう形でみんな自分を主張し始めて、やがて無限に、これは分裂していくと思います。

 ちょうど、ソビエトが今、十一の共和国に分かれて、そしてこの共和国同士が争っているというような状況が、もっともっと細分化されて、次第に我々の周囲に起こってくるようになります。聖書は一貫して、この罪からの解放ということを言っているわけであります。こういう束縛、こういう罪から解放されるために、罪の定義というのがたくさんありました。一番有力な一番大切な定義というのは、神との関係を断ち切るということです。すなわち神不在、神なしで生きるということは、神様の関係を頭に入れないで生活する、自分一人で生きられるということであります。これが「罪が支払う報酬は死である」という、そういうことであります。

 

人が死ぬときに

 私はサイコオンコロジーという学会に創立のときから関係しております。これは今問題になっている、人間がどういう過程を通って、どういう医学的な、どういう心理学的な、どういう精神的な支えの中で、どんな場所でどんな手立てにおいて息を引き取ることが幸福であるかということを、お医者さんたち、その他の人たちと考えていく学会であり、波及効果がいろんなところに現れてきておりました。

 例えば、今まで痛みに対して無関心であったお医者さんたちが、患者さんたちが痛むことに目を向け始めました。肉体的な痛みに対しては、もちろん正しい薬の使い方をするということです。しかし、人間が痛むことは肉体的な痛みだけではなくて、精神的な苦痛もあります。愛する者と別れていかなければならない苦痛もありますし、これからどんなところへ行くのかという恐れなど、様々な不安があります。そのときに人間が一人で生きていくということがどんなにつらいものであるか、どんなに大変なことであるか、この未知の経験というものを生きていくことがどんなに大変なものであるかということが、次第にわかり始めてきているわけです。そして医療制度とか、またNONメディカルスタッフとか、そういうものを日本の医療制度の中でどういうふうに取り入れていくかということについて考えておるわけですけれども、この中で、従来のような大きな大病院主義とか、医局中心主義とか、手術中心主義とか、そういったものは次第に影を潜めています。

 

傍らに立つ存在

 重要なのは、普通の人が普通に生きてきた自分の人生を最後に閉じるときに、何が必要かということ。そのときに誰もが面する問題は、もし私が一人で生きてきているのではなくて、誰かと一緒に私が生きてきたとするならば-もちろん親と一緒に生きてきたこともありますし、親友と一緒に生きてきたこともありますが-いろいろな価値の相克の中でも最後まで残る価値、最後誰から見放されても最後まで残る価値、最後まで傍らに立ちたもう神のお姿、これを誰でもが望むわけであります。そのときに初めて自分の人生は自分一人で生きていたんじゃないんだと気付くのです。自分にはたくさんの人がいろいろな良いことをしていてくれて、いろいろな思いを自分にかけていてくれて、いろいろな計らいをしていてくれて、その背後に神様の御手が今までずっと私に及んでいたんだということ。それをただ私が知らなかっただけだということ。私が神様が不在であると思ってしまっていただけであって、実はその間も、神様はずっと傍らに立っていてくださったのだと自覚ができたときに、多くの人たちは、自分の人生の態度を変えるわけであります。今まで不平だったものが、感謝というものに変わってくるわけです。ただ神様がそばに居賜うた、関係を持っていてくれたというだけで変わるのですが、実はもっと素晴らしいことを私たち一人一人に神様はしてくださっていたのです。それは、「神は我々のために死んだ」ということであります。十字架の上において亡くなったのであります。

 

バラバラは怖いか?

 「一粒の麦の種というものが地上に落ちて死ななければ芽が出ない」と、言われております。種が死ぬということは、農業社会では非常に当たり前なことです。種を地上に蒔くわけです。バラバラに蒔くわけです。

 先ほど私は混乱というふうに言いました。我々はこういう「狭間の時代」に進んでおりますから混乱を恐れます。バラバラになることを恐れます。孤独になることを恐れます。もしかしたら、死というのはどこまでもバラバラになること、混乱して暗さの中に入ることが死の意味であるかも知れません。もしかすると我々は本当にバラバラにならなければ死というものが理解できないのかも知れません。

