「永遠の少年」元型/女神の元型

1986年 山王出版 THE SANNO CLINICAL SERIES

 

 

 

Ⅰ部 「永遠の少年」元型

 

1 〈こども〉元型とは

 

 今日はプエール(Puer)についてお話しします。これは「少年」とか「幼児」とかいう意味のラテン語で、プェルラ(Puella)と言えば女の子です。

 

 まず、なぜプエールの問題か、〈こども〉の問題かということです。私はまだ読んでいないのですが、中村雄二郎氏が〈こども〉について『世界』(1)に書いておられます。中村先生とは箱庭療法などについてお話しましたが、同じようなことを考えておられるのだなと思います。ひとつには戦後三十数年続いてきた日本の〈こども〉神話、〈こども〉中心の文化が、ある意味で崩壊期に達していると今私は考えていて、多くの人達がそのことに興味を持っているのではないかと思います。「泣く子と地頭には勝てぬ」と言いますが、戦後の文化はある意味での〈こども〉文化でありまして、母子関係の中におけるこの〈こども〉を中心にした文化でした。それをはぐくみ育て、可愛いと思った〈こども〉であったものが、今や恐るべき〈こども〉に変質してきていまして、それが学校の暴力の問題や登校拒否など、いろんな形で末期症状を呈してきています。今やふつうの人たちは〈こども〉というのは愛すべき存在なのか、恐るべき存在なのか、なおはぐくんだほうがいいのか、はぐくめば、やがてわれわれおとなが喰われてしまうのではないか、という一種の不安に似た恐ろしさにおののいていると思います。こういうときに、そもそも 〈こども〉 とはいったい何なのか、ということを考えてみるのは非常に大切だと思います。

 

 今年のお正月、京都のドイツ文化センターで、ユングに関するある集まりでこのことを話したのですが、ちょうどその頃皆さんご記憶があるかも知れませんが、新聞紙上をにぎわした事件で、虎を飼育していた女の人のことが報道されていました。それは、この方の育てた虎がだんだん大きくなって、近所の人をひっかいたり、傷つけたりするので、虎に射殺命令が出たという事件でした。そうしましたらその女の人は、虎を座敷で飼っていたらしいのですが、それはむごいことだと言って、ものすごく泣いて、射殺に来た人に水をひっかけたりして、結局その虎は射殺されずに、どこかの動物園に生き別れでおさめられるようになったという事がありました。この話を私は大変面白いことだと思っています。ちょうどわれわれも〈こども〉を可愛がって、初めは可愛い猫だと思って育てていたら、やがてそれがいつの間にか虎になってしまった。しかし、相変わらずお母さんにとっては可愛い〈こども〉であるわけで、別れるのは惜しい、まして射殺されるのは惜しい。家庭という環境でそれを見てみると、どんなに大きくなっても可愛い猫であるわけですが、猛獣を安全に家庭の中で飼うことができるかということになると、これは明らかに何とか条令違反で罰則の対象になるわけです。すぐ射殺命令が出るわけです。これは大変考えさせられる現象です。

 

 それからもう一つ、その頃、防衛庁統合幕僚本部事務局長という、おそらく昔の参謀本部みたいなものでしょう。そこの事務局長と言えば、まさに日本の防衛の中枢の人だと思いますが、その人が自分の〈こども〉にバットで殴られて殺されてしまうという事件がありました。私は他人の不幸を面白がるわけではなく、この方にはお気の毒ですが、これは面白いと思いました。なぜかと言うと、この人は日本のために日夜防衛を考えている人です。おそらくその道の専門家でしょう。ですから大変な予算を使って防衛庁の職員を動員してやっておられる方です。しかしどんなに立派な人であっても、夜、寝る時はふつうの人と同じに非常に無防備で寝ているだろうと思います。そこを息子にバットで殴られてはひとたまりもありません。これは別の言い方をすると、権力の象徴であったり、力の中枢であったりする人間が、他の角度からみると全く無防備であるということです。 今世紀に入って二つの大きな問題があると言われ、それは解決すべくしてまだ解決されていない問題であります。ひとつはセックス「性」の問題で、もうひとつは、パワー「力」の問題です。いったい「力」は根本的にいいものか悪いものか、「力」はわれわれにとって役に立つのか、それともたたないのか、その意味はいったい何なのか。革命の問題でも、学生紛争の問題であっても、それから校内暴力の問題、青少年の暴力といった問題がどういうところから出てくるのか、なぜ出てくるのか、出てきた意味はいったい何なのか。われわれは今非常にとまどっているわけで、良いサインなのか、それとも悪いサインなのかということも分らない。

 

 私はいつもこういう考え方をするのですけれど、こういう分らない現象に出会うとき、人々の夢の中ではいったいどういうふうに出てくるのだろうかと考えてみます。〈こども〉に例をとると、夢の中に〈こども〉はしょっ中出てきます。子どもの出ない人の夢というのは珍しいくらいです。〈こども〉は夢の中でも立役者だと思います。このことについて、ユング心理学の中で書かれたものもいろいろあると思いますが、これらから必要な考え方をいくつか類型的にお話します。

 

 一番有名なのは、ユングがケレニーと一緒に書いた『神話学入門』(2)という本です。この中に幼児元型(child archetype)という章があります。この本は日本語に訳されています。正確に訳されていて間違いはありません。しかし、正確というのは必ずしも良くないのでありまして、誤解を恐れずに言うと、むしろ不正確のほうが生き生きしているというところがあるわけで、そういう意味ではちょっと惜しい訳なんです。ですから、流れるように読むということはできませんが、生き生きとした元型を呼び出して読まれると良いと思います。これはユングの重要な著作の一つです。そして〈こども〉を理解する上において、とくに幼児元型を取り扱うときに、この論文は無視することのできないものです。直接に読んでいただけたらそれで良いのですが、これは幼児元型の出てくる神話を取り扱っています。そして神話というものがいったい何であるかということを、心理学的見方から、最初にもっとも正確に、しかも生き生きと取りあげた本ではないかと思います。

 

 皆さんご承知のようにミュトス(Mythos)というのが「神話」です。「語る」という意味のレゲインという言葉とこのミュトスが結びついて、ギリシア人はミュートロギアーと呼んで、芸術と同じく、詩のように語ってきたわけです。ですから神話というものは、もともと語られることによって生き生きと人々の顔前に浮かんでくるものです。童話でもそうですけれど、「書かれる童話」もありますし、口演童話と言いまして「語られる童話」もあります。もともと、おとぎ話などは、囲炉裏ばたでおばあさんが孫たちに――そこで〈こども〉が出てくるわけですけれど――「語る」わけです。「語る」という行為の中に生き生きとして映し出されてくる、そういうものです。ただ書かれた記録とか、ただ紙による記録ではなくて、語られることによって生き生きとして踊り出てくるものです。

 

 その、語るという時には記憶をたどって語るわけです。記憶をたどって語るということは、過去のものを現在にするという意味があります。われわれは記憶を想い出すことによって過去のものを引き出してくるわけです。この想起、昔を「想い起こす」ということは、人間の非常に大切な行為でありまして、「自分がかつて何であったか」「どんな〈こども〉であったか」「どんなに生きてきたか」「どういうふうに生まれたか」、あるいは個人ばかりでなく、自分の属している民族は「どういうふうに出てきたのか」「どういう危険を通って今の土地に来たのか」、そういうことを想起し、語っていくということです。夢の分析はある意味では、患者の語っている過去のことを聴くわけですけれど、聴くということは、相手は自分の「過去」をロを通して私に「語る」ことによって「過去を現在化」している、そして生きた元型として私の目の前で語っているということになります。ですから夢の分析はある意味で、メモリア=記憶の想起ということに関連しているわけです。

 

 私の分析家のヒルマンの言葉の中で(3)、「フロイトは人間の幼児期を分析したのではなく、分析者によって患者の〈こども〉を呼び出したのだ」とか、「彼は患者の記憶の中で生まれている〈こども〉を治療したのだ」という言葉があります。われわれがフロイトを書物で読む時、彼は、口愛期とか肛門期とか、そういう時期をひとつの概念として展開したようにみえますが、実際に彼が分析室で何を相手にしたかというと、患者の記憶の中に生きている「過去」という患者の〈こども〉を取り扱ったわけです。その〈こども〉が病んでいるわけです。その〈こども〉を想起させることによって、彼は治療しようとしたわけです。語ることによって、さらに生き生きとした 〈こども〉にしていくということです。だから死んだ過去をただ取り扱っているのではなく、患者の中の〈こども〉を語らせることによって、もう一度生き生きと生き返らせるということです。そして患者の中の〈こども〉とはいったい何かと言うと、これは彼の過去であります。なぜなら彼は〈こども〉から育ってきたわけです。われわれが自分の過去を語るとき、それは千九百何年でありましたとか、昭和何年でありましたとか、そういう語り方もあるかもしれませんが、その昭和何年というのが何かと言うと、自分が〈こども〉であったということです。ですから自分の〈こども〉を想起するということは自分の過去を語ることであり、自分の〈こども〉を顔前に映し出すことです。

 

 ところで、私は長い間、患者さんの語る夢の中の〈こども〉 とか、自分の夢の中の〈こども〉で分らないことがありました。それは、発達しないで異様な姿で〈こども〉が出てくることがあるのです。いわゆる童話の中に出てくる「こびと」です。時だけ経って発達していない〈こども〉、目がつぶれていたり、頭がぶよぶよだったり、この世の物ならぬ、いわゆる満足な形をしていない子どもが夢の中にはよく出てきます。その人の内なる子ども(Innercbild)が生き生きとして立派な形をとって出てくることもありますし、また、傷ついて、血が出ていたり、疲れはてていたり、あるいは成長しなかったり、異様とも思える異形をとって出てくる場合もあります。なぜこんな自分が出てくるのだろうかと思いました。私はそんな過去を持ったこともないし、そういう目に合ったこともないのに、なぜこういう〈こども〉が出てくるのだろうと思いました。ところがよく考えてみると、これは現在の自分、その今におけるところの「過去」なんです。自分が「過去」をどう見ているか、どういうふうに想起しているか、「自分の中の過去」がどうであるのかということです。多くの場合、夢の分析で、過去が良かったとか過去が素晴らしかったと言う人はごくまれです。いかに自分が過去にひどい取り扱いを受けていたか、心理的にどんな傷を自分が持っていたかを語ります。しかもその傷が過去ではおさまらずにその影を現在に引きずってきている、影響している。そして今なお傷口から血が出ていると言います。ですから夢の中で、本当に血を出した〈こども〉が恐い顔で私を睨みつけたり、私に助けを求めたり、私に何かを乞うたりする形で出てきますと、私は非常にショックを受けるということになります。

 

 そういう時、自分の「過去」をどれだけ喜んで受け入れているかどうか反省します。皆さんの中に自分の中の〈こども〉がいるとしたら、その過去を嬉しかった過去として受けとっているでしょうか。それとも、「こんちきしょうめ! あんな過去がありやがって。母親が生まなかったらこんなことにならなかった、ずいぶんひどい目に会ったもんだ」と思って、自分の〈こども〉を恨んで、あるいは放棄して、捨てて放たらかしにしているでしょうか。ある人はたえず過去をぬぎ捨て、現在だけをとって生きていく人もいます。そういう人が夢をみると、過去が追いかけて来るんですね。私の患者さんにそういう人がいました。立派な職業について、そしてもう今は過去をぬぎ捨てて、現在だけに生きているという人です。この人の夢には反対に過去ばかり出てきます。しかも血を流した〈こども〉が追いかけてくる。その人にあたかも想い出してくれと言わんばかりです。「お前さんが捨てたお前の過去は、今お前を追いかけているのだ、だから私を認めてくれ」と言っている。その人はこれを大変意外に思って、非常にびっくりしまして、それからは自分の過去についてしゃべるようになりましたし、記憶をたどりながら、その過去は「自分にとって今どんな意味があるか」ということを語り始めました。そのように過去と現在との統合が始まっていきますと、不思議なことに夢はどんどん変わっていきます。その傷口がなおったり、一寸法師の打手の小槌のように、小さかったものが急に大きくなったりするわけです。そういう形の変化を私は興味深く見ています。それが、私が幼児元型というものに興味をもち、今でも、あらゆる人の夢や自分の夢の中に〈こども〉元型が出てくると興味深く見ている理由です。

 

 しかし〈こども〉というのは面白いことに、過去であると同時に「未来」であるんですね.「私の子ども」と言う場合、私が持っていた「私の子ども時代」というものと、私が今持っていて「育ちつつある私の子ども」、これは私の未来です。そういう両方の意味があります。ですから私は自分の息子と話をすることに非常に興味を持ちます。彼は彼で私とは異なるけれど、同時に小さな私をもっている。私が鼻をほじると彼も鼻をほじって、私の家内から叱られている。それを見ると本当によく自分に似ていると思います。テレビを私が寝そべって見ていると、彼も足をくんで寝そべって見ているわけです。まったく私と同じものを息子に見るわけです。息子も無意識でやっているわけです。しかし、私の未来は私の息子の中に出てくるわけです。よく隠語で、ペニスのことをジュニアと言います。それはなぜかと言うと、性行為を通して出てきた〈こども〉は私の未来であるから、そういう形で自分の過去との継続性を子どもで表現すると同時に、未来に対する継続性を〈こども〉で見ているわけです。たとえば、子どもの教育とか、青少年の教育と言う時に、そういうような〈こども〉の教育を離れて日本の未来はありませんし、だから時々おとなは夢中になるわけです。その国の〈こども〉を見たらその国の将来がわかる。今の〈こども〉が礼儀を守らなかったり、あるいは活力がなくなっていたなら、この国にはもはや未来はないという形です。ですから〈こども〉という元型は、最初の源という始源と終末との両方が一致した元型として出てくるわけです。

 

 以上は、ユングの論文の中に出てくるものを、自分の経験を通して説明しただけですけれども、それを夢分析の中に見ていきますと、夢の中で〈こども〉が生まれたり、成長したり、その人の今まで持っていなかった可能性がその中で生まれてきて、それが成長していく。そうすると分析ほ、その人の未来というものを、その〈こども〉元型を通して象徴化された形で、われわれに見せてくれる働きをするということになります。だから〈こども〉は過去であると同時に未来である。その両方を統一したものとして元型が出てくるということです。この一例をとっても、夢分析の中では、幼児元型が非常に大切なものであるということがよくお分りになったと思います。

 

2.パトスとポトス

 

 今日私はパトス(pathos)という言葉と、ポトス(pothos)という言葉と、二つの概念を使いながら話をしていきたいと思います。

 

 パソロジー(pathology)という言葉を皆さんご存知だと思います。パソロジーと言う時は「治療」という意味です。これはパトスという言葉から釆ているわけで、字引きをひくと、アクシデント インシデント、チャンスなど、要するに外側から侵入してくるものを言います。われわれがカウンセリングや夢の分析をするときに、それ全体が一つの魂の治療になるわけですが、その治癒につながるものの原因、あるいは力がどこから来るのかというと、じつはよく分りません。われわれが一生懸命やっているときに、ここから来るであろうと思っているところからは釆ないで、とんでもないところから来ます。あたかも侵入してくるように起こります。奇蹟として経験されることもありますけれども、皆さんもそういう経験をたくさんもっているだろうなあと思います。私はそういう時、パソロジー=治療学というものは、たしかに治療する側がある種の開かれた態度を持っているときに、外側から侵入してくるものだと思います。このパトスもある意味で、神話とともに考えると面白いと思います。まず、神話とはなんでしょうか? 前述の論文の中でケレニーも言っていますし、またいろいろな人がこれを引用していますので述べてみましょう。

 

 神話というものは「なぜ」ということには答えないで、「どこから」ということに答えるものです。「なぜ」という原因には答えないわけです。ですからよく天地創造の神話とか、男と女がどうしてできたかとか、いろいろな神話がありますが、多くの人は誤解しています。私は宗教の世界におりますから、よく子ども達から、「光あれ」と言ったら光ができたとか、あるいは神様が世界を創ったとかいうのは嘘ではないか、学校では進化論を習っていますから、生物はアミーバから出てきて……といった話をされます。そして、子どもはある年齢になると神話を全部捨ててしまって、自然科学――これも一つの神話です――の中に入っていくわけです。しかし、世界の原因を神話が説明していると考えるから間違いないのでありまして、神話は「なぜ」という言葉を使いますが、科学のように、原因があってその結果が出てきたという形で言っているのではなくて、「なぜ」ここのところにいるのか、「なぜ」どこに由来してきたのかということを言っているのです。ですから、そういう目で丹念に日本の神話を読んでみますと、荒唐無形なところもありますが、このような神話を通して、日本民族はなぜ今ここに来ているのかということが語られています。また、イスラエル民族はなぜカナンの地に住んだか、エジプトからどのようにしてモーゼにひきいられてきたか、どんなに人間が悪いことをしたときにノアが箱舟を作って、どうやって自分達は助かって神の恵みを授かったか、だからそれに対して今どう応えるのか、こういうことを祭儀を通して、お父さんが〈こども〉に聞かせるという儀式的形式の中で、ずっと神話が守られて来ているわけです。

 

 私は夢の分析というのは、ある意味で「個人の神話」を発見させることが目的ではないかと思います。われわれは今、神話の栄えている時代には住んでいません。神話は一昔前に栄えて、今、否定的に考えられていまして、われわれはもはやギリシア時代のように統一的神話というものをもっていません。ですから、どこから来たか、どこへ行くのか、今何のためにここにいるのかというのが分らない時代の中にいるわけです。私は大学で教えていますから、いつも若い人達に囲まれているのですけれど、酒でも飲むとすぐ「お前、どっから来たんだ、そしてどっちに行くんだ」と聞くと、学生は「先生、何を聞いているんです」「いやどっちから来てどっちに行くんだ」「先生、あっちから来てむこうへ行くんですよ」「よし、そんならそれでもいい」といったやりとりをしています。青森県から来て京都へ就職するんだったらそれでもいい、しかし、そういう方向づけすらも分らなくなって、どこから来たか、どこへ行くのか、今どこにいるのか、そういう宇宙の軸というものが全然分らない、そういう現代人がたくさんいます。

 

 われわれが治療をしていく時、ある意味で、われわれはその人の心理的宇宙の創造に参画しているわけです。その人の「住むべき宇宙空間」というものを、その人が作っていくその創造過程に参画しているわけです。ある人は自分の家の神話というものの中に自分の生きる道を発見する場合もあります。それによってどこから来て、しからば私はどこへ行ったらいいかということを見つけていく。基礎づける(Begrundung)と言いますか、この基礎づけのために想起しなければならないことがたくさんあります。出生の秘密であるとか、自分の名前はどんな由来なのか、どういう宗教的環境に自分は生まれたのか、どういう期待をお母さんがもっていたのか、どういう兄弟たちと、何番目に生まれて、どういう〈こども〉時代を送ったのか。そういう存在の意味づけを教えていく、あるいは一緒に学んでいくということになるのではないかと思います。

 

 私はそういう人達に、自分の歌を歌うということがものすごく大切だとよく言います。自分の無意識の中にある自分が演ずべき今働いている元型というものをどういうふうに発見するか、その発見を助けていくことが大切だと思います。元型には一つだけの筋道があるように思えますけれども、ギリシア神話を読むとそうではないことにいつも気づきます。ゼウスの話が途中からへラの話になっていたり、他の人の話になっていたりして、いったいゼウスの話はどこまでだろうといつも思います。キリシア・ローマ辞典などをひいてみても、書物によって説明が違いますし、いろいろ変形がありますし、どこからどこまでが初めで終わりなのかということさえ分らない。いつのまにか他の物語の中に入っていく。われわれの人生もまた同じでありまして、同じ事件、同じ出来事を、他の筋道から、たとえば父なら父、母なら母という筋道から見てみると別の解釈ができるし、こちらかちみるとまた別に解釈できる、そういうものが元型だと私は思います。そして、どちらからも解釈できるけれども、やはり一つの大きなパターンというものがありまして、これを見つけていくこと、今自分が演じている元型、自分の歌が何かを見つけていくことが大切です。「オルフェイスの首」が、私は大変好きです。最後に首を切り落とされてもなお自分の歌を歌っている。ここまで自分の歌を発見できれば、これはたいしたものだと思います。死んでも歌う、自分の人生を生ききる。これは俺の人生だ、俺はこのように生きていて、こういうふうに俺の歌を歌っている。首を切り落とされ、地上から足が離れてもなおちゃんと歌っている、これはたいしたものだと思います。人生にはいろいろな「事実」があります。しかし、ただ「事実」だけを追って人生というものはおくっていかれない。「事実」というものは、一つ一つの「出来事」になっていく。「出来事」というのはいつでも「意味」で着色されているわけです。自分がここにいるという「事実」はどんな意味があるか、自分がこれからやっていくことにはどういう意味があるのか。これはこよなく「神話的行為」でありまして、何回も何回も自分について自分が語る。アポロンのように、その神話をただ語るというのではなく、本当に意味をつけて語るということは心から歌うということです。

 

 先程の話に戻りますと、分析というのは非常に「神話的な行為」でありますし、その人自身の神話を発見して、それを生きさせていくということではないかということですが、もちろんすべての人が自分の神話を発見できるわけではありませんし、他人の神話とか、いろいろなものとの間に入り組んだ道筋がありまして、そう簡単に大きなパターンに従っていれば良いというわけでもありません。ただそう考えて、私はスイスから帰って多くの人達を分析してきたわけです。その中で言えることは、元型は他にもたくさんありますけれど、この幼児元型を見つけていくことは、多くの人達にとって大切な仕事であったと思います。なぜかと言いますと、ちょうどこれが、外の社会的移り変わりと非常に対応しているからです。皆さんご承知のように、たとえば河合先生が「母性社会の病理」(4)という形で戦後社会をくくっていますが、これはある意味で、母性というものの豊饒性を基礎とした社会を問題にしたことです。子どもが育ちすぎ、繁栄しすぎた時代です。私は日本は心理的に言えば、ある意味で今だに農業社会だと思いますけれど、現在は技術的高度工業社会という姿をとっています。しかし人間の心という観点から見ると、こういう豊饒性はかつて日本が、たとえば弥生時代にもっていた、長い間培ってきた母性文化によるところの豊饒性が高度技術文明になって現れているのではないかと思います。たとえばアフリカのどんな場所にも大阪商人がゴム靴をはいて商売に行きます。アラブであっても、イスラエルであってもどちらでも構わない。そういう原則に全くとらわれずに入っていく、水が参み入るように侵入していく、これはなんでしょうか。たとえばヨーロッパからみたら突然日本の自動車がたくさん入ってきて、安い値段で、しかも優秀である。いつの間に作ったのだろう・・・・・・このような戦後日本の豊饒性というものは、ヨーロッパの父性文化にはなかった、全く東洋的な新しいものと感ぜられるはずだと思います。ですからそういう意味では戦後の日本文化は、母と子の系列の中の豊饒性に支えられていたと思います。 

 

ところがこれには、コインに裏表があるのと同じでして、良い意味ではたしかに穀物は育ちますし、〈こども〉は成長するわけですけれども、反対に、母を殺すとか、母の豊饒性が圧迫になって子どもが育たないといった側面、あるいは生んだこどもをネガティブ・マザー(否定的な母)、つまり鬼子母神のように食べてしまう、そういう面が今出てきているわけです。この間題は、どのようにそれを子どもが統合して親から独立していくかの問題です。これは今たくさんの心理学者が考えていることです。

 

3 〈こども〉と〈老人〉

 私は最近、ユング心理学の観点から考えていることがもう一つあります。幼児元型の問題と関連して、これを話題にしてみたいと思います。

 

 ユングの心理学の歴史をみますと、私は三つの時代に分かれると思います。一つはユング自身が分析心理学をつくったユング自身の世代。次はユングの弟子たちの時代、ノイマン等に代表される第二世代です。もうひとつは孫弟子たちの時代。この三つの時代に分かれるのではないかと思います。そしてこの幼児元型を問題にするとき、ユング自身は自我というものを幼児元型としてよく書いています。その次、ノイマンの時代に入りますと、エゴ(自我)ばかりでなく「女性的意識」(5)ということを言います。これは西洋的エゴばかりでなく、エゴとは違う女性的な意識の問題です。ところがその次のヒルマンとか、グッゲンビュールとかシュピーゲルマンらの時代に入ってきますと、ヒルマンを例にとりますと、ドリーム・エゴということを言い始めます。これは通常のエゴとは違いまして、一神教の系列ではなく、もっと多神教の系列の中で見ている考え方です。その中で彼が具体的に出したのは、プエール(Puer)とセネックス(Senex)という考えです。つまり、少年を老人との対で考えるわけです。グッゲンビュールはこれを「分裂した元型」という形で見ています。

 

 それでは、今何が起こっているかということになるわけですが、はっきり言いますと、ユングとその次のノイマンの時代は、ある意味では英雄神が問題であった時代です。英雄としての童児神、つまり神的な〈こども〉が問題になった時代です。ノイマンが書いた『意識の起源史』(6)は、いかにウロボロスの中から英雄神――これが意識であるしエゴであるわけです――が出てきて、これがどういうふうに母を殺して自我を確立していくか、その過程をたどったものです。ところが、これとはもう一つ違うプエールの問題が出てきているのです。プエル・エテルヌス(Puer Eternus;永遠の少年)という考えです.もちろんこれも英雄神なのですが、少年と老人という脈絡から出てきています.もっとほっきり言いますと、母親を殺さない少年の個性化と言いますか、イニシエーションというものもあるのではないかと考えています。われわれはすぐ西洋の心理学の受け売りをしまして、母親と対決しなければならない、とくに男の子は母親を殺して自立しなければならないというように図式的に考えていきますけれども、実際の子どもはすべて英雄というわけではありません。ちゃんと育った子どもの中には、必ずしも母親と対決しないでもイニシエートされていく子どももいるわけですし、すべての〈こども〉にそういうことを要求することはできないわけです。また、する必要もないのではないか、一元的に神的な子どもの英雄神の元型だけが唯一の元型であると思うことによって、われわれは指導を誤ったり、ある人のイニシエーションを間違った方向にもっていくことがあるように思えるわけです。別の言葉で言いますと、すべてを母と子の関係というもので見てはならない。そして母は子に対して、ときに強過ぎますし、熱過ぎ、あるいは近過ぎるわけです。イニシエーションを考えるときにいつでも、母は子に対してあまりにも期待を抱き過ぎますし、子は母親に対してあまりにも全的に、あまりにも力いっぱいすべてをかけ、生き死にをかけすぎるという側面があります。なる程これは英雄神の一つの性格です.英雄神はイニシエーションに失敗すれば殺されて、一人の英雄が残るためにたくさんの英雄が殺されるという形をとるわけです。ここに今の日本の母子関係の一つの問題点があるのではないでしょうか。たしかに世間には子どもはたくさんいますが、しかし親にとっては自分の子しかないわけで、自分の〈こども〉は母にとってはいつも英雄であるわけです。そういう目で育てられた子どもは、たえず英雄としてふるまわなければならないし、そして世界を手に入れなければならないし、母の全部を相手にしてきり結ばなければならないという形になります。

 

 ところがそうではない、生き死にをかけない関係というものがあるはずです。ナース(nurse;養い親)、養母の思想というものがあるはずです。英雄神も必ず一回は捨てられます。この場合、本当の母親に育てられるのではなく、拾った母親が育てるわけです。看護婦とか、保母さんだとか、継母だとか、あるいは学校の先生だとか、こういう血をわけない、すなわち、その人にとって必ずしも生き死にをかけない、もう少し遠くの、もう少し冷たい、もう少し距離をおいた、そういう閑係の人間です。ときに、〈こども〉は血をわけた親が親としての機能をしなくなるときには捨てられます。その捨てられた〈こども〉は誰によって育てられるかというと、自然に育てられるのですね。野の獣であったり、あるいは山羊の乳で育てられたり、あるいは野山に育てられるということがあります。自然すらはぐくみの母となるということです。こういう面があるのであって、プエールとセネックスほいつも対です。〈こども〉は老人を必要とするし、老人は〈こども〉を必要とします。両方のニードがあったとき、両方が補完され、完成されていくわけです。

 