 誰かが亡くなるということは、その人がもういない生活をするということです。ですから非常に悲しいことです。もはやそこにおらず、そして家族がバラバラになるかもしれません。だから我々はそれを怖がります。しかし、我々がバラバラになるということは、実はそれほど恐ろしいことなのではないのかもしれません。

 一粒一粒が、もし粒という量で考えられているとするならば、バラバラになるとまとめられませんから、非常に怖いわけです。まとまったものの量が少なくなるから、非常に怖いことです。選挙の候補者であったら、誰かに票が取られたらそれは恐ろしいことです。しかし、キリスト教に於いてバラバラになるということは、一人一人がユニークになることです。一人一人が自分の質を生きていくということなのです。

 

一人一人のユニークな存在

 キリスト教の神は唯一心であると言っています。一人の神様です。神々ではない、一人の神様、しかもそれは人格心であり、我々と人格関係を持つ神様です。これはかけがえのない一つのものなのです。この一人一人がかけがえのない一つのものであると知らされるから、力になるわけです。

 英語でhold onという言葉があります。しっかりと保つというという意味です。バラバラの人間をしっかり保つということは、統一するということではありませんし、管理するということでもありません。一つ一つのユニークな人生の中に一人の神様が入ってきて、その質を作り変えていくということです。

教会でイエスは今、ここに立ちたもうて、一つ一つを壊すことなく束ねていらっしゃるという、そういうことなのであります。ここに本当の意味の民主主義というのがあるわけです。これは我々が今、議会でやっているような、ただ量の民主主義は本当の民主主義からかけ離れたものであります。唯一の神様が働く社会というものは、一人一人の違った人生の中に、一人一人の証の中に働く、これが生ける神というものです。

 

人間の権威が崩れた先に

 先ほど旧約聖書でお読み願ったその箇所もそうです。エリアに臨んだ神の話。後で寡婦(やもめ)がいいます。「私の仕えているイスラエルの神 主は生きておられます。」と。そこへ行って、川の水を飲め、カラスが運んでくる、全く我々から見たら想像を絶する、そういう恵みというものがそこに出てきます。しかし、川の水を飲んでいる間に川の水が枯れてしまう。やっぱり駄目だったか、するとまた神の言葉が臨んで、ここの場所に行け、そこにこういう寡婦が用意されている。そしてその寡婦が言ったその言葉が、「神様が生きています」です。「神様が生きています」ということは、決して一人一人みんな同じように生きているということではないということ。自分の人生というものを本当に生きていったときに、死の中を生きていったときに、そこに神様は生きている姿を、お現しになるわけであります。

 人格神は、いつでも名前を呼ぶ神です。だから我々はお誕生日を大切にします。佐藤先生がここで一人一人の教会員の名前を呼びます。ということは一人一人の名前や顔が違うように、悩みも違い、人生も違います。しかし、あらゆるそういう多様性の中にあって、そのユニークな質というものを、このユニークな神様がhold onして、じっと束ねて握ってくれます。その質は「自ら十字架において死んだ」というその一点に収斂され、そしてその罪は「いさおし」によって全ては解放されました。「あなたがたは、この多様性の中を束縛から解き放たれて、自由に自分の信ずるように生きなさい」と。もはや、単一の一元的な権威、人間の権威というものはそれは最後のよりどころではありません。それは皆、壊れて去っていきます。そして混乱した時代が来るでしょう、今それが来ています。しかし、我々が一人の神に頼っていくときに、新しく生きて復活した神の世界が我々の目の前に出てくるわけです。

 