 なぜユングが最初に英雄神をとりあげたか。先程の本の中では、この童児神は英雄神として取り扱っているわけです。なぜかと言うと、私は、ユングの生まれた時代と今のわれわれの時代とは少し違うのであって、その差を考慮しなければならないと思います。ご存知のように17世紀は合理主義の時代です。そして18世紀にいたって自然科学主義が台頭して近代が完成します。ところが完成したあとで、アリストテレス主義と言われる、アリストテレス的な考えが全体を支配するわけですけれども、ヨーロッパの歴史にはこのアリストテレス系列とプラトン系列とが交互に出てきます。その反動として、19世紀というロマンティックの時代がきます。プラトン主義復興の時代です。ユングが生まれて少年時代をおくったのは19世紀の末です。19世紀というのはロマンティックの時代です。ロマンティシズムというと、われわれはすぐ文芸的なものだけを理解しようとしますが、たとえばゲーテ、シラーの詩などを見ていこうとしますが、じつは哲学にも影響があったし、精神医学にも影響があったし、いろいろなところに影響があるわけです。これをひとことで言いますと、人間性の、あるいは自然の光と影の両方を見ようとする、そういう時代なんです。面白いのはこのロマンティックの時代は英雄の時代なんです。ギリシアがもう一度ヨーロッパに姿を現す時代です。ですからユングが書いたものの中にギリシア神話も数多く登場します。ロマンティックな時代のものは、シラーの詩であろうと他の絵画や文芸でもみなギリシア神話に題材をとって復活してくる。近代国家成立の最初の領主たちの庇護のもとに、こういうロマンティシズムが出てくるのです。

 

 ところが面白いのは、アメリカはそのロマンティシズムの時代を持っていないわけです。そこを素通りしているわけです。17世紀から18世紀にあった科学主義、機能主義というものがアメリカに伝えられて、その反動を経験していないわけです。ですから心理学の本を読むときいつでも大変面白く思うのは、アメリカの心理学はみな機能主義、それからある種の科学主義をとっています。光と影とか、とくに影なんていうことは何も言いません。ローマン主義の反動を経ずに機能主義になってしまったために、彼らは反対に、変な意味の道徳主義にすぐ陥ってしまうわけです(7)。ですから現在アメリカは、反動で、啓蒙主義やそういう時代のロマンティシズムを何らかの形で教えてくれるユング的な心理学を急速に吸収しているように私には思えるわけです。

 

それに比して日本はどうであったかと言うと、私は、日本のロマンティシズムは大正末期から昭和にかけて、ある程度吸収したと思います。とくに文芸の面では、ロマンティシズムはかなり花咲いたわけです。ですからある意味で日本人とフランス人、日本人とドイツ人は、アメリカ人とはまた違って非常に親近性を持ち、ロマンティシズム的な通い合いがある。ただし、すぐに戦争に入ってしまいましたから、充分にそれが花咲かなかったわけです。 そのロマンティシズムのエッセンスとはいったい何なのかと言いますと、それは英雄であります。英雄は自分の影、悪魔的なものといかに対決するかということが第一の課題です。第二は人間の中に神的なものを見ます。出てくる人間はすべて半分神様、半分人間です。ですからユング心理学を読むと、宗教的なものとか、神的なものが出てくるケースがあります。この世に生まれてきたものであるけれど、半分ある種の神的なものを持った、そういう人物です。そしてまた、そこのところが好きな人は大変好きですし、嫌いな人はそれは心理学ではない、あまりにも神秘的である、あまりにも哲学的であるといって斥けるわけです。ですから言えることほ、ユングが生まれてきたのは、ヨーロッパの英雄時代の最後ではないでしょうか。そういう意味では、彼は19世紀の子でありましたし、20世紀というものを距離をおいて見ていたわけです。ですから20世紀全体が持っているところの影をちゃんと知っていたと言うことができるのではないかと思います。

 

 それに反して、アメリカはそういう時代を通っていませんから、かえって道徳主義の仮面をかぶって、その内に持っているところのアメリカン・シャドーというものが全く無意識になってしまっている。ですから、アメリカ人が行くところどこでも、彼自身は気付いていないところのシャドー・パワー(影のカ)をまき散らしていて、いたずらにいろいろな形の混乱を引き起こしている、と私には思えるわけです。ある意味ではこの20世紀はアメリカの世紀でありましたし、彼らはまだまだ若いつもりでおります。そして、これからもいろいろな行動を起こすだろうと思いますけれども、このロマンティシズムは、今度はアメリカの世紀から違う英雄の時代へ、たとえば19世紀が英雄の時代であったなら、アメリカは大衆の時代であるわけですけれど、さらに21世紀は東洋の近代的自我とは一味違った別の形の無意識の時代に入っていくと私は見ているわけです。

 

 そこで時代の様々な現象が今出てきていまして、その一つが老人と少年であります。ヒルマンの論文の中に「セネックスとプエール」という章があります。そこで英雄という概念からもっと広げた意味の、いったい現代文化の中の子どもというものは何か、ということを展開しているわけです。

 

 これまでのところは、今までの〈こども〉論のレヴューでして、これからいよいよプエール論に入っていきます。

 

 

4 若者の脆弱性

 最近よく「若者文化」と言いますね。若者文化といったものは昔からあったように思いますが、実はそうではないんですね。たとえば今は、児童文学とか子供服、子供用玩具、小児科、幼稚園、子供用品売場など、〈こども〉を特殊のジャンルとして考えますが、中世では子供服なんてものはなくて、ただおとなのを小さくしたものを着せておくだけで、〈こども〉というものをそれほど特別視していません。労働もおとなと同じ労働を課しています。ところが自然主義、ロマンティシズムの時代に入って、ルソーやペスタロッチなどの運動によって、子どもが特別視されてきたわけです。

 

 なぜ特別視されたかと言うと、おとなは自分のノスタルジアをもって〈こども〉を見つめているわけです。先日も家の近くで、お母さんとお子さんが全く同じファッションで、二人並んで歩いているのをみかけました。これを見て私は、おとながノスタルジアをもって自分の過ぎ去ってしまった過去を見る、そういう時に〈こども〉を特別視するのではないかと思いました。そして、〈こども〉というのは何でも素晴らしいと栄光化してしまう。ですから〈こども〉という概念がつくられてきたルソーやペスタロッチの、いわゆる幼稚園が発達してくる時代には、〈こども〉のいい面だけを見ようとしていたわけです。〈こども〉は天使のようであるとか、ちょうど多くの人が、昔はよかった、子どもの時はすべてがよかったと見る見方と同じです。ところが学校の先生ならご存知と思いますが、子どもは天使でもなんでもありません。未熟で、野蛮で、天才で、気まぐれで、芸術的な、そういう生きものです。

 

 フロイトはある意味で、やはりこの考え方の影響を受けていたと思います。子どもに優先性を与えたということが、私はフロイトのひとつの慧眼ではないかと思っています。彼は子ども時代を特別に大事にしました。そしてすべては3歳までに決定すると言います。不安の根源とか、性的欲求とか、憎悪とか、拒否とか、みな〈こども〉の中に見ていったわけです。フロイトが偉大であったのは、私は〈こども〉というもの、それも両親が亡くなってしまって捨てられていた、そしてそれまで顧みられなかったいわば「孤児」をもう一度拾いあげたことであったと思います。一番先に言いました患者の中の〈こども〉、それが捨てられていた場合に、彼はそれをもう一度きちんと拾いなおした人と言えるのではないかと思います。

 

 ヒルマンはドリーム・エゴ(夢の主人公)という言葉を使います。夢の分析をする場合、赤ん坊が出てきたり、いろいろなことがありますけれども、いったい自分がどこに同一化しているのかと問います。もちろん、老人も出てくるし、いろいろな人間が出てきますが、どれも自分のパーソナリティの一部で、ある程度は同一化するわけですけれども、どこに自分のエゴが同一化するかを重要視します。その時にドリーム・エゴというものと、それを育てる人(ドリーマー)があるわけでして、この両者の対が問題になる。その全体性、両者の統一が問題になるわけです。面白いのは、ヒルマンはたとえば、英雄神話の時には一度英雄は両親によって遺棄されるということを強調します。捨てられるということは非常な苦しみであり、悲しみであるかもしれないけれど、元型とすれば両面でありまして、これは自立への第一歩でもあるわけです。遺棄されることによって自立が始まるわけです。ですから、遺棄イコール自立ということになるわけです。

 

 現代の少年を見ますと、たとえば穴から出たての〈こども〉という感じがします。顔に泥を塗っていて、今まで暗い穴ぐらにいたのが出てくる、すなわち、自立してくる。ヒルマンの使う言葉で「欲せられていない子」というのがあります。自分は誰にも欲せられていない(un-Wanted)、自分は誰にも受け入れられていない、つまり覆面をし、あの赤へルをかぶって出てくる学生ですね。私は彼らの覆面の中に、この社会から自分は欲せられていないという姿を表しているのを見ます。それから、可愛らしくない(unlovable)、醜い姿、きたない姿、また巨大な望みをもって出てくるものでもあります。自立の最初の段階はこういう形です。投棄性と言いますか、遺棄性と言いますか、そういう形として出てきます。たとえば、彼らは絶えず言います。自分たちは管理社会に組み込まれてしまう運命にある。だから自分達はそれを拒否するのである、と。拒否する姿勢の中には、自立への第一歩があります。

 

そして可能性だけに生きていこうとします。

 

 若者はしばしば次のように言うことがあります。ヒルマンのあげるアメリカの若者は、help,please help me(助けて、どうぞわたしを助けて)、take me,just as I am(そのようにわたしを受けとって)、no judgement,hold me(裁かないで、わたしを抱いて)、don’t go away;never live me alone(あなたどこにも行かないで、決してわたしをひとりにしないで)、teach me,show me what to do(教えてね、どうしたらよいか知らせて)、tell me how(どうしたらよいの)、let me alone,all alone;just let me be(ひとりにしてね、ほっておいて、ひとりになりたいの)こういうように言います。これは典型的に今の若者の遺棄性と自立性をあらわしています。この泣き声にも似たものは、赤ん坊がちょうど遺棄された時のように、不安も入っているでしょうし、助けを乞うのも入っているでしょうし、あらゆるものが全部入っていて、そして決して癒されることのない泣き、そういう形をとっています。最近、エターナル・ヴルネラビリティ(eternal vulnerability)という言葉をよく聞きます。ヴルネラビリティというのは脆弱性、弱さを見せることです。若者の強さというものの中にいつでもこの脆弱性を見るわけです。ひげをはやした怒れる若者もおります。一見非常に強そうに見えますが、その底にはちょっと押せば傷つくだけのヴルネラビリティを持っているわけです。

 

 人類学老の山口昌男氏は、こういう日常の狂暴性に対して若者の皆殺しにあう脆弱牲というものを見ています(8)。よく学生運動でヘルメットをかぶりますが、彼らは最初からこのヘルメットは自分の身を守るためにかぶると言います。つまり、攻撃性のシンボルではなくて、脆弱性のシンボルであると考えていたふしがありました。おとなは初めこのヘルメットをあたかも攻撃性のシンボルと見ていたわけですが、実はそうではないわけですね。私の大学では、学生運動は今でも盛んでありますけれども、一時ヘルメットをかぶらなくなった時代がありました。最近またかぶるんですけれど、ある先生は、彼らの何にでも同情できるんだが、どうしても、あの覆面してヘルメットをかぶる姿は暴力を象徴しているようで嫌いだ、非人格的になるからやめてくれと強く言いまして、ついにヘルメットをかぶらせなかった。かぶらなかったら多少は目をつぶるという雰囲気もあったのですが、ところがこれはかわいそうなんですね。かぶらないと本当に格好がつかない。どんな顔をしていいか全然わからない。かぶるとちゃんとさまになるわけです。私はそれを見ていて、一見強そうに見える中に、彼らは若者としての脆弱性を持っているんだということを感じました。

 

 それに比べるとセネックスは老人です、時間性です。プエールは時間を超えたもの、永遠性です。われわれは彼らの運動を体制に対するアンチ体制として時間の中の闘いと見るんですけれど、じつは時間の中の両者の闘いではなく、時間を超越したところからの時間に対する闘いであるわけです。ですから彼らは逃げると時間外に出て行ってしまうわけです。時間の中に自分の身を置くということは、もうすでに敗北となるわけです。ですから、われわれがテーブルにつかせて、そして何かを妥協でもって決めようとすると、彼らは1センチでも譲れば、あるいは1円でも手にとれば、それは自分の魂に対する違反になりますし、犯されたことになるかのようにそれを拒否します。ですから、彼らの運動は常に敗北しかないわけでして、また敗北は何も恐れることではなくて、敗北のために闘っているという形をとるわけです。それはセネックス、時間からみたら全くおかしなことで、全く理解できないことです。「なぜ彼らはそういうことをやっているか」「なぜあんなに愛されたくない顔をして出てくるのか」「なぜあんなにきたならしい格好をして出てくるのか」それがよく分らない。ところがご承知のように、この二つの原理はお互いに分裂しているものです。セネックスでないものをプエールと言って、プエールでないものをセネックスと言うわけですから、全くお互いに理解し得ないのも当り前です。

 

 ところがじつは、こういうふうにお互いに相対しながら、鷹と鷹匠、羊と羊飼い、それから〈こども〉と養母の関係のように、庇護者、守護神というものがどうしても必要になってくるわけです。先程も言いましたように、母というものが、その息子に対して自分の生き死にをすべて賭けてくる時に、そこから逃げてしまう時に、もう一つ別の第二の母というものが出てくるのであって、その時、山川草木とか、動物とか、自然がそれに対して働きます。今、〈こども〉を育てるのにミルクで育てます。これはもともと牛の乳であるわけですね。牛乳で育てるというのは非常に象徴的なことです。母親が育てられなくなれば、動物が変わってそれを育てるということです。分析者とか治療者は、ある意味で第二の母の役目をします。ふつうの血の繋がっているところの育むものが機能を発揮しえない時に、そういう異常な時に、変わってナースリーする、ケアーする、そういうものとして働くのではないかと思います。

 

 このセネックスは二つの側面、いい側面と悪い側面を持っていまして、今話しているのはセネックスの時間といういい側面です。〈こども〉は可能性、精神性、自発性の存在で、無垢であって生き生きとしていて、神的であるわけですが、このままでは時間の中で生きていかれないわけです。ですからセネックスが彼に肉体を与えて、地上で生きられるように援助していくわけです。

 

 学生運動が非常に華やかな時、それから今また校内暴力が中学生・小学生の中で盛んですが、こういう時に、枠に対する反応というものが非常に強く出てきます。たとえば箱庭療法で使う箱の中には、ちゃんと粋があって砂がもられているわけですが、粋がちゃんとあるのにも関わらず、さらに垣根や柵で二重、三重に囲う人がいます。あるいは枠を出て、床にまではみ出て作るような子どもがたくさん出てきます。あるいは中学生でも、「制服を着なければいけないのか」「髪の毛はどの位長いのがいいか」「何日休んでも進級できるか」、規則という枠に反応するわけです。なぜこの粋が問題になるかと言うと、彼の体が問題であるし、体ということは時間が問題でありますし、その歴史性と言いますか、時間性が問題になります。超時間的な神的存在が、やがて地上という時間の中に身を横たえるその準備として、どういう枠の中に自分が入っていくが。これをインカネーション(incarnation)、身托とも受肉とも言いますけれども、その肉体を受ける行為であります。それに失敗すれば、魂というものは、また地上を離れて遠くにとび去っていってしまうわけです。このイニシエーションを見守る箱庭療法をやる人間がいて、この人をイニシエーターと私は呼んでいます。彼は箱庭の枠をもっと拡げたり、狭めたり、柵を出たり入ったりしながら、しかも殺されずに、ちゃんと自分の守られた空間を守らせるようにするという大切な仕事をもつわけです。

 

 セネックスにもネガティヴな側面があります。これを、クロノス・サタン・アーキタイブ(chronos-Satan-archetype)と呼んでいます。クロノスというのは時間、サタンは土星です。土星は悪い星と考えられますし、非常に冷たい星です。しかも地球から遠い星ですね。冷たく、遠い存在です.たとえば私が教師をしていますと、学生達には年寄りですから、いつでもセネックスの役割を果たすわけです。学生達が私に投射してくるイメージは、冷たくて遠い存在ですね。年とった王様です。老王の病気はいったい何かと言うと、〈こども〉を失うことです。〈こども〉を殺してしまうことです。固定して変化しない考えで、若い人に「これが自立である」とか、「これが世の中の常識である」とか、「職に就いた者は何時に出勤しなければならない」とか、「これが世の中のしきたりである」というふうに、固定して変化を拒むということが老王であり、セネックスの役目です。ですから、それに対してプエールが反抗するわけです。したがって今の文化は、家の中でも社会の中でも、若者の文化と年寄りの文化が分かれて、家庭の中でも、お父さんの言っている言葉が〈こども〉には理解しにくく、〈こども〉はお父さんに話しかけない。そこには断絶があって、もはや言語も通じなくなるという形になるわけです。すなわち分裂した元型がそこに出てきてしまうということです。これは家庭ばかりでなく、社会的な広がりをもってきています。

 

 ところが先程も言いましたように、それはクロノス・サタンの側面ですけれど、逆にポジティヴ・イメージもあるのでありまして、私も今まで気が付かなかったのですが、老子というのは、「老」はセネックスですが、「子」というのは〈こども〉ですから、プエールです。老人が〈こども〉であるし、〈こども〉が老人であるというこの統合したイメージを老子の中に見ることができるのだと、ヒルマンも指摘しています。東洋では老人はガーディアンと言うか、若者の理解者、若者を育てはぐくむものという面を持っているわけです。もう少しはっきり言いますと、立派な老人というものは、自分の中に生き生きとした〈こども〉、プエールを持っている、元型として統一したものを持っている老人です。逆に言いますと、立派な〈こども〉というのは、〈こども〉でありながらじつは老いを中に持っている、そういう〈こども〉だと思います。

 

 私はあるところを読んだ時にハッとしたのですけれど、今の青年達はじつは自分の若者の時代を生きないで、むしろ年とった時代の問題を、若者である今生きているのではないか、と言うのです。つまり、今の若者が年とった時代には、原爆であるとか、科学の行き詰まりであるとか、いろいろ死を象徴するような世紀末の行き詰まりに来ているので、もはや老人に任せておくことはできないから、異議申し立てをして、彼らが無邪気に遊んでいればいい時代に、老人が負わなければならないような生と死の課題と取り組んでいる、と言った人がいます。なる程そうでありまして、たとえば、原子爆弾反対の運動であるとか、原子炉反対の運動であるとか、そういうものになぜ若者が取り組むかというと、老いの問題を若者がやっているということになるのかもしれません。そうであると、若者は自分の中にどんな〈老人〉を持っているのか。逆に、老人がどんな〈こども〉をその中に持っているのか、そして自分はその中でどれだけ統合したところの元型を持っているかを考えさせられるわけです。

 

 そういうことで、私は自分の夢の中でも、人の夢の中でも、いつでも赤ん坊が出てきたり、若者が出てきたりすることに注目しています。と同時に、たくさんの老人が出てきます。そして、老人と〈こども〉が一対のものとしてどういう関係にあるのかということに絶えず注目します。そして、ドリーム・エゴがどちらに同一化しているのか、またその関係を見るわけです。そうすると両方の性質がそこでよく分ってきます。

 

5 〈永遠の少年〉

 次に、プエル・エテルヌス(永遠の少年)の問題に入っていきますが、この永遠の少年というのは、いつまでも少年のままで姿をかえない少年像です。たとえばヘルメスを描いた絵に、少年が肩に羊を抱いたり、あるいは杖を持って旅しているものがありますけれども、そのような永久の少年像です。

 

 アレキサンダーの時代は、少年神が非常に発達した時代です。ギリシア語のポトス(pothos)とはどういう意味かと言うと、「あこがれ」とか「彷徨する」ということです。英語で言えばノスタルジア(nostalgia)ですね。たとえばフロイト派でもよく母親回帰ということを言いますが、どこにあこがれるかというと、「故郷にあこがれる」わけです。若者の本質は何かと言うと、ある意味で一種のあこがれをもつ人でありまして、本来あるべき場所にあこがれて、そこへ向かう途中人という存在です。すなわち故郷を捨ててどこかにいるわけですけれども、その帰るべき故郷を想うわけです。あるいはいったん失った母親にもう一度帰っていくのかもしれません。ホームシック(懐郷病)という言葉がありますが、あれはスイス人が作った言葉です。スイスは山地ですから、昔からたくさんの出稼ぎ人がローマ法王庁などの外国へ行って、男だったら雇兵になるとか、女だったらイギリスに渡って女中さんをやるとか、故郷を離れて他で働いていました。そしてその間に、多くの人は山をしたって病気になるわけです。ですから精神医学が発達するのですけれど(笑い)、ホームシックは最初は診断名だったのです。故郷から出ている間中かかっている病気のことをホームシックというわけです。そして、故郷へ帰すと治るわけですね。青年というのは、ポトスというあこがれを持ったものです。そして本来あるべき場所に行ったら治るのだけれど、行かない間はずっと病気であるという状態です。アレキサンダーという人もそうであったのですね。青年の頃、インドの方まで遠征するわけですが、一ヶ所攻撃して占領するとその日にもう次のところへ行くことを考える。永久に一つの場所にとどまることなく、ポトスという発作に襲われる人です。疲れを知らぬ彷捏をしたスペースマン(宇宙人)と言えるかもしれません。

 

 このプエル・エテルヌスの像の特徴として、たとえば手と足に傷をおって血を出しているものがあります。へルメスの像も野山を歩いている像です。歩き疲れて、足から血を出しているということがあります。ワンダーフォーゲルというのもこの時代のものでしょう。それから、垂直に上昇し下降する。そして、道徳無視的です。無時間的で年をとらない。自己破壊的で失敗を好む性質。「若くて、弱くて、病んでいて、傷ついて、しかし、まだ成人に達していない」と表現されるものです。植物でも一ヶ所にとどまっていなくて墓に芽を出す移動する植物があるそうですが、これをノスタルジアと呼んでいると言います。

 

 私は最近の、カウンセリングしたり、分析したりする青年の中に、それもすでに青年期を過ぎた人の中に、たとえば仕事の問題で来たり、あるいは30歳すぎ40歳近くになってもまだ定職をもっていないような人、しかしその中に無限の可能性を秘めている人たちの中に、永遠の少年の像を見ることがあります。そして事実、疲れを知らずに歩きまわり、あちらの講師をやったり、こちらの講師をやったり、そして頭がよくて学会を切りまくっている人がいましたけれど、私から見ると彼の足にはすでに血が出ていて、弱さをまき散らしながら、なお強がりを言って歩いているように見えたわけです。

 

 ただ面白いのは、こういう若者はどこで定着するかということです。ギリシア神話の中で、アレキサンダーは陸路を行ったわけですが、船に乗って未知の国に族するという話がよくあります。そして船が難破するんですね。難破ということは非常に大切なことです。こういう人達が人生に難破して、どこかの島にたどりついて、彼が本来腰を落ちつけるような故郷の島ではないんですけれど、そういう島にとんでもない芙しい女の人がいたりして、そして恋におちていって、難破の果てにどこかの安アパートヘ人生の錨をおろしてしまうということがよくあるんですね。ギリシア神話というのはよくできていると思いますけれど、嵐がおさまってみると自分が同棲生活をしていたというように、彼はもはや天才ではなくて、一介のサラリーマンになってしまうということを見るわけです。ですから、船に乗って難破するということはものすごく大切でして、私は患者さんが船に乗りたいと言ったら、喜んでどうぞお乗り下さいと、嵐が見えてきたら、風よもっと吹け、嵐よ吹け、どこでも行けというように、おおいに奨励することにしているわけです。面白いのは、アレキサンダーにはアリストテレスという師がおったと言われています。ユリシーズにはテレシウスという日の不自由な年とった先生がいます。問題は今、嵐よ吹けと言いましたけれど、私は別にこういう人達の師であるとは思いませんけれど、誰か一人その船出を知っていて、そして、どこにいるか見守っている人間がいるということは、非常に大切なことなんですね。ですから時々そういう人は、自分がどこでどんな嵐にあっているかということを電話で知らせてきたり、突然私の所を訪ねてきて、伊豆の山奥で囲炉裏をあんでいるとか、陶芸に舞っていたりと、色々なことを知らせてきます。そして、彷徨っているということがよく分ります。

 

 このプエールの世界は「一」の世界です。可能性の世界、精神性の世界、自発性の世界です。ところが、セネックスの世界は「二」の世界です。男と女がある世界ですし、すべて二つに分かれている世界です。二重性の世界です。そして彼らは、自分の可能性が壊れることが一番恐ろしいわけです。笠原嘉先生と一緒に三、四ヶ月前に『キャンパス症候群』(9)という本を出しました。キャンパスの中におけるカウンセリングセンターのいろいろなプエル・エテルヌスの症候群について書いたものです。その中で私も書いていることですけれど、私のところへある学生が問題をかかえてきたわけです。 どういう問題かと言いますと、自分はいま四年生でいよいよ就職になる。そして立派な企業に内定したけれど、自分は就職するのが恐いというわけです。なぜならむこうが自分を買いかぶりすぎている。だから、これから試験がくるので一科目落として来年留年しようと思うがどうだろうかと言うのです。その人は二年生の時に一年間休学して、ほとんど無銭旅行のように世界一周をしてきたような人です。シベリアからヨーロッパに行きまして、日本まで帰ってくるわけですけれど、皿洗いをはじめ、ほとんどあらゆる職業に従事して自分でお金を稼いできた。まさにアレキサンダーと同じように青春の彷徨をするわけです。苦しみを受け、破れ、出て行く。彼はみごとにそれをやってのけているわけです。私だったら恐くてできないことを、彼はちゃんとやってのけているわけです。そして無事に帰って来た。君はそんなにたくさんの職業をやっているではないか、だから就職したって困ることはないだろうと言った時、彼の言った答えが大変印象的でした。「先生、あれはアルバイトです。私がこれからやろうとしているのは責任のある職業です。」ということはすなわち、可能性の世界の中で生きている分にはいいけれども、何か一つの形をとる、時間の中に自分をおしこめることには耐えられないということです。一つをとるということは全部を失うということですから、すなわち「二」の世界、多神教の世界の中に入って行くことはもはやできない。自分の神聖性というものをそこで失うことになるわけです。ですから留年という、青年期を延ばしてしまう行為をとろうとしたわけです。私は彼に発破を奨励したわけで、彼が「一」の世界から「二」の世界に脱出するには、「一」の世界で難破する以外ないわけです。この人もみごとある女の人につかまりまして、幸福な難破をしまして、今は喜んで「二」の世界に生きています。それと同時に彼はふつうの人間になってしまったわけですけれど、その点は残念でなりません。

 

 まだまだいろいろお話しすることがありますけれど、要するにセネックスとプエールというものは、お互いに相反すると同時に、それを統合するところの一つのシンボルであるということがお分りいただけたらよろしいかと思います。そしてまたそういう観点から、今後皆様がカウンセリングや分析をする時に、そして幼児元型というものが出てきた時に、そういう見方をしてみようと思われたら良いのではないかと思います。私の話には別に結論があるわけでもありません。様々な側面というものを説明したということにすぎません。ありがとうございました。

 

 

 

※本論文は、1981年11月14日、山王教育研究所主催の「山王サイコセラピー・セミナー」において、「ユング心理学における『永遠の少年』」と題されて行われた講演をまとめたものである。

 

 

 

(1)中村雄二郎「問題群としての〈こども〉」 『世界』1981年12月号 岩波書店

 

(2) Jung,C. G., C. Kerenyi, Essays on a Science of Mythology, Princeton University Press, 1949

 

(3) Hi1lman, James, Loose Ends, Spring Publication, 1975 Hillman, James, Puer Papers, Spring Publication, 1979

 

この話の多くは分析家ヒルマンの上記二著の他、彼の雑誌に発表した小冊子によっている。

 

その他に、ユング派でこの問題を直接的に取り扱っているのは、

 

Von Franz, Marie Louise, The Problem of the Aeternus, Spring Publication, l970

 

M-L・フォン・フランツ『永遠の少年――星の王子さまの深層』松代洋一他訳、紀伊之園屋書店1982

 

(4)河合隼雄『母性社会日本の病理』  中央公論社1976

 

(5) Neuman, Erich, The Moon and Matriachal Consciousness, Dynamic Aspects of the Psyche, the Analytical Psychology Club of New York, 1951

 

エーリッヒ・ノイマン『女性の深層』松代洋一他訳1980

 

(6)Neuman, Erich, Ursprungsgeschichtedes Bewusstseine, Walter, l97l

 

エーリッヒ・ノイマン『意識の起源史』上・下 林道義訳 紀伊之国屋書店1984・1985

 

(7)Tillich, Paul, Perspectives on 19th and 20th Century Protestant Theology, Beaaten Ed., Harper & Row, 1967

 

パウロ・ティリッヒ『近代プロテスタソト思想史』佐藤敏夫訳 新教出版社1976

 

(8)山口昌男『文化の両義性』岩波書店  1975  山口昌男『知の遠近法』 岩波書店  1987

 

(9)笠原 嘉・山田和夫『キャンパスの症候群』弘文堂1981

 