神の意志が働くとき

 私は大変面白いと思ったことがあります。最近、ミノルタのカメラが訴えられました。「特許を盗んだのではないか」と。私は専門家ではありませんから本当に盗んだのかどうかはわかりません。しかし裁判に敗れて190億ドルですか、それを払わなければならなくなりました。それを裁いたのはアメリカの陪審制度だったそうです。陪審制度とは、無作為に抽出した人たちによって有罪か無罪かを決めてもらうという制度です。日本ではまだそういう制度はありません。我々日本人から見ますと、何も知らない素人の人たちが、特許という非常に専門的な事柄について裁くことができるのだろうかと思います。しかし、アメリカの社会は我々とは違い、社会の中のどんな人種の人もお年寄りも女性も、普通の人が普通に判断するという、それを重んずる社会であります。ですからみんなが自分の信じるところを率直に言うことができて、一人一人が誰にも支配されずにユニークな意見を述べることができるならば、そこに神の意志が働くという原則のもとで社会というものが動かされておるわけです。これが必ずしもうまくいっているということではありませんが、しかしながら、何とかしてこの地上にもそのような神の意志が働くように、というそのアメリカの夢というものをそこに感じることができるわけであります。この背後には、本当に我々が自信を持って、力を持って、自分自身の人生というものを生きることができるようになれること、束縛されずに、散り散りになっても、隣の人と自分は違っているという不安に打ち勝って、本当に生きることができるようになるのは、そこに神様が生きて働いている。神は死んだのではなく蘇って、我々一人一人を支え、しっかりと手放さないで持っていってくれるという、その信仰からではないかというふうに思います。

 

神の賜物は永遠のいのち

 我々様々な不幸に出会います。死とか、様々な人生の悲劇とか病とか不安とか混乱とか、なぜそういうときに神様に出会えるのでしょうか? 私は、神様に出会うためにわざわざ望んでそのような場に行く必要はないと思います。しかしながら、我々は幸福な時は自分自身の力を過信しますから、見えないのです。本当に混乱してうろたえたとき、どうしようかと思ったとき、そしてさっき言ったように、自分が下にずっと沈殿していって動けなくなってしまったときに、全てが脅かされるときに、下から突き上げてくるものがあるわけです。そして、神の力っていうのはいつでも下から自分の支え、あらゆる価値というものが消滅しても、なお底から、泉のように下から支えてきます。

 安田先生と一緒にこの教会の教師としてその信仰の生涯を終えられた有賀鉄太郎先生の有名な著書に、「キリスト教思想における存在論の問題」があります。その中で「ハヤトロギア」について述べています。「ハーヤー」とはヘブル語で「ありてあるもの」「全てを存在させるもの」という意味です。自らが存在しているというだけではなくて、あらゆるものを存在させることができる唯一の創造者なる神ということ、我々が信じている神はそのような神です。「ハーヤー」というのはそういう動的な、在らせようとする意志、そして全てを在らせてしまうところの意志、そういう力として我々に臨んでくるところの神様であります。出エジプト記の3章の14節に「私はありてあるもの」と言っております。

 信仰とは、神の子の力への情熱を込めたところの皇帝であるというふうにも言えるのではないかと思います。それは決して派手ではありません。だからといって我々は不幸に陥らないということもなく、我々は混乱しないということでもありません。昨日と同じ生活の中に我々は帰ります。しかしながら、我々はそこに神は生きて働いていらっしゃるということを、心から言えるようになりたいと思います。

 今のバブル経済の「バブル(泡)」は、「全てバブル(泡)のように消える」というように大変不評判ですけれども。しかしよく考えてみますと、バブルは下からブクブクと出てきます。我々の、この束縛され何も動かないような、こんな信仰生活の一番下から、神様の泡がプツプツと湧き上がってくる時、私たちに何か新しい信仰への展望が開けていくのではないでしょうか。私たちの中で神の蘇りが発酵しているのではないかというふうに思うのです。

 

 

お祈りをいたします。

 天の父なる神様。愛する兄弟姉妹たちと、あなたの御心について考える折りを与えられまして、心から感謝いたします。ここに集った一人一人は口に出しては言いませんけれども、あなたの前に多くの過ちや、あなたを忘れる多くの誇りや、誤った自信を持って今まで生きてきたことでございます。あなたは全てそれをご存知でございます。どうか神よ。あなたの十字架と復活の「いさおし」によって、一人一人を、今一度、清め、支え、あなたの懐の中に入れていただきますように。そしてこれからの人生が、あなたが絶えず生きて、働いているという、その信仰に立った一人一人の人生であることができますように、どうか一人一人の僕をあなたが、勇気づけられんことを切に祈り、奉ります。これらの祈り、愛しまつる主イエスキリストの御名を通して御前に捧げ奉ります。アーメン