 

 

 

Ⅱ部 女神の元型

 

1 女神の時代

 女神(じょしん)の元型について、心理療法との関連において、お話をしたいと思います。これは一種の神話です。神話というのは、たとえば自分の子どもを絞め殺すとか、箱に入れてしまうとか、決して皆様には起こり得ない話なんですけれども、皆様の心の中に住んでいる話です。これが神話の実相というものです。ですから、私が今日そんなことを話したからといって、それがすぐ皆様に起こるということは絶対にありません。しかし心の中には在る、在るからこそ勉強しなければならない、それが神話だと思います。

 

 まず最初に、私自身のカウンセリングや分析などの臨床経験の中から、最近の女性、女神達の問題を二、三拾いあげてみました。これが一般的な傾向なのか、あるいはたまたま私が会った女の人たちがそう言っていたのかどうかは分りませんけれども、そのことを頭におきながら主題に入っていこうと思っております。

 

 今年は「男女雇用機会均等法」が施行される年でもありますが、多くの女の方々が、今の世の中では女は依存的であり、劣等の性であると考えられていてはたまらない、自分は男以上に能力もあるし、依存している形にはもはや耐えられないとはっきり言う人も出てきたし、また家庭の中にいてもすることがない、だから外に出て行くと言います。そして多くの方々はどこに行くかというと、スーパーマーケットのレジ係になって、そこで自己実現できるのではないかと思っているわけですけれども、それはいたずらにスーパーマーケットの人事係を助けるというだけのことであって、必ずしも能力のある女の人達にとって満足のいくような所ではないわけです。「どこかに何かがないかと外を捜し回っている弱い女」、そういうイメージを私は多くの女性の方々と接して感じます。事実、子どもも育ててしまって、ご主人も社会的に立派な活躍をなさっていて、ご本人も習い事も全部やってしまっていて、いろんな人とつき合ってもいらっしゃる。また若い人で、夫と自分は同級生だが、夫が帰ってくるのをただ家で待っているというのはもう耐えられない・・・・・・そんな境遇にある人がいらっしゃいます。

 

 もう一つの一群の女の人達は、若い女の人で、いわゆる新しい女、しかし、私に言わせるとどこか冷酷なところがある女性です。どういうふうに冷酷かと言いますと、実に優しく男を誘惑するんです。誘惑しながらその男を肥やしにして次第に自分は階段を上っていくのです。それも個人の欲望とかそういうことではなくて、何かに憑かれたように、何かに駆りたてられるように上っていく、そういう一連の女の人であります。後で言いますが、このようなタイブの女性は「人魚」のようなセイレン的な人(半人半魚)でありまして、上が女で下は魚です。しっぽが生えて鱗があって触ると冷たい、下が冷え症なわけです(笑い)。これが岩の上で髪をくしけずりますと、漕ぎ手の男性のボートがひっくり返ったり、船が暗礁に乗り上げるのです。なぜならば、その女を見るからです。見てはいけないのに見るからです。「あら、私そんなに悪い事しているかしら」という処女の残酷さです。

 

 この女性はどこにでも出没します。職場の中にも、家庭の中にも楚々として入って行きます。性のことなんか何も知らない、あるいは子どもを育てるなどということについては私は関係ありません、夫と妻がつがいで小鳥のように生活することにも関係ない、私はしたいことを自由にする。もし私の髪の動きによって誰かがひっくり返るならば、それはひっくり返る男が悪いのであって、私はただ頭が痒いからくしけずっただけです・・・・・・というように続きます。どんな男もひっかかってしまいますから、ある意味では強い女性です。こういう女の人が行く所どこでも、どんどんクライエントが増えていくんです。大学のキャンパスの中をこういう女性が闊歩しますと、それを軟派しようとした男の学生がどれだけヤケ酒を飲んで失望の淵に陥るかわからない。そういう、女の強さを最大限に発揮しているような女性です。このタイブが片やおります。

 

 この二つのタイブの女性は、暗い女と明るい女と言ってもいいでしょうけれど、これは月の二つの相だと思います。月というのは暗い側面と明るい側面の両方を持っていて、その一面を見せているのでありまして、そのために月のことをちょっと私は考えさせられるというわけです。

 

 それからまた、新聞によく出ていますが、母親が自分の子どもをコインロッカーに入れて捨ててしまったという事件があります。私は昔から興味を持っておりまして、なぜコインロッカーでないといけないのかということをまあ、ずいぶん考えました。他にも捨てる所はあるのに、なんで駅のコインロッカーでないといけないのか・・・・・・。月の神話の中に、バスケットや箱の中に自分の子どもを入れて川に流して殺してしまうというのがあります。箱詰めになる子どもです。言い換えると、自分で生んで自分で始末してしまう。嬰児は非常に弱い存在ですから、意識もないうちにこの世に生まれてきて、箱に詰められあの世に流されてしまう。この母親の強大さ、無情さ、絶対性とでも言いますか、月の持つ人間に対する無慈悲な絶対性というようなものを感ずるわけです。皆様方も子どもさんの心理治療をおやりの時に、その子どもの成長を促そうと思っていろんな手立てを考えて、子どもが次第によくなってくると、今度は母親が出てきてその子を取り上げてしまい、「箱につめ」たり、「流してしまう」というご経験があると思います。こうしてすべてがオジャンになるので、母親のいない留守の時か、あるいは母親をごまかして、その子どもの箱の中に入って、その子が生きる空間を用意してあげ、その子の成長を助ける、そういう役割がセラピストにあるように思います。

 

 こういう、いわば個人の意識を離れた無意識の中に存在している女神の性格は一体何なのであろうか、ということを私が問題として感じるというわけなのです。

 

 では、一体こういう女神達の時代がいつあったのか。これはいろんな学説がありまして、必ずしも一致しておりません。男神の時代があってから女神の時代があったという考え方と、女神の時代が発達してそれが男神の時代になった。あるいは月の神々の時代から太陽の神の時代に入った。多神教の宗教の世界から太陽という一神教の世界に入っていったという考え方など、たくさんあります。どの説をとるということではありませんが、だいたい常識的に考えまして、私は誰にでも受け入れられるであろうという一つの説を仮定致しました。多くの学者は、まず女神の時代があってそれが次第に発達してきて今日の太陽神、ユダヤ・キリスト教の宗教になって今日に至ったのだろうと考えています。そもそも人類はいつ発生したか、そしてそのあと、どの位の時代から女神の時代があったのか、明確なことは言えません。しかし、ノイマン(Neumann,E)の本(1)などを見れば分りますように、非常に古い時代から、土偶として太母(Great Mother)の像が世界中のいろんなところから発見されています。人間というのは母親無しには発生できないわけです。ですから、どこかで母親の時代があったということは疑うべからざる事実だと思います。

 

 詳しいことは分りませんけれども、だいたい紀元前7,500年頃には、人類の文明の中で非常に高度に発達した最初の文明として女神の時代ができ上ったのではないかと思われます。これは主として農耕文化と結びついておりました。大麦とか小麦とかの穀物、農耕と結びついているわけです。技術の面から言えば、青銅器時代に主として発達したと思われます。黄河やガンジス川、

 

とくにチグリス・ユーフラテス川の流域、そしてナイル川の流域という大きな川の流域にまず文明が発達した。なぜそこに文明が発達するかというと、たくさんの人間がそこに住んだからです。たくさんの人間が住むということは、その人間を養うだけの穀物が必要で、そのための技術が発達しなければならないわけです。しかしのちに、あるいは同時にか分りませんが、鉄を使う鉄器時代の人間が出てきました。鉄は主に狩りや牧畜などをする騎馬民族のアブミを作ったり、槍などの武器に使ったりします。戦闘的な別の人種が出てきたわけです。これが紀元前2,000年位です。やがて、青銅器時代から鉄器時代へと文明が交替していく。その時に月の文化が滅んで太陽の文化が出てきたと考えられます。エジプトの歴史などは必ずしもそのように画然といきませんので、途中で急に太陽の文明が出てきて、またすぐに滅ぶというようなことがあるわけです。

 

 フロイト(Freud,S)は、有名な『人間モーセと一神教』(2)という本の中で次のように考えています。イスラエルにもたらされたレビ人の祖先というのは、エジプトの第十二王朝の滅んだ時に砂漠に逃れてきた神官達である。そこでモーセはエテロという自分の舅と会って、それらの人々の信仰を受け継いでイスラエルの中に入っていった。つまり彼はもともとユダヤ人であるけれども、エジプト文明を身につけ、しかも一神教を身につけた人間である。そしてレビ人は、周りの世界とは違った独特のバールという神信仰、つまり穀物・農耕信仰、とくに雄牛の信仰(金の牛を礼拝していた)をもっていた。その信仰の中に倫理的な宗教を立てたのだという説を述べています。この説の当否は別として、おおまかに言って、太陽の文化は後に出てきた。当時は月の文化の中にいてかなり大変だったと考えてよいでしょう。

 

 このように、地中海の西方、小アジア地方を中心に女神が一時大変栄えたわけです。

 

2 女性と月

 ここで、歴史的説明から宗教学的な女神の説明に入っていく前に、われわれが月をどういうふうに考えるか、経験的な月についてお話し致します。

 

 皆さんは月を見ることがありますか。東京ではどうでしょうか。ビルの陰に入って見えませんね。私も月をゆっくり観賞するのは夏に山の中でキャンプなどをしたときに、「なるほど月が出てたんだな」と見る程度で、われわれ現代人はほとんど月との関係を失っています。ところが私が夕方大学から帰る時、家にさしかかるところに坂があって東山が見えるのですが、そこにまだかなり明るいのに大きな月がドーンと出ている時があります。ギョッとするんです。面白いことに、月は全く気紛れです。太陽は実に正確に、朝になると出てきて夜になると引っ込むんで、これほど正確なものはありません。

 

しかし、月というのは昼間出ることがあるんですね。だからギョッとする。自転車から落っこちるほどギョッとする。 ところがいつも出るかというと、夜になっても出ない時がある。「我が宿は月待ち山の麓にて」というように、昔は銀閣寺なんかで月の出てくるのを待っているんです。それも水の面(おもて)に映して見る。実に奥床しかったんですね。月は今のある種の女の人と同じで気紛れなんです。いいと言ったことが実際はよいではなくて、いやなんです。いやと言ったことがいいということであって、どうなってるのか分らない。直接見られないし、だから一回池の面に映してみるのが丁度よいのかも知れません。

 

 それから、月経のことをメンストレーショソ(Mensturation)と言いますが、メンスというのはメヌス(月)という意味です。月が作用したものだから、旧歴の月の循環によって出てくる。昔は月の血である、月が痛んで血を流す、あるいは病気であると見た時代がありました。若い女の子とセックスの問題などでカウンセリングをしている時に、「なんで私達だけにこういうことがあるんでしょうか。そのために私の勉強の計画が狂ってしまう」「全く呪いたくなる」と言います。おそらくそういう意外な感じというのを最初、女の人は持つのではないかと思います。昔は、火を汚染してしまうから月経の時は火を取り扱ってはならない、あるいはそういう人間が一緒に生活をして男と交わってはならない、もし交わると男は戦意を喪失して役に立たなくなってしまうと考えていました。動物には一年中発情しているということがないので、人間よりもずっと潔白なんですね。発情期が何週間かあって、それ以外はつがいにしても見向きもしない。人間というのは実に不思議な動物でして、一年中発情している。一生発情している人もいる。休む期間があってもいいんじゃないかと思いますが、一年間休むことなくセックスにとらわれている。昔は、女の人が生活に大切な農耕と家事一切をやって、男がそれ以外の残ったこと、狩りや戦争をやっていた。ところが一年中発情しているものですから、これから戦争だといって戦のダンスを踊っている時に、グリム童話の人魚姫のような髪の長い女が出て来ると、皆、戦意を喪失してしまうわけです。なんで苛酷な戦いに出て行かんといかんのか、ここで女の子と一緒に暮した方がいいということになります。そうなるといけないので、メンスにかこつけて人工的に休む時間を入れたのかもしれません。

 

 考え方によっては、女性を特別視し疎外していると言えるかもしれません。しかし逆に考えますと、独り、群れ(公)を離れて“私”になった女は、そこで自分独りになるわけです。結婚生活で何が一番大変かと言いますと、多くの女の人は、あの宿六と顔をつき合わせて三度三度飯を作らなければならないかと思うと私はたまらないと言います。家に居るということは、言い換えれば自分が独りになる時がないということです。独りになる、すなわちセックスからも自由になるということです。私が驚いたのは、独りになる、彼女自身になることが女の人にとってどんなに重要かということです。独りになって何をするかと言うと、鏡に向かって自分の造作を直すのかも知れません。あの時の実に生き生きとした私的な時間。会社などでもトイレに入って化粧する時に、自分が独りになっていることを確かめるわけです。これがどれだけ大切かということは、われわれ治療者は経験的に知っています。

 

 また、夜は人間の休む時です。昔は月が疲れを癒したというふうに考えられておりました。穀物も月が育てるわけです。われわれは科学的知識から、植物を成長させるのは太陽の光だと考えています。ところがエジプトなどの暑い所では太陽はあまりにも明るく暑すぎて、穀物を枯らしたり、萎えさせたり不毛にしてしまいます。むしろ夜、月の穏やかな光が野山をあまねく照らして植物を育て繁茂させる。人間はその間に寝て、昼間の太陽からの疲れを癒す。そういう考え方です。その点、不眠症の人は可哀想なものです。不眠症は太陽の子なものですから、月の世界に入ると途端にダメになるんです。月の世界に太陽を持ちこんでいるわけです。月の癒しを与えられない。私は、この世の中から女の人がいなくなって男だけになったら、明日からすぐに殺し合いを始めるのではないかと思います。女の人がいるから殺し合いにならない、そんなもんです。夜のとばりが降りて優しく月の光があたりを照らす。そうするとシェイクスピアの「真夏の夜の夢」のように、たくさんの森の精が活躍します。大変な活動性が生じるわけです。昼間のものとは全然違う活動性でして、それが人間を癒してくれるということになっているわけです。

 

 昔ほ女の人は月の光の方に向いて寝てはいけなかった。月の光が人を孕ませると考えられていたからです。男と接することによって子どもが生まれると考えるようになったのはごく最近でして、顕微鏡などの発達によって詳細が分るようになってからです。もちろん性交するということは知っていましたが、これは男が道を開けるということであって、孕ませるかどうかは、アフロディエティなどの女神がきめることで、彼女たちが祝福すると身ごもると考えられていたのです。事実、月は脹らむわけですね。これは妊娠しておなかが脹らむことです。

 

 月が満ちていく時、これは月の良いところなんですが、この時は月は善意です。すべて善い方へいく、幸運です。すべては成長し、伸び、次々に幸運が訪れる。現代の時計は太陽の時間ですから、月が今何をしているのかは分らない。満ちていく時か欠けていく時なのか分りませんが、それが分っていれば、「ああ今はどおりで悪い筈だけど、やがてまた宝くじにも当たるだろう」と気分を取り戻せます。欠ける方は悪意の時間という意味です。この気紛れ、むら気、気分の差異が月のひとつの大きな特徴です。同じことでも二つの相があるわけです。お母さんが「勉強しなさい」というのは子どもに対する善意から言っている場合と、同じ言葉が刑罰の「勉強しなさい」にもなります。このような点で古代の人達は月はムラ気であって、誰にでも慈悲を垂れる存在であると同時に、春が来て夏至が来て再び冬になっていく時に、あれ程恵んでくれたものを全部萎えさせてしまう、全部死滅させてしまう。建設者の側面と破壊者の側面を持っていると考えたのです。

 

 戦後の日本は、河合先生もおっしゃるように(3)、母性性が非常に栄えた時代であったわけです。母親は自分が食べなくても子どもに食糧をやったし、今では家計が破産しても、塾に通わせて自分の子どもに入れてあげている。それは必ずしもあとで報われるからということではなくて、全く犠牲的に、本当に子どもを愛するからです。しかしそういう、子どもの栄養になるはずの豊かなエネルギーの供給が、高度成長期を過ぎますと次第に病理的な側面を現し始めてきました。すなわち、相が変わったわけです。そして学校恐怖症、登校拒否、家庭内暴力などの形にみられるように、過剰であるために却って子どもの自立を阻害してしまう。阻害するばかりではなくて、ある母親は刈り取ってしまう。全く子どもの個性を見ない、自立を承認しない。自分の一部であれば残しておけるが、自分に反抗したり自分から出たりすることは絶対者の力で許さない。「お母さんの言ったこのお見合いの写真の中からあなたは選びなさい」「お母さんが調べた一部上場企業の中からお前は就職先をきめなさい」「お母さんが先に手を回してあげるからそこへ就職しなさい」すなわち、女神の手の中にすべてあるわけです。彼は、そのお母さんの支配する世界を生きていくのです。このような側面もわれわれが経験していることです。

 

 もう一つは、月には相があると言いましたが、同時にリズムがあるのです。潮の満ち干きのように一つのリズムがあります。音楽はリズムをベースにした技術ですが、等質な時間を利用しているのではなくて、異質な時間を使っている。その質の違いが楽章から楽章へ、第一主題と第二主題、伴奏が付いたり飾りが付いたり、いろいろな形で展開していくわけです。われわれの勉強した頃の心理学は幼稚と言いますか、発達しかかった時代の心理学でありまして、人間を外向的人間とか内向的人間に分けたり、人格とか気質とかいう用語を使って説明したり、またクライエントにいつ生まれたか、男か女か、国籍は、既往症はとかを開くことで概念的に人間を分類して安心してしまっていました。大まかな概念で人間が分った感じでいたわけです。ところがわれわれが扱う人間というのは、その身体を水分は何%で脂肪が何%でと分解してしまうこともできるでしょうけれども、それだけではない。たとえばベートーヴェンの音楽はどういう音楽か、第七と第九とはどう違うか、モーツァルトとどう違うのか。皆違うことは知っているけれども、ただロマン派の後期だとか中期だとか言っただけでは分らない。もっともっとデリケートなムードの重なり合いなどを芸術の世界では言っているわけです。女神の時代は竪琴をよく使いました。これは神の声でありましたし、女の神様、とくにミューズ(Muse)の神様などは音楽を使うわけです。デリケートな洗練された上品な感情の使い方の中に姿を見せるものがありました。

 

 最近は、自閉症の治療の中にある種の音楽が使えるとか、音楽心理学とか芸術療法学会とか、次第に心理学も進歩しておとなになって来ています。しかしおとなにも上品なおとなも低級なおとなもあります。セラピーも簡単な分析や治療からもっと上の方、あるいは深いと言ってもいいですし高尚と言ってもいいですし、もっと個性的なものを問題にしなければならない時代に入ってくるんではないかと思います。今まで心理学は男の法則だけでやってきたのですが、これからは女の人の感性とか、女の人の能力とかをたくさん使っていかなければならない時代に入ってきているんではないかと思います。それが証拠に、カウンセラーを志すのは女の人が圧倒的に多いですね。もちろん他に職業を社会が用意して無いということや、暇な人がたくさんいらっしゃるということもあるかもしれませんが、もう一つは、「サイコセラピーは女性の領域ではないか」「自分に適しているんじゃないか」「自分の深い所が何か言っているんではないか」という感覚を持っていらっしゃる方が多くいるのではないかと思います。私はよく女の人に、「女の人から男を見たら、男はなんでこんな簡単なことで生きていられるかと思うでしょ」と言いますと、ニヤッと笑います。自分の夫や会社の上司を見ていたら、上に行けば行く程ものすごく単純に生きてるというか、なんでこんな人が一国を動かしているのかなんてことを思うんではないでしょうか。感受性も摩滅して大振りな人間だからこそ政治家なんてやっていられるんではないか、とうてい私にはできませんと言うと思います。

 

 これは面白いところでして、女の人は男の人を見て、なんと単純な奴だろうと軽蔑しながら一緒に生活している。ところがそのようにデリケートな人は、自分で感じたことを言うことができない。人の本を読んで、これは違うと分っても、どこが違っているかが分らない。「イヤなものはイヤ、そんなこと言わせるあなたは嫌いとしか言えない。」これが言えるということ。女性の固有の意識の働きについて言えるようになることが大切です。 カウンセラーとして大成した女の人は、ちょうど織物にたくさんの違う柄、模様、手触りがあるように皆違う言葉で表現する。ちょうど女性の着ているものが男に比べて実に様々な色や素材でできているように、言い出したら一つ一つ違うものを上手に言い始める。ちょうど音楽のように・・・・・・。それが見事な合唱になっていくんじゃないでしょうか。ただし、歌の歌い始めは皆すごい声を出します。カウンセリングスクールなんてどこも声楽を習いに来ている人の集まりのようなもので、こういう人達がセラピーをやり出した時に「私は真理を発見した」なんて声を張り上げますと、そのすごさ、汚なさ、度はずれた論理に辟易として耳を塞ぎたくなるということです。しかしそれがやがて洗練されていきますと、個性的になっていくのではないかと思っています。

 

3女神の性格        

 

 それでは続いて本題の女神についてお話をすることに致します。まず女神の名前ですけれども、いろんな名前があります。地方、時代によって違います。エジプト、シリア、バビロニア、ギリシア、皆違うんですが、だいたい基本になるものはあるわけでして、古い時代から新しい時代へと少しずつ変化しています。どれがいいかは好みによりますけれども、私は「イシス」(Isis)と「オシリス」(Osiris)の話が中心になっていると思います。これはエジプトが起源だと言われていますけれども、イシスは母親でオシリスは息子です。イシスをイシュタルと言って「イシュタル信仰」になったり、あるいはオシリスのことを「タンムズ」と言ったりもします。人口に膾炙したものでは、イシュクルをアシュタルテと言うもの、ギリシアではアルテミスになります。アルテミスに対してアドニスが対になることもあります。いずれにしても母と子の対を持っているわけでして、イシスはのちに「ラー」という太陽神になります。

 

 イシュタルは「名を多く持っているもの」「千の顔のあるもの」という意味です。これは大麦と小麦の祖先と考えられています。つまり穀物神です。このイシュタルが人類に最初に麦、植物を与えたというふうに言われています。そのように麦が伝播し、種によって蒔かれていったところではその信仰が及んでいくわけです。チグリス・ユーフラテス川の周りやナイル川流域がそうです。事実、ビールは紀元前5世紀にはもうできていて、麦は10世紀も前からあったという説もあります。とくにナイル川では年々の洪水によって肥沃な表土が流されてきて植物が生える。黄河でもそうですが、肥料を撒くなどということは後のことであって、当時は洪水によって流されてきた土に麦を蒔くと、それまでは考えられない程の収穫量が得られるわけです。ですからそれを醗酵させてビールを作ることもできたのです。ビールというのは古い飲物であったわけですね。醸造法もそうやって発達する。したがってその麦でたくさんの人間を養うことができることになり、イシスは慈悲深い女神であるという形になります。

 

 その息子であるオシリスは「緑のもの」という意味です。すなわち彼女によって成長させられた麦の穂、植物の緑で、彼女の子どもです。「麦のように育つ」とか「若枝のように育つ」というのは皆、慈愛の女神のもとで成長するということです。こういう女神は生命の付与者であり、同時に生命を奪う破壊老でもあるわけです。春から夏至になるまでずっと恵みを与え続けてきますね。しかしイシスは万物を裁く恐ろしい神様でもありまして、なぜならそうやって育てた息子、すなわち木々草花に毎年判決を下し死刑にするからです。

 

 死刑にされると、タンムズ(オシリス)は死んで下界に降りて行きます。すると自然は、「タンムズへの嘆き」という詩があるように、自分の息子が死んでしまったことを非常に嘆いて喪に服す。嘆きの声が世界に満ちあふれ、彼の死を悼む。古代には死んだ我が子の死体にとりすがって嘆くという嘆きの詩があります。有名なローマの教会の礼拝堂に、ミケランジェロの作ったピエタの像があります。キリストが十字架から降ろされて母マリアがその青年を抱く「嘆きの聖母像」でありますが、これはキリスト教にも古代の宗教の要素が流れ込んでいる証拠です。偉大な母が自分の最愛の息子にとりすがって嘆く図式がもともとのものです。あるアメリカ人の画家で、母親なんですが、その息子さんが生れた時から目が見えなく、そのうえ精神障害をうけて次第に彼女との連絡がとれなくなって離れていっていました。その時に私はその方と会っていたわけですが、その方が描いて下さったピエタの像を持っています。西欧人であれば誰でもすぐにピエタを思い出すものです。

 

 こうして一切の世界は抑うつ状態に入っていく。動物は子どもを生まなくなりますし、植物は萎えてしまう。なぜかというとイシスが嘆いているからです。やがてイシスはただ嘆くだけでなくて、下界へ降りていきます。「アラト」「ペルセフォネー」と呼ばれる死の冥界の女王が支配する世界におりていき、そこで戦ってわが子を奪い返す。また、わが子タンムズの体がバラバラになって地球上にばら撒かれる話になる場合もあります。イシスが死を悼んでとりすがり、細かく粉にして撒いた。つまり、小麦が天界から撒かれたので世界中に広まったという話と、パンの粉にして撒かれたというお話があります。事実、植物は全部枯れてしまうわけですが、どこか種としてとっておかなければならないところがあります。古代では麦を刈った時、最後の一刈を残しておく。ある地方では鎌をかけて飛ばして最後に切るとか、わら人形にして木にかけ燃やす。また、わらを燃やして天に上げ翌年の豊作を祈願する。「一粒の種、地に落ちて死するならば、やがてそれはたくさんの果実を結ぶだろう」という死と再生の儀式ですね。死んで種がばら撒かれ、そこからもう一度オシリスが蘇ることになるのです。

 

 他にも話のバリエーションがありますが、恐ろしいものに、アドニスを訪ねて冥界に行ったときに、母親は蠍に姿を変えて棘で息子を殺してしまう、あるいは熊に変装して殺すというのもあります。初めのうちは、母が子を殺してバラバラにして撒いて死と再生が起こるという神話だったのが、後にはタソムズ自身はぐるぐる回って死なない、不滅である、永遠であるという考え方に達します。とくにエジプトでは物質的考え方をしますから、たとえば黄金は物質の中で一番長く形を保つ物と考えて黄金を大事にしました。ですから、肉体もそのままで保存する没薬(もつやく)という特別な薬を発明して、肉体の存続と魂の不滅を考えたわけです。

 

 このような不滅性が太陽信仰と結びつきます。決して死なない、決して滅びない。太陽はそういう性格を持っていまして、夜間隠れますが必ず出てきます。ただ“死を死ぬ”のではなくて、死の向こう側にもう一つ大きな生があって、“死を死ぬ”ことによって「義の太陽」と呼ぶものになるという考え方です。これがイシスの信仰の中にも入ってきまして、独特の密儀を持ち始めるわけです。これが「イシスの密俵」というもので、この祭りはイニシューション(initiation)の祭りです。中近東に伝播していって、どの町のどの子どもも皆イシスの密儀にあやかる。ユダヤ教・キリスト教が起こって、333年にコンスタンチヌス帝によって公認された時にこのような祭りが全部禁止されましたが、それまでは栄えていたと言われています。 この密儀の内容については、記録は残されていません。したがってどんなものであったかはわかりませんが、たとえばユレウシスという所に残されていた「エレウシスの密儀」(4)というのがありますが、これなどはある程度の様子が分ってきています。現在われわれのやっているサイコセラピーとよく似たもので、断食をして、節制をして、孤独な瞑想に入り、10日後に演ぜられる劇に参加します。自分というものはそこでいったん死んでドラマの中の人物、いわば神格的な役割を演ずるわけです。そこでどういうことが為されるかと言えば、女の子でいえば虐待されたり、酷使されたりします。そして一番耐えがたいものは『黄金のロバ』(5)の中に出てきますが、テュホンという赤いロバの扮装をした人間に卑猥な言葉で語りかけられたり、弄ばれたりして偽死を体験する。地域によってもちろんいろんなバリエーションがありますし、密儀ですからはっきり分らないんですけれども、最後にイシスの赤いバラを食べる。そうすると粗野な獣性から解放されて宗教的な感動へ入っていくという密儀です。

 

 女神、たとえばアシュタルテの神殿などは、私もコリントで見ました(今はその跡しか残っていません)が、昔は保養地みたいな所でして、ちょうど二つの海が迫っている所に建てられていました。そこまでたくさんの船の漕ぎ手が行き来していただろうと想像される所です。ですから荒くれた男達がたくさんいて、聖書の描写によりますと淫蕩の街であり、パウロなどはそこに行ってそれを非難するわけですが、アシュタルテ、アフロディェティの神殿にたくさんの遊び女(め)がいて、それらの人達と遊んでいたんだろうと思われます。ただし、それはただの享楽的な遊びではなくて、昔はどの女も皆その神殿、たとえば愛の神であるアフロディエティを心に思うと、自分の生活を一度離れて神殿に行って見も知らない男と交わる。ある女は何年間もそこで待たなければならない。ですから、そこではたくさんの子どもが生まれただろうし、その子は神の子と言われたかもしれません。同時に神殿に仕える多くの聖なる売笑婦と言われる人がいたにちがいない。当時は処女というのは、現在われわれの言うような意味ではなくて、夫を持たない若い女の人という意味です。ですから、神様に処女を捧げると、黙って家に帰ってふつうの生活に戻るわけです。そこでイニシエーションが完成されたということになっていたわけです。もちろん、ただ肉体閑係を持っただけであったのかあるいは密儀に携わったのかは分らないことですが、いずれにしても一人前の女になるということです。その時、イシスの台座に松明を持っていって忠誠の印として八方に光がある白い棕櫚(しゅろ)の葉を頭につけます。イニシエーションの完成した栄光の人ということで、後にはベールになって今でも結婚式に使うわけですが、そのベールを家に持って帰って、どの女もこのベールを生涯秘蔵することになっていました。そこで何が起こったか、どんなことをしたかということは決してしゃべってはいけなかった。しゃべると密儀は破壊されてしまうわけです。

 

 古代では、娘が妻になる時、すなわち全く違う心理的な世界に移行する時にこういう苦難を与え、移行期から再統合という経過をたどっていったわけです。今の世界では、女の人は栄養によって育って大きくなれば、そのまま結婚もできるし妻になれると思っています。ところが、それはただ大きくなった娘でしかなかったということがしばしば起こるわけです。セラピストというのは、ある意味でそういう古代的な密儀をプライベートな形でやっている、イニシエーションにつきあっている、と言えるのではないかと思います。

 

 

 

4.母の像

 

 

 

 そこで、具体的な話に入っていく前にここでもう一度、母の役割、母と子の役割について少し見てみたいと思います。

 

 まず母、イシスです。イシスという神様の姿といって思い浮かぶのは、バビロニアやアッシリアで出土する腰の周りの大きな像の姿です。畑などに土偶を埋めて大地の豊穣性を保証してもらっていたと考えられます。日本でも同じようなものが最近見つかっています。そういう母としての土偶ができる前はどんな形であったか? 「名の多いもの」とか「千の顔を持つもの」と言いますから、それはなかなか分りません。ただ、人間の形をする前にもっと別の形をとっていたかもしれません。ノイマンは一番古い形として、ウロボロス(Uroboros)という形を言っています。人類の意識がちょっと出かかってくる時、無意識から意識が出てくる時、最初にとる形はウロボロスだと言うのです。それは「円」でして、へどの頭が尾をかんでいる象徴です。これは動物の世界ですね。よく子どもが指しゃぶりをしますが、あれは一番自分の自由になる他人である指をしゃぶるわけです。その姿はウロボロスの形になっているんです。また自分の尾をかむということほ、強い方が弱い方を食べるということです。動物の世界は強い奴が食べて弱い奴が食べられる世界です。母の世界も、どこまでそのような世界を持っているのかは知りませんけれども、非常にプリミティブなところでは動物の世界をひきずっているのではないかと思います。ですから無慈悲です。動物の世界は言ってみれば何の憐れみもないし、小さい魚は大きい魚に食われます。食われるけれども自然はちゃんとその数をみこして小さい魚を作っていまして、そこにはエコロジカルな循環関係がある。日本では母親は文学などで栄光化しすぎまして、「母君に優るものは世に無し」というような慈しみ深い母です。たしかに慈しみ深いんですが、その慈しみの中に実に残酷な、すべてを食い尽くしていくような負の運動がある。ウロボロスほ永久運動です。食べるものが食べられ、食べられるものが食べるものと循環します。一つのナルシスティックなサークルを作っています。

 

 この頃、アノレキシア・ネルボーザ(AnoreXia Nervosa)と言われる拒食のケースに会います。思春期の女の子が多く、食べなくなるのですね。では誰が食っているのか?彼女の心の中で誰かがたくさん食べているから彼女は食えなくなるのです。彼女が自我を作ろう、意識を拡張しようとすればするほど、それをかじっている悪魔の「月」があるわけです。昔は月が欠けていくのは悪魔によってかじられると思っていました。われわれは月の明るい方しか見ていませんが、月には暗い方があって、それは悪魔にかじられた方である。だから月食の時などは、全部かじられてしまうから大変恐ろしい結果なわけです。飢饉がくる、食べ物がなくなるというのはアシュタルテの恵みがなくなることであって、アシュタルテの力が悪魔にかじられて薄くなった時、地上が飢饉になるわけです。今は食物がたくさんありますので、日本では飢饉を感じません。ですが、ないわけではなくて、拒食の児童を見た時にショックを受けるんです。あり余っているのに食べない。こういう異常な現象はどういうふうにして存在するのか。昔はこれを女神と結びつけて考えていたんではないかと思います。

 

 それから、母親の愛情の洪水。女神の時代に、チグリス・ユーフラテス川とかナイル川は決まって洪水を起こしていました。面白いことに、月の暦からなぜ太陽暦に変わったかというと、ナイル川は必ず決まった時に氾濫するのですが、月の麿は太陽ほどには当てにならなかった。ですから月の暦は調整しなおさなければならない。そのためにうるう日というのが5~6日あって、それを太陽の日と決めていた。暦によって生活するということは、月に支配されるということです。カトリック教会が暦を大事にしますが(暦を作ったのはカトリック教会です)、キリストがいつ生まれ、クリスマスがいつ、イースターはいつ、今日は聖書のどの個所を勉強しなければならないかとかを全部決めて教会暦で生活している。ですから、月の磨から太陽の暦に移っていくというのは非常に大きい問題だったのです。そのエジプトで太陽暦に移行する、太陽神が起こってくるというのは、ナイル川の周期的な氾濫からです。月に対する疑問が生まれ、太陽に移っていき、天文学が発達し、数学・幾何学も発達し、測量もできるようになっていった。われわれの使っている今日の麿には、月はどこにも見られなくなっています。高島易断、お見合、結婚式で大安を選ぶなどの時にしかお目にかからない。意外と近所の酒屋やタバコ屋さんのくれたカレンダーの方が、大安とか書いていない大会社からもらったカレンダーより役に立つことがあるわけです。意識の側では太陽暦を使っていますが、われわれの深い部分では今だに月の暦を持っている。たとえば、太陽暦で正月といっても一ヶ月早いので、これから冬のしんどい時になるのにと思います。むしろ中国のように2月になってから大騒ぎする方が春らしいですしね。

 

 以上が“母”であります。恩恵者であると同時に無慈悲である母。それでは“子”とはどういうものであるか。子どもには男の子と女の子と二種類あります。面白いことに、母親は女の子の場合は自分と同じですから生んでもあまり感激しない。私の家内などを見ていると、女の子の気持ちはよく分るといって安心していますが、男の子だけは小さい時から「分るかしら」といって心配していました。今に男の子は男が生んで、女の人は女だけを生めばいいようになるかもしれません。今は女の人に両方生ませてるからお気の毒で、男を絶えず恨んでいるわけです。しかし、男の子を生んだ時、自分と違うものを生んでいるのですね。ですから、女の人が体験する“男”というものは“受精者”ではなくて、自分の作った‘被造者”なんです。 われわれは科学の世界に生きていますから、体験する“男”と言うと性的関係に入って精液をもったものと考えますけれど、これは後のことであって、最初は男などは視野の中に入ってきていない。たとえばアマゾネスという女の集団がいまして、アテネを攻めました。アテネのパルテノンの神殿にはアマゾネスと戦ったアテネだとかミューズだとかアレスだとかの戦いの場面があります。これは特殊な女の集団でして、非常に戦闘的な集団であります。あまりたくさん弓を射っているので片方の乳房がなくなったという程好戦的な女だったわけです。そして集団でかかってくる。それから一年のある時期だけ男狩りに行く。男を襲って性交して引き上げる。生まれてきた子どものうち女だけ育て、男は皆、骨を粋いてしまう。また、彼女らの戦術が変わっていまして、踊りながら戦争をします。戦いが終わると、太鼓を叩いて水がひくようにサーと引きあげる。男をつかまえるのには網を使う。今日に至るまで女は男をつかまえて放さないためにだいたい網をかけますね。そして動物のようにサーッと行ってしまう。現在でもアマゾンタイブという女の人がいます。ズボンをはいてベレー帽かなんかをかぶって、男は全然いらない。ガリガリにやせていて、男に対していつでも戦意を燃やしている。ジャンヌ・ダルクもそうでしょう。女神というとすぐに優しいとか慈しみ深いとかをイメージするんですが、こういう戦闘的・動物的な女もいるのであって、本当に女性が優しくて慈しみ深いかというと疑問ですね。現代の社会がそういうものだけを発達させているわけでして、マラソンなんていう競技では実は女性の方が速かったり耐久力があったりするかもしれないと思います。 母にとって子は自分の被造物ですから、アルテミスでもアシュタルテでもイシスでも、皆お母さんであると同時に恋人です。息子は心の恋人です。息子を失くして下界に入っていく時に息子の恋人になるんです。この恋人は完全な男性ではなくて慈しみの子でありまして、愛(いと)しの君なわけです。子どもが思春期にさしかかってくると、母親は「私のバンビ」とか「かわいい私の○○ちゃん」とか呼んで可愛がり、このバンビーノは、「お母さん、お母さん」と言って慕います。だいたいは美少年という形でいて、いつも美しく愛らしい。花で言えば、アネモネ、水仙、ヒヤシンス、すみれなどです。このような花は皆、手折ることができます。お母さんは花を育てますが、植物の神でもありますから、途中からピッと手折ってしまう。去勢と殺害の儀式があるわけですね。今の学生、若い子を見ていると、なるほど素直に育ってきて麗しく愛らしいけれども、母親によって手折られてしまう弱さというものも感じます。子どもにとって今一番危険なのは街よりも家庭の中です。家庭の方がずっと恐いわけです。街はたしかに外ですから悪い人がいて時に襲われたりして殺されるかもしれない。しかしそう毎日どこでも殺人事件があるわけではない。ところが家庭は愛する者と一緒に住み、いろんな感情が出てくる所です。感情の嵐が巻き起こってくる。そして、期待や希望の裏返しの失望・裏切られる体験となって暗い感情が誘発されてくる。ですからその子がイニシエーションを完成するのではなくて、母親の手の中にある間に手折られてしまうということになります。

 

 したがって子どもは英雄でなければならない。英雄というのは何と戦うかというと、自分を生んでくれた母と戦うわけです。母に対して自分を主張し、自分の世界を持ち、自分の個性をもつ戦いです。ですから面白いのは、英雄はいつでも二人の父と二人の母、複数の父と母を持ちます。一人は自分の本当の個人的な父であり母ですが、もう一人は超個人的な父であり母です。たとえば、学校恐怖症などの場合に多く知られるのは、彼らはある意味では選ばれた人間でありますし、ふつうの子どもよりも勉強ができて学力があったり、何らかの形である使命のために選ばれ期待されているということがあります。そういう時にこの子のお父さんを見ると、だいたい個人的なお父さんは弱いわけです。ここで出てこなければいけないという時に出てこないでモゾモゾしている。子どもが引きこもってから子どもの部屋の前に行って怒鳴ると、子どもが怒って出てくると逃げちゃうとか、そういうお父さんです。その時に彼の中ではもう一人の父、集合的意識(Collective Consciousness)、すなわち社会の権威、理性的な考え、掟を代表している強力な「父なるもの」を発達させてきます。彼はこれと交渉を持たなければならなくなるわけです。それと向かい合ったときに、自分の自我は持てる渾身のカを発揮しますから自我はぐっと肥大します。そして自分では信じられないようなバカ力を出したり、大きな野望を抱いたりします。現実の父、個人的な父と結びついていればそこが限界ですが、その結びつきが弱かったり結びついていない時には、無限の野望、無限の自我の肥大に会うことになります。

 

 少年というのは、私も小さい時そうでしたが、母親はいつでも父に虐待されているんだと思っていました。私の場合、両親は二人とも明治の人間ですから、あるいはそういう所もあったかもしれません。母親はよく言います。「お前だけが希望だよ、私がこんな結婚生活をしているのも、お前がいるからだよ。お前さえいなかったらとっくに別れていたものを」と。これは彼女の宣伝です。子どもはまだ全体を見ることができませんし、絶対の母親がそう言うんだから、父親は悪い奴で、家の中に住んでいてぶらぶらして、ビールをくらって毎日寝てる。母親はこまねずみのように朝から晩まで働いていて、私のためにおやつも大きい方をくれる。自分は大きくなったらお母さんの役に立たないといけない。お母さんの庇護者にならなければ、救済者にならなければならない。つけても悪いのは家に寝ている悪魔=父である。なんであいつはあんな職業を選んだのか。俺だったらあいつ以上になってやる。あいつが黒い帽子を被るなら俺は白い帽子だ。あいつが左に行くと言うなら俺は右だ。あいつが日本で埋もれるなら俺は世界に雄飛する。こういう過程で英雄が生まれていくのです。これがエディプスの神話になっていきます。

 

 英雄には二重の性格がありまして、一つは絶対に負けない、不死である。打ちのめされても絶対に負けない。ちょうど学生運動華やかりし頃にヘルメットを被ってつっかかってきた学生達、彼らの顔を見ていると絶対に負けない――現実には負けるんですけれども――彼らの心の中では絶対に負けない。「巨人軍は永遠に不滅です」と言うのと同じで絶対に負けない。敗北の中に勝利を信じ永久に戦っている。彼らは死ぬまで戦うかもしれない。これが永遠の少年(プエル・エテルヌス)です。われわれが「永遠の少年症候群」と言っているものです。

 

 ところが、英雄はやはり神様ではないんですね。ヤマトタケルでも人間でも、最後は死ぬわけです。これは「死ぬ者」「死を負うた者」ということです。ここが面白いところで、英雄はこの両面を持っているのであって、肥大して誰かに投影したエネルギーを、どこかで自分に引き戻さなければならない。この引き戻しができるかできないか。これは辛い断念であり、辛い撤退なわけです。われわれセラピストが思春期・青年期のセラピーをする時に何が一番辛いかというとここのところです。最初はお父さんが役に立たないとセラピストの先生に父親のイメージを投射してくる。「先生は日本で一番偉い先生である、なぜなら私のセラピストだから」「先生は何でもしてくれる、なぜなら私が選んだ先生だから」「先生は私の恋人である、慈悲深いから」。ところが、あんなに俸いと思っていた先生が、ある日面接室へ早く行ってみたらもう一人クライエントと会っていた。どうもそのクライエントは私より背が高いしきれいだ、灰皿にあったタバコに口紅がついていた。たぶん女であるに違いない。先生は僕に対してあんなに親身になって関わってくれたと同じことを、他の人にもやっている。許せない。そこで彼は悩むわけです。そういうことをぶつけてきた人がいます。「先生、私だけやって下さい。なんであちこち手を回すんですか。関西だけでなく、なんで東京まで講演に行くんですか。先生は冷たい。先生は結局偽善者だ。私のことを思っていない。自分のことしか思ってない。先生は金儲けのためにしてるんだ」と、この過程がくると、全部今までと逆のことを言います。その時、彼に迫られるのは、それでもなお治療を続けるかどうかということです。つまり投射したそのエネルギーを今度は自分に引き受ける、顔を見るのも嫌な奴と話をする、対決する、関係を続けていく、そして自分自身になっていく。ここに個性化が起こってくるわけです。父なるもの、母なるものということではなくて、彼でなければならないもの、他の人と違う個性がそこに出てくるのです。

 

 

 

5 英雄の生き方さまざま

 

 

 

 女神の一番の欠点はたくさんの顔があることでしたが、それが多いという点ではどこにいっても同じであることです。やがてそこに人格神が現れ、特別な一対一の関係が出てくるようになるわけです。女神の発達の前半は、ちょうど母が生んだどの子にも対するように、誰にでもまんべんなく遇してくれるという自然神の性格です。やがてその自然の法則から離れてその上に人間がファンタジーの世界を持ち、一人一人のユニークな世界を描いていく、その段階へと入っていくわけです。ですから、英雄にはいろんな戦い方があるわけです。ある人は竜を倒し、ある人は鯨を殺します。ある人は鯨と住むかもしれないですし、一度呑まれてまた吐き出されるかもしれません。さまざまな形があり得るわけです。またこの勝利の仕方はいろんな形であるわけで、現在もそれぞれが一つ一つ違った個性化の過程の中にいるのではないかと思います。

 

 もう一つの側面は、たとえば上杉謙信は兜に角をつけていますが、面白いのは古代のイランのもので角のある月があります。これは雄牛を現していることもあるんですけど、角を出すことにより自分はふつうの人間ではなくて月の女神の子どもである。月から生まれた貴種であり、「貴種流離譚」と言いますが、廻っていって最後に王になるというものです。特別な英雄は「俸大な月の男」と呼ばれました。古代の人は月の中にウサギではなくて男が住んでいると見ていたのです。その男が下界に降りてくる。たとえば、黒い隕石などは月からの贈り物として保存したし、日本の竹取物語では女の子が月から贈られてくるんですね。その多くは男が下界に降りてきて悪魔と戦って、やがて月に帰っていくという話です。

 

 聖書の中にノアの洪水の話がありますが、これはあきらかにチグリス・ユーフラテス川を背景にした話です。「ギルガメシュ叙事詩」というのがあって、その中にギルガメシュ(Gilgamesh)という英雄が出てきますが、彼が悪魔を退治する話があって、それとこのノアの洪水の話が密接に関連していると言われています。なぜなら、イスラエルの方には大きな川はありませんので洪水なんて起こらないわけで、したがってどこかからとってきた話というわけです。ノアの箱舟は、ご承知のように、洪水になった時に義人であるノアだけが神から知らされます。「これから洪水があるから、それに備えて箱の舟を作ってひとつがいの(これはあとから作った話ですが)動物を全部入れて40日40夜入りなさい」と。世の中が著移と逸楽に耽っているので神はすべてを亡ぼして、義人のノアだけを救うという話ですね。この箱舟(アーク:ark)というのは月のアーク(孤)という意味ですから、月と関係を持っていることが分ります。これは先程の箱の話と結びつくわけです。

 

 タンムズは土の中に入っていって、そして夜になると月の舟に乗って航海している、という話があります。月の木を松の木と言い、松の木を崇拝する所がありますし、松の中から人が出てくる話も北欧の方にたくさんあります。クリスマスの樅の木の信仰もこれと同じようなものです。春になって木の生命が帰ってくる時に中に子どもが生まれる。樹精ですね。そういうことから、後に棺を作る時には松で作って、死んだ人をその棺に入れて葬るという習慣が生じます。それからまた、わらで作った人形を木とともに燃やす。キリスト教の中の十字架による死はずっとさかのぼっていくと、イシスのお祭りに起源があって、燃すことによって、犠牲にすることによって、もう一度次の世界の後身というか、世界全体を救えるという「死と再生」のドラマに変わっていくと言われています。ノアの箱舟もその中に小宇宙が全部入っているわけでして、やがて水が引いた時にそこから一切のものが出てくる。これがもう一つの側面です。

 

 穀物神、食物神とか、いろいろなものが後にスカンジナビア、イギリスなどに入ってきます。日本にもおそらくシルクロードを通ってそういう信仰が入ってきて、現在発掘されたいろいろな物から、その時代にどんな呪術があったかが分ってきています。その時に母性的なものの豊穣性、これが農業と密接に結びついていたのであって、戦後の日本で農業と結びついていた豊穣性が、高度工業社会の中でもう一度復活してきたとも考えられます。とくに近代の高度産業社会では、反対に父親の力がいろんな面で制限されてきています。たとえば、職場が父親と子どもとでは離れてしまう。あるいは父親から宗教的な機能が失われてしまう。ですから父親の権威はますますなくなってきています。残った母親の機能が古代的なものと結びついて、その豊穣性が復活してきたという考え方もできるわけです。

 

 ところが問題は先に述べましたように、母性性の否定的な側面が出てきたことです。この否定的側面とどういうふうに対決しながら個性を成り立たせていくかということが次の課題になってくるのではないか。この時に古代社会では、月の神様から太陽の神様への大きな転換があったわけでして、今日もわれわれは太陽暦をもって太陽の恩恵に浴して生活しているわけですが、その転換がどの位大きな転換だったか、その時に何が新しく付け加わったのか、このことが今という時点の、とくに日本で太陽(父性的なもの)が弱く欠けている中で、どういうふうに日本人の個性化を促進していくのか、あるいは阻害していくのか。少なくとも何をやらなくてはならないか、その展望を見い出していくことが、私は一番大きな問題だと思います。

 

 これを最近の考え方で言えば、ポスト・モダンの課題だと思います。われわれは古代のことを考えるからといって、もう一度古代に返ることはできない.われわれは意識が発達し、理性が発達し、論理も発達して、法律が網の目のようになっている時代にあるわけで、どんなに女神を洗練してもこの現代文明を抜きにして考えていくことほどうしてもできない。しかしこの深層にある母性的なものともう一度どういうふうに交渉し、意識がその力をどう使うかが大きな問題だと思います。

 

 これからは二つの事をどうしても考えないといけない。一つは女性の力。男性の社会は次第に終ります。すべて法律によって決め、すべて同じように行動させていく、それがコンピュータによってどんなに細かくなってきても、まだどこかにキメの荒さというものがあります。そこで女性の力を使う。今まで使わなかった力を、個性化という観点から使っていくことができるのではないかと思います。それが証拠に、ファッション界などでは科学技術がずっと進んでいる世界をかいま見ることができるし、また今まで使わなかった繊細な感情――私たちは感情というとすぐ悪いもの、いやな感情、恨みなどしか呼び出せなかったのですが、そうではなくて、楽しいとか、素晴らしいとか、うっとりするようなもの、優雅な感情――をもっと開発していくことができるのではないかと、私は今思っているわけです。

 

 この夏にチューリッヒに行きまして、ジェームス・ヒルマン(Hillman,J)という私の分析家の連続講演を聴きました。その中でアフロディェティ、アテネ、ヘラ、アマゾンなどともう一つ、私も含めて誰もが全く注目していなかった神様を教えてくれました。それは“へスティア”という神様です。ギリシア神話の本にもほとんど出てきません。これには興味がありました。とくに心理療法をする人間にとっては興味深い神様です。古い神様でありまして、灰の魂みたいなもので、ローマの時代になると塩のひと塊となります。なぜ灰かと言いますと、彼女は竈(かまど)の神様なんです。もともと人間が暗い中で生活していた時、最初に必要だったのは竈でして、その竈で暖かさを表現していましたし、竈でものを煮たり焼いたりするわけです。そこでその竈を中心として家族ができ、暖かさができる。このヘスティアというのは、やはり処女神であり結婚していません。ポセイドンなどから求婚されるのですけれど、その度に拒絶します。それでも彼らが追いかけてくると彼女はゼウスの所に逃げて行き、そこで生涯結婚しなくてよいと許されるわけです。ただお前は人々を暖めろ、そして人々が捧げた捧げ物の最初の部分、初穂をお前にやると言われたのです。それで人々から尊敬を受けて、いろいろなお祭りではヘスティアに仕える修道女の一団が行列の先頭の松明を持っていく。このような女神なのです。

 

 私はこれは女性の原始的で、単純かもしれないけれど重要な機能だと思います。これはまたセラピストが持っていなければならない機能ではないかと思います。この熱は、雷のように熱く瞬間的なものではなくて、落ち着いたトロトロとした熱でして、ラテン語では「フォコス」(フォーカスをあてる)という意味で、生活の焦点であり、意識の始まりであり、そこに家族ができ、人間的な結びつきができあがっていく。ローマの町はヘスティアの神殿を中心としてできています。野蛮な所にヘスティアを中心としてポリスという町ができていくというわけです。公的な祭壇が町にあり、家庭は私的な祭壇として発達していくわけです。今はどこへいっても近代的な台所で、家庭から「かまど」の神が失くなってしまって、暖めるものもなく、どこにも焦点もないし、人をもてなすものもない。人をもてなして迎え入れるという側面は、こよなく女性の機能でした。親しくなるということは、アフロディェティの神のもとでは性愛となりますが、この神様のもとでは必ずしもそうではなく、人間が近寄って親しくなり、暖め合い、心が通じ合う、こういう女神もまたいたわけです。

 

 その他たくさんの女神がいました。一般に女性が非常に豊かであるとじように、女神にもいろんな種類があったということです。これを今後もっと研究していきたいと思っていますので、いずれまたお話し申上げることもあるかも知れませんが、今回はこれで失礼させていただきます(6)。

 

 

 

※本論文は、1986年2月15日、山王教育研究所主催の「山王サイコセラピー・セミナー」において、「女神の元型」と題されて行われた講演をまとめたものである。

 

 

 

(1)Erich Neuman, Ursprungsgeschichtedes Bewusstsein, Waiter - Verlag AG Olton, 1971 エーリッヒ・ノイマン『意識の起源史』上・下 林道義訳 紀伊之園屋書店1984・1985

 

(2)ジグムント・フロイト『人間モーセと一神教』高橋義孝・生松敬三他訳 フロイト著作集11文学・思想編Ⅰ人文書院1984

 

(3)河合隼雄『母性社会日本の病理』  中央公論社1976

 

(4)マンリ・P・ホール『古代の密儀』大沼忠弘他訳 象徴哲学大系Ⅰ人文書院  1980

 

(5) Marie - Louise Yon Franz, Apuleius' Golden Ass, Spring Publications. 1970

 

(6)M・エスター・ハーディング『女神の神秘一月の神話と女性原理』樋口和彦・武田憲道訳 創元社1985 を参照されたい。なお、この講演はその多くをこれに依っているので、参照されたい。

 

 

 

 

 

あとがき

 

 

 

 講演というものは、私はいつでも、会場にわざわざ来てくださる聴き手と一緒になってその場で出来上るものだと思っている。だから、一回限りで、悪い言い方をすると、恥のかき捨てというところもあるかも知れない。だけど、演者の顔をみながら話を開いてくれる方々は、じつは、彼は今日多少無理しているなどかがよく分るのであり、そういう誇張や嘘なども見破る聴衆の眼力のもとでこういう講演が成り立っているのであろう。質問もでき、話半分に聞けて、そこが講演の面白いところでもあると思っている。したがって、日をへて、これを再び活字に起こして、読まされ、訂正させられるのは、私にとって苦痛この上ないことであった。悪いけど、手に触れたくもないという感じなのが正直なところである。直すとなると、全部直したくなるし、いや、もしかすると私全体が問題かも知れぬと思ってゾッとするほどである。

 

 しかも、『永遠の少年』などは、山王サイコセラピー・セミナーで1981年になされたもので、5年も前でもうすっかり忘れていたほどである。それに反して、『女神の元型』は今年の2月(1986年)にやはり山王教育研究所主催の講演会に行われたものであり、これはまだ新しいので、さすがに憶えている。しかし、いずれにしてもこうしてみると、せっかくならもう少し補って内容的にも整備してと思うのが人情というものであろう。とは言え、一方では、そんなことをしたら私という人間は一生かかっても完成しないだろうというもう一つの私の内なる声があり、残念ながらそれも事実なのである。

 

 幸いか、不幸にもか知らないが、テープが残されており、しかも、それをコツコツと起こして文章にされた方がいられた訳である。本当に大変なことだったろうとご推察申し上げる次第である。ともあれ、文章となって送られてくると、苦しみは伴うにせよ、とにかく一通り読めるようにしておけば、また誰かのお役にも立ち、面白がって読んでくれる人もおり、なによりもこれから心理療法を志す若い方々の勉強の何かの刺戟になればと思って、小冊子にしてみることにあえて同意したのである。読みかえしてみて、もう一度言うが、講演に参加してこれを聴いて下さった方々に改めてお礼を言いたい。あくまでも、お萌が一人一人目に浮かんでくるような同じ心理療法の道を歩む親しい方々のサークルで興にまかせてお話ししたもので、省略や無言の理解が前提になって話が成り立っていたことをつくづく感じる。また、そういう場所があった幸を再び噛みしめているところである。

 

 山王出版の田中秀昌さんに感謝したい。実に忍耐強く、これが日の目をみるのを待ってくださり、完成にこぎつけて下さったからである。もちろん、この講演を可能にしてくれた山王教育研究所の方々、それにとりわけ、小川捷之先生に謝辞を捧げてあとがきとしたい。

 

1986.8.25

 

樋 口 和 彦

 

 

 

(「永遠の少年」元型/女神の元型    THE SANNO CLININAL SERIES (有)山王出版 1986年